「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2018年12月25日火曜日
(連載4)4-5連鎖する宇宙
「永遠に存在する無」と
「無が無限大に連鎖する世界」は
「同じもの」である。
その為に異なる場所(次元世界)に
「同じもの」として
無と点(存在するのに存在しないもの)は同時に存在する。
更に
「永遠に存在する点」と
「点が無限大に連鎖する線世界」も
「同じもの」である。
点の無限大の連鎖と
線世界はこのように
同一の概念を重ねながら
別々の概念世界として同時に出現する。
無の無限大に連鎖する0次元世界。
点の無限大に連鎖する1次元世界。
無と点は「同じもの」である。
その概念が重なる為に
同時に、しかし別々の世界の中に
それぞれが「同じもの」として存在する。
同じ「あるのにない」もの。
同一であるもの。
同じものである為に、
異なる概念世界に同時に無として存在する。
これが実体概念の重なりによって、
新しい次元世界が出現する原理である。
「長さ」を持たない点は「存在するもの」ではない。
面積を持たない線も「存在するもの」ではない。
世界は未だに連鎖する無なのだ。
点の無限大の連鎖は線ではない。
線の中に点は存在しないからだ。
この両者は元々、概念としての存在する世界が異なる。
これは「同じもの」である。
異なる宇宙の
同じものなのだ。
全ての宇宙が
「存在する無」と等しく無に回帰する。
「この世界には何も存在しなかった」
だからこそ無の連鎖は続く。
無と等しい点の連鎖も続く。
無と等しい線の連鎖も続く。
こうして連鎖は存在として認識されていく。
この連鎖が力学なのである。
2018年12月18日火曜日
(連載4)4-4世界の誕生
点は実体である。
点はあらゆる「存在するもの」の部分を持たない。
すなわち点は「存在しないもの」として
「存在する」。
つまり点それ自体が「存在する無」であり
0次元宇宙なのだ。
そしてこの「存在する無」が
永遠に継続する状態として「線(完全無)」の概念世界はある。
点の内側にある概念は
「どこにも存在しない無」である。
そのために点は
体積や面積、長さなどの全ての部分を持たない。
点の外側にある概念は
「確かに存在する無」である。
そのために点はそこにある実体として
この場所に間違いなく存在する(実在)。
そして「全ての概念が無である」という
0次元世界と同じ状態として、
「点という無の無限大の連鎖」である線世界が、
「完全無の世界」として同時に存在するのだ。
これが概念の異なる同じ世界の発現、
次元世界の最初の分岐である。
点の無限大に連鎖する線世界は
「存在する無の無限大に連鎖する世界」として
「線の概念世界」すなわち完全無と同じものである。
このように「存在するもの」の全ての原因は、
無限大に連鎖する無の概念、完全無にある。
だからこそ「存在するもの」は
その全てが「存在しない」のである。
「存在する無」が「完全無という世界」と同じものであるように、
実体(無)は実体の無限大の連鎖(完全無)として
異なる概念世界を生み出している。
それが等価原理として発現する。
こうして世界は
多重次元構造によって形付けられ、
同じものとして働く力学に支配されている。
これが現実世界の根本的な構造である。
存在する無は点である。
従って点が0次元世界なのだ。
「点の奥行き」には既に永遠があり、
点は決して存在するはずのない「存在するもの」である。
点の概念は、
無が存在する、無が永遠に存在する、
という「無しか存在しない世界」である。
そして「無が無限大に存在する世界」、
この概念が点の無限大の連鎖であり、
無のみを構成要素として成立する世界、
1次元線世界である。
すなわち点は「存在する無(実体)」であり、
全ての始まり、存在するものの全ての原因である。
更にそれと同じものとして生まれた線も、
点が存在する、点が全ての概念に無限大に存在するという
0次元世界(無)と「同じもの」として、
線の概念1次元世界(完全無と同じもの)をそこに構築している。
実体の内側の概念(存在する無)と
外側の概念に向かう力学(全ての概念が無である世界)、
これが同じものとして
次元世界の存在する唯一の理由なのだ。
これが世界の始まりである。
「無(個の概念)が完全無(全の概念)と同一であること」
これが存在であり、力学である。
2018年12月11日火曜日
(連載4)4-3完全無という世界
このように「完全無」が理解できれば、
時間や空間も存在しないはずの世界に起きる「ゆらぎ」や
ましてや「ビックバン」など、
そういった仮説自体に誤りがあることには
我々もすぐに気がつけるはずである。
そして物質が存在しない状態だけを「無」として定義するのであれば、
確かに存在するはずの「時間」や「空間」に対しては
全くの認識破棄であり、
その後我々が都合よく空間や時間を扱おうと試みても、
正しく組みこめるはずもないのである。
その誤った認識は、
すでに知識にとっては致命的な欠陥である。
では「完全無」が永久に閉ざされた世界だとして、
それ自体で完結するものであれば、
なぜ我々の宇宙は「現実に」存在するのだろうか。
はじまりが「無」である以上、
この世界には何も存在しないのではなかったのか。
これが人類の前に長らく立ちふさがった
「知識の壁」である。
「存在する無」は「何もない」という意味ではない。
そこには「完全無という世界がある」という
「同じ概念」が生まれている。
「ないのにある」
「あるのにない」の同じ概念。
完全無として、ないはずのものが
永久に継続する現実世界の出現。
永遠に続く無。
永久に連鎖し続ける無。
それが「実際に存在する世界(次元世界)」であり、
この「存在する無(ないのにある)」の概念が
実在する「実体」の正体である。
存在しないものが
確かに存在する世界。
つまり実体(存在する無の概念)があること、
全ての概念が実体の連鎖(永遠に続く存在する無)であること、
これが世界の大前提なのだ。
「無」は「全く何もない」という概念が
「全てにある(あらゆる概念に永久に続く)」という状態世界を
そこに創り出している。
この「無(の概念)」が生みだした「無の永久に連鎖する世界」、
それが「完全無(の世界)」である。
(無と完全無は同じもの)
したがって「完全無」とは
無限大に連鎖する「無の概念」であり、
そこには「永久に続くないのにある」という概念世界も
「同時に」生まれている。
(「同時」であることが重要。
これは実体と実体の連鎖が「同じものである」という理解である。
新しく生まれてきた完全無の世界も
最初から存在する無と「同じもの」である。)
これが点と呼ばれる最初の実体(あるのにない無の概念)と、
点の創り出す線(永遠に連鎖する点)の概念世界(次元世界)が
出現する、その理由である。
全ての部分を持たないのに存在する実体は、
存在する無と「同じもの」である。
無こそが
全ての部分を持たない実体の
本質なのである。
2018年12月4日火曜日
(連載4)4-2「存在する無」の世界
「この宇宙には何も存在しなかった」
では宇宙の起源に存在する「無」とは、
一体どのようなものなのだろうか。
我々は全ての知識のために、
そしてあらゆる存在を理解する為にも、
まずはこの「無」を理解することから始めなければならない。
これより次元理論(大統一理論)は、
この「無」を理解するために
一気に知識の深淵へとおりていく。
読者の皆さま、
どうかしっかりと私について来て頂きたい。
『無を理解することは
全てを理解することである』
始まりに「存在する無」
「無」には大きさ、広さ、長さ、時間、
「あらゆるもの」は存在することはできない。
ゆえに「無」に変化は起こらない。
つまり「無」はそれ自体で
「永久に完結した現実」である。
この「無」に変化を期待することは愚かであるし、
そこから抜けだせる存在もあるはずはない。
したがって「この宇宙には何も存在しなかった」ということは、
今もなお「この宇宙は永久に無でありつづける」ということを意味する。
無は永遠に無であり、
すなわち無限大に全ての概念が無である。
しかしこの無に対する認識で
我々が理解しなければならない性質は、
「無が存在する」という事実である。
「無が存在する」とは、何もないということではなく、
その何もない状態が「ある」、
つまり「存在する」ということなのだ。
すなわち永久に完結した否定概念としての「存在する無」は、
「無が永久に存在しつづける」あるいは
「全ての概念に永遠に無が存在する」
という肯定世界をそこにつくり上げている。
無が果てしなく全ての概念に存在する状態、
これが「完全無という世界」である。
「全てがない」という状態が「存在する」世界。
この無の存在する世界が
次元理論で宇宙を認識するときの最初の宇宙、
「0次元世界」である。
0はあるのか、ないのか、
というのは我々の好きなレトリックである。
しかし「存在する無」は現実の世界なのだ。
我々の知る現実世界の大前提として
「この宇宙には何も存在しなかった」
という事実が先立つ。
この章ではのちほど、
現実に存在する「存在する無」と「実在する概念世界」を
直接皆様へと提示する。
この「実在するもの」とは、
現実世界の概念を支えるために必要となる
「異なる次元世界での現実」である。
「次元世界が生まれる」こと。
これこそが
「存在する無」の存在する証である。
何にとって何が無なのか、
同じひとつの「存在する無」が
どれほどの異なる概念と等しいのか、
その無の存在する姿に
科学は迫るものでなくてはならない。
「この宇宙には何も存在しなかった」
それは「無が存在する」ということであり、
「全く何もない」という状態の世界が「ある」、
すなわち「存在する」ということである。
つまり「存在する無」においては、
閉じた状態が「無の存在する状態がある」であれば
開いた状態では
「全ての概念が永久に無でありつづける完全無の世界が存在する」
ということである。
これは同じことではないのか、
皆さまの中にはそう思われた方もいるだろう。
そのとおり、全く同じことである。
閉じた開いたという言葉に惑わされる事なく、
世界の始まりに「無が存在する」という事は
「世界は完全無である」という認識と同じ意味である。
このように次元世界では
「無(個の概念)は完全無(世界・全の概念)と同一」である。
単独で唯一の概念「無が存在すること(個)」は、
あらゆる全ての状態が無として存在する
「全てが無の概念世界が存在する(全・完全無)」
ことと同じ意味である。
この無の概念は、
その後の全ての次元世界に共通する基本原理として
あらゆる宇宙を統括する。
これが「存在する無」という実体(個)が
「無の概念世界」(全)を生みだす原理、
次元世界の発現である。
この「完全無」の概念は、
現在も進行形で現実世界として「無」であり続け、
「無」は今もなお「完全無」として
「0次元世界」に存在する。
つまり全ての次元世界の土台となるのが0次元世界、
この「完全無」なのだ。
まとめ
「存在する無」には
その内側に含有される「永久に無が続く」状態と
その外側を統括する「全ての概念に永遠に無が連鎖する」状態の
2つの「無の連鎖する方向性」がある。
これが次元世界の最初の分岐である。
2018年11月27日火曜日
(連載4)4-1始まりの無
第4章
存在する無
4-1始まりの無
この宇宙には何も存在しなかった。
それが「全て」のはじまりである。
そこには時間も空間も、
「何か」も「誰か」も、
決してあってはならない。
もしも「何か」が存在するのであれば、
その「何か」はなぜ存在するのかを、
我々はまた理解しなければならなくなる。
それは「誰か」の存在についても同様である。
従ってこの宇宙が誰かの所有物でない限り、
そして我々がその存在を理解するためには、
この宇宙に最初に存在するものは
「無」でなければならない。
「この宇宙には何も存在しなかった」
すなわちこれが全ての原始に位置する
「始まりの無」である。
この宇宙のはじまりが「無」であるということ、
それがあらゆる知識のおよぶ限界点であり、
科学の出発点である。
したがってそれ以上の詮索は
我々人間には出来るはずもなく、
ここが宇宙と
その全ての知識の始まりとなる。
つまりこの世界におけるただ一つの真実は、
「この宇宙には何も存在しなかった」
という唯一の現実なのだ。
そしてこの「無」を理解することでしか我々は、
この世界を理解することはできない。
現代宇宙物理学においても「始まりの無」に対する認識は
次元理論(大統一理論)とも一致する。
けれどもその「無」に対する正しい認識が
現代科学ではまだ確立されていないのである。
例えば標準理論とされるビックバン理論では、
物質がない状態だけを始まりの無として認識する。
これは「次元理論(多重次元構造を持つ宇宙理論)」の始まりの
「時間や空間さえ存在しない完全なる無の世界」とは
全く異なる。
私がこれから語るのは大統一理論である。
時間や空間だけが特別では困るのだ。
もともと時間や空間の存在を度外視したビックバン理論では
全てを統括する統一理論など、到底解読出来るはずはない。
ましてや「宇宙の始まりには時間と空間がありました」では
「宇宙の始まりには誰かがいました」理論とも
何ら変わりはないのである。
例え現行の宇宙以前に
虚数宇宙や定常宇宙があったとしても、
その全ての最初の始まりが理解できない限り
世界に対する人間の謎は永久に消えないのである。
現実には、空間や時間もこの宇宙の一部分として
我々と同時に存在する「力学」である。
既に現行の物理学においても
時間や空間が縮む、ゆがむ等の現象は、
十分に確認している。
それらは力学の影響下にある
確実に存在する概念なのだ。
時間や空間は条件によってその形状を変える。
けれども現代物理学のように
時間や空間に理由を持たせず、
最初からそこにありました、では
その先に展開があるはずもない。
(ビックバン理論は物質の始まりだけを
宇宙の原始として考察する)
もはや時間や空間の変化を伴わない物理学は
科学の進歩にたいする弊害ですらある。
我々も本当の知識を見つけだす為には
偏見と無知とをふりはらい、
自分達のあつかう「科学の正体」を見極めなければならない。
その為にも
「この宇宙には何も存在しなかった」
そこから全てを始めなければならない。
ビックバンが始まる「場所」も
始まるという概念が存在する「時間」も
全てがない状態で宇宙は生まれたのだ。
ないものがある、
という「存在する無」として。
これが実体(あるのにないもの)の始まりである。
2018年11月20日火曜日
(連載3)3-6さあ、科学を始めよう!
では少しづつ
まとめていこう。
まず点の実体が構築するのは線の概念世界である。
つまり線世界の構成要素は点ただ一つ、
これによって線世界は1次元世界である。
線は点の「あるのにない」という概念の連鎖(部分)を
与えられて「存在(する世界)」となる。
「あるのにない」の無限大の連鎖、
この段階で線は純粋な長さであり
「点の無限大の連鎖」と「同じもの」である。
次に出現する面世界は、
線の概念世界によって構築される。
その構成要素は線であり、
面は無限大に連続する線(実体)である。
つまり線とその線が含む点の二つの実体が、
面世界の構成要素である(もちろん点と線は同じもの)。
この為に面世界は
2つの概念が構築する「2次元世界」である。
最後に点と線と面の
三つの構成要素を持つものが空間である。
無限大に連鎖して積み重なった面の概念世界、
これが「同じもの」として空間なのだ。
構成要素が3つであるために3次元世界、
それが空間である。
(物質世界は3次元空間概念ではない。
空間世界には点と線、面しか含まれないのだ。
逆に物質概念が点と線、面、空間を含む。
つまり物質概念は3次元世界のさらに外側にある。)
このように我々は、その対象となる宇宙が
「いくつの構成要素を持つ世界なのか」を知らなければ、
「存在するもの」の全てを理解することは出来ない。
空間だけでも点と線と面の三つの構成要素を持ち、
それぞれの部分はその空間概念と共有しながら
同時に存在する。
点の連鎖は線、
線の連鎖は面、
面の連鎖は空間、
すなわち全てを「同じもの」として。
(もちろん空間も連鎖していく。
これはなんだと思う?)
このように我々の宇宙は、
現実に多重次元構造によって成立する。
「同じひとつのもの」であるはずの実体が
その連鎖によって、さらに異なるものとして
それぞれの中と外に違う概念世界を
同時に存在させているのだ。
(点がその内側に無限大の奥行きを持つことや
点の連鎖が無限大の広さを生み出すことも、
「ひとつの実体」の異なる姿である。
その事が同じ実体の内外に異なる概念世界を
創り出している。)
そして点という
一つの構成要素のみで成り立つ線の概念世界が1次元線世界、
点と線の二つの概念で創られた面の概念宇宙が2次元面世界、
点と線、面の3つの構成要素をもつ
空間世界が3次元空間世界である。
つまり点、それ自体は0次元なのである。
(実体の始まりが点である。)
これが世界を正しく理解する為の知識であり、
次元世界の生まれた理由、
「多重次元構造」を持つ宇宙の真実の姿である(次元理論)。
そしてこの全ての存在に先立つ実体、
0次元として全ての始まる場所が
モナドとしての点である。
点は体積や面積、長さや時間、あらゆるものの部分を持たない。
しかし点は、確かに存在する実体である。
そして点が実体であり、存在しない概念だとしても
線の中に、面の中に、空間の中に、
確かに点は実在する。
(従ってこの先の全ての次元世界の中にも
点は同じように必ず存在する。
これは例えば、時間世界における
今という「存在しない時間の概念」である。
この今は
点と同じように長さの部分を持たないものでありながら
その連鎖によって時間の概念を創り出している。)
存在するものと実在するもの、
存在と実体、
この世界の構成要素と
その次元世界という呼び方について。
我々は知識と、その理解を深めなければならない。
部分を与える、部分を持たないという
世界の基準となる存在のあり方、
その概念の始まりの最初から全てを
我々は理解しなければならない。
線世界は長さの概念世界である。
その為にの点の概念とは
「存在する」次元世界が異なる。
そもそも範囲を持たない点は
存在するものではなく実体なのだ。
(全ての実体が何かの範囲を持たない。)
そして点が存在するものであれば
線世界は存在しない概念世界であり、
線世界が存在するものであれば
点や面世界もそれぞれが概念世界として
存在しない実体である。
これはそのそれぞれが存在する
概念世界(次元世界)が異なる為であり、
一つの概念世界が存在するものであれば、
それぞれの概念世界もその部分として、確実に、同時に、
異なる概念世界の中に実在する。
つまりあらゆる実体は、
複数の概念世界にまたがり
同時に存在する「同じひとつのもの」である。
(これがモナドとしての実体の考え方である)
全ての存在が
「あるのにない」「ないのにある」という
実体としての部分(本質的な存在要素)を与えられ、
その存在の内側にも必ず実在である実体がある。
我々はまず点と線が
同一世界の住人だと誤解していた。
そしてその理解から科学を始めてしまった。
なにより数学における点や線は、
数列を分かりやすくする為の
人間の発明品であり工夫である。
その「表現」を科学の始まりに置くこと自体
まず科学ではないのだ。
実際の点は「あるとない」の概念しか持たない実体であり、
線も「長さの概念」しか持たない実体である。
その上これらは、別次元の概念である。
これはそれぞれの存在する概念世界が異なる
ということである。
ただそのそれぞれの概念世界も、
互いに部分を与え合うことによって同時に存在する。
本質的に実体は「同じひとつのもの」であり、
だからこそ
そこに等価原理が生まれるのだ。
つまり原理は始まりではなく
正しい理由を持つものである。
正しい原理であれば
その全てが正しい存在理由を持つことだろう。
その事実を理解せずに、
未だ数列の中に点を探すような現代物理学には
到底本当の答えは導けない。
それに対して
この次元世界の重なりの
ひとつ一つを理解して構築する科学、
それが次元理論である。
その知識の積み重ねはやがて、
次元理論を大統一理論へと導いていく。
だがひとまずここでは
存在という言葉が実は相対的な意味合いを持つ
ということをだけを理解して頂ければ
それで良いと思う。
つまり「実体がある」という認識である。
この世界の最大の秘密はもっと深い場所にある。
何故、実体があるのか。
何故、実体は連鎖するのか。
点に内側と外側があるのは何故か。
それ以前に点とは何か?
まずはそこを理解していかないと
次元世界の本当の繋がりは見えて来ない。
知識は覚えるものではなく、
事実を順番に理解していければ
それが知識である。
知識の生まれた理由を理解するのが
肝心だ。
それでもまずこのように
「線の中に点は存在しなかった」というその認識だけでも
十分に価値ある革変である。
この為に数列における全ての点は
円周率πのように、
その場所を特定することの出来ない
無理数である。
全ての点が、である。
全ての点が、無理数であり、循環少数なのだ。
例えそれが実数であったとしても
全ての点はどれほど拡大を続けても
永久にたどり着くことが出来ない実体である。
実数だから存在する、
無理数だから特定出来ない、
これも数学がもたらした
我々の理解への弊害である。
「あるとない」の概念を宿した点。
その点の無限大の連鎖である線。
点は存在するものではなく、
長さの概念だけが存在する線世界。
だがその線世界も線の無限大の連鎖、
面の概念においては「存在しないもの」である。
存在するのに存在しない。
あるのにない。
その認識が変化していくのは
我々の宇宙が次元世界だからだ。
そしてその次元世界を生み出したのが
点という最初に存在する実体である。
存在する点が最初の
存在しない実体である。
このように「あるのにない」という実体(モナド)は、
「存在する」全ての概念を飲み込んでいく。
次章より次元理論は
この世界を理解する為に
さらなる知識の深淵へと展開する。
そこは最果ての宇宙にある、
知識の始まりである。
この宇宙の始まりは何か。
宇宙はどのようにして誕生したのか。
全てが生まれ、全てが存在しない
究極の宇宙、0次元。
それは果たしてどこにあるのか。
ではいよいよ本当の科学を始めよう。
2018年11月13日火曜日
(連載3)3-5力学の正体
面の概念世界に長さの部分(存在)を与え、
しかし面積という部分を持たない概念、
それが「線の実体(モナド)」である。
点の集合体として存在し
面積を持たない為に面世界における存在ではなく、
しかし現実に
面の概念を構築する唯一の実体、「線」。
点という「始まりの実体(全ての存在を持たないモナド)」から
線の実体への移行、これは実体概念の拡大である。
では「拡大する概念」とは何か?
あらゆる方向性へと常に拡大する実体、
だがそれはまだ先のテーマである。
この章では更にこの実体の変化を
追いかけてみよう。
複数の面の概念が創り出す世界、
それは空間世界である。
(無限大に積み重なった面の概念が空間である)
この為に空間概念は
「面の部分」によって構築される。
けれども空間の中に存在するとは
体積を持つ事である。
空間の中にその専有部分、体積(あるいは容積)を持つこと、
これが空間における「存在」なのだ。
当然面の概念は、
その空間の部分としての体積は持たない。
面世界は既に「空間の構成要素」であり、
それは空間と「同じもの」である。
すなわち空間世界に面の部分(存在)を与え、
空間の体積を持たない実体、
それが実在する面世界である。
点は実体。
線も実体。
面も実体。
このように「存在するもの(実在するものが存在となる場所)」は、
どの概念世界に基準を置くかによって
常にその立ち位置を変える。
存在したはずの点が
線の中では存在ではなく実体であり、
この線もまた、面の中では存在しない。
面世界もまた体積を持たない為に
空間概念における存在ではなく、
今度はこの面が
概念しか持たない実体となる。
この実体をモナドと解釈すれば、
「部分を持たない最小の単位モナド」が
「同じもの」として
どんどん拡大していくことに気付けるだろう。
連鎖するモナド。
モナドはその連鎖によって
「同じ実体の広がり」だけではなく
「実体の奥行き」と
「新しい領域の拡張」と
常にあらゆる方向性へと
概念を拡大するものである。
ここで取り上げた、点、線、面のいずれもが、
実体として同じ
「部分を持たない究極の最小の単子」である。
そしてその全ての始まりが、
モナドとして存在するただ一つの実体、
点なのだ。
では点とは
一体何だったのか。
あらゆる実体は部分を持たないために
お互いに存在を与え合い、
お互いの実体を創り出す、
存在するのに存在しない同じモナドである。
実体は複数でも単数でも同じものであり、
その為に点は面世界と同一で、
線の世界とも同一である。
ここに科学的な意味をもつ
アインシュタインの等価原理が
既に始まっている。
概念の異なる存在が、
実は全て同じ「存在するエネルギー」
を持つこと。
そして後述とさせて頂くが
この「実体の連鎖」が存在と認識され、
その概念を創り上げる根本的な「力学の正体」なのだ。
もともと世界には存在などなく、
実体の連鎖としての力学のみが
「概念としての型式」を構築していたのである。
このように少しずつ「存在」を理解していけば、
この世界が「実体」によって構成されている事が
浮き彫りとなるのだ。
そしてここに生まれた(一つの実体をあらゆる方向から取り囲む)
「実在する概念世界」が次元世界である。
これまでの我々は
次元世界の意味も、点や線、面積が何かも知らず
ただ公理という理由において
これらの概念を扱ってきた。
それらの意味を考えもせずに、
そこから知識が始まるものとして。
理解していない事は分からない。
その為に現代の科学は、
問題の先送りという負の循環に陥っている。
線の奥に点はない。
面の中に線はない。
空間の中にも面は存在しない。
それらは常に「同じもの」なのだ。
つまりこの世界は単純で
実に純粋だったのである。
整理すると次元世界は、
その世界の構成要素、
つまりその世界を現実に構築する実体が連鎖した
(部分を与えられた)概念世界である。
実体の連鎖する理由について(力学が存在する理由)は
また別の章で取り上げるが、
全ての実体それ自体に
内側の概念世界と
外側の概念世界が
同時に「存在していた」のである。
2018年11月6日火曜日
(連載3)3-4次元世界の誕生
ここまでは実体の一例として、
「点が実在すること」と「線の実在する世界」の二つ概念を
取り上げてきた。
線世界の構成要素が点であり、
線と点は同じ概念上に同時に存在するものではない。
なによりこの両者はまず「同じもの」であり、
「存在する概念世界」の方が
異なる(次元世界の分岐)のである。
(点と線は同じ実体の内側と外側である。
しかし「点の内側へと向かう無限大の奥行き」と、
「点の広がりを示す無限大の拡大」は
「同じ点の領域」でありながら、
異なる方向性の概念である。)
点も線も
部分を持たない存在する非存在(実体)として
「同じひとつのもの」である。
そしてそこには
点を線とを同一のものとする「力学」が働く。
点の無限大の連鎖である線。
この「連鎖する力学」の理解が世界の真実である。
「ないものがある」
あるいは
「あるものがない」
このように点は
存在を持たない、唯一の世界に最初に現れた実体である。
今後は実体があることを「実在する」としてまとめるが、
それに対し「存在する」は
もっと同一的な接点をもつ観点である。
何に対して「存在する」のか。
「存在する」は、その世界に対して
部分(共通の範囲)を持つものでなければならない。
「実体」はその発現する概念世界(次元世界)によって
「存在するもの」あるいは「実在するもの」として
認識のされ方が異なる。
(全ての「存在する」は「実在する」である)
今度はその実例を見ていこう。
点だけが実体(モナド)ではないのだ。
線が存在する世界、
それは長さの概念世界である。
(構成要素が点、ただ一つによる1次元線世界)
この線の概念世界は
連鎖する点によってのみ構築される為(点と線は同じもの)、
線は点の部分によって成り立つ。
しかし点は、
線の存在である「長さの部分」は持たない。
その為に点は、線の概念世界における存在ではない。
こうして点は存在を持たない実体となり、
線は「長さを持つ新たな概念」として発現する。
だがここで新しく「存在する」と認識した線世界は、
今度は「存在する」ものだろうか?
点は存在しない実体なのに
その連鎖である線は、
確かに存在すると言えるのだろうか。
面の世界が存在する。
面の世界は複数の線のつながりが構築した、
広さの世界である。
(無限大に連鎖する線世界、それが面世界である)
その為に面は
線に部分(長さ)を与えられることによって成立する。
線と面は同じものである。
(この事実により長さ×長さで長方形の面積は算出される。
これも等価原理である。)
だが面の世界に「存在する」とは
面積を持つことなのだ。
面積の世界に存在する為には、
その概念は「面積という固有の範囲」を持たなければならない。
けれども線に面積の概念はない。
この為に線は
面世界に「存在するもの」ではない。
点の集合体として「存在した」はずの線が、
今度は面積の世界には「存在しない」。
線の連鎖として面積を創り出した線世界も
やはり同じ実体(モナド)なのである。
2018年10月30日火曜日
(連鎖3)3-3実体は科学
長さの概念を持たないのに、存在する点。
面積を持たないのに、存在する線。
体積を持たないのに、存在する面。
真に科学的な次元世界の定義は
その「構成要素」による。
力の方向性など、
後からとってつけた勘違いに過ぎない。
問題はそのベクトルが何故あるか、なのだ。
「存在する、存在しない」は
常にその概念世界の中で
認識されて議論されるべきである。
等価原理による理解では、
存在よりも力学の方が
この世界の本質である。
(ここにある、から始めるよりも
何故ここにあるのか、を我々は
理解しなければならない。
そして世界の全ては
必然性を持ってここに生まれている。
それを知るのが科学である。)
先の章では面積を持たない点と線は
存在するものではない、という論点をとった。
しかしここで扱う面積の概念も
空間世界では存在ではない。
空間における存在は
体積を持つことである。
つまり点や線だけではなく「存在すると定義した」はずの面も
モナドとして存在するものではないのだ。
もちろん新たな定義によって認識される空間も「存在しない」。
そのために時間世界は生まれている。(後述)
つまり点は「(面積や体積も)ないものがある」
という実体を示すものであり、
連続する「あるのにないの概念」は
新しく「長さの概念」として線世界を構築する。
この長さの概念も
点の概念をその部分(構成要素)として持つために
「連続して存在する点」としての「長さ」は発現しても、
そこにはまだ、存在としての面積や幅は与えられていない。
このように宇宙に初めて生まれた範囲は
長さ(連続して存在する点)であり、
「あるのにない」という点の概念は
既に線の存在と同化して線の(概念の)中に「同時に存在する」。
(これが我々の宇宙の
多重次元構造の始まりである。
リサ・ランドール博士は我々の宇宙を
シャワーカーテンに張り付いた水滴と表現する。
彼女は3次元、4次元世界の力学の関係性をそう理解したのであるが、
実際の物質世界は、
4次元時間空間世界を基盤にその後5次元物質空間世界に
発現したものである。)
同化、あるいは同一。
つまり「線」と「連鎖する点」は
異なる概念世界でありながら「同じもの」である。
この為に点と線は、
「連続する点」と「長さ」として
同じものであり、それは等価である。
これは線がその概念の内側に
「点の概念を合わせ持つ」ということである。
(点の概念の外側が線であり、空間である。
実体は内側と外側で含有する世界が異なる。
これが次元世界である。)
線の中に点は存在しない。
しかし線の構造の中には
存在する点(実体)が含まれている。
この為に線の概念も
面積を持つことが出来ない実体なのである。
あるのにない、
ないのにある、もの。
存在しないものが存在する。
我々は自分達の使う言葉を整理しなければならない。
線の世界を現実に構築する、
線の構成要素(部分として存在する)は点である。
(線は点の連鎖した姿、つまり「同じもの」である)
しかしながら点は、線の長さという概念の中には存在しない。
何故なら点は「長さの概念」を持たないからだ。
つまり点は線の中にある「実体」である。
存在するものではなく実在なのだ。
(実在…力学が等価として存在すること)
点は線の概念世界(次元世界)には存在しない。
しかし点は、
線世界の構成要素(部分)として
確実に線の中に実在する(同じもの)。
点は長さの形式を持たない(点は線の部分は持たない)。
しかし実体としての点は、
長さに部分(連続する点の概念)を与え
長さと同じものとして、線と同時に存在する。
「線と連鎖する点は同じもの」
その「存在」に対する概念は違っても
「同じもの」として
点と線は同時に(異なる概念世界の中に)存在している。
(次元世界…実体は一つの同じものである。
しかし存在としての概念世界の現れ方が異なる為、
概念世界の方が「異なるもの」として分岐する。)
このように実体(点)は現実に(線世界の中に)存在し、
事実、体積や面積、長さでさえ持たない点の概念は
確実に「存在を構築する力学として実在する」。
このように線世界は、
無限大に連鎖する点のみを
その構成要素として成立する。
そしてなにより大切な認識は
「実体」という概念が現実にこの世界を構築する「力学」だ、
という事実である。
(「連鎖」がキーワードである。
「存在と力学は同じもの」である。
だからこそ法則は生まれる。
この連鎖が力学なのだ。
何故連鎖があるか、については
この章ではまだ触れていない。
しかし本書のテーマは、
やがてこの力学へと移行する。
実体の連鎖、この力学こそが存在の本質である。)
2018年10月23日火曜日
(連載3)3-2学術としてのモナド
3-2学術としてのモナド
通常我々が認識する点は、小さな円である。
我々が点を認識し、その場所を特定できるのは
人間が勝手に点に「面積を与えた」為なのだ。
これは表現であって科学ではない。
この「表現」を数学の始まりとして
あるいは科学の始まりとして、
我々が認識してしまう、
それが問題なのである。
けれども実際の線の概念を生み出す
「点の要素」に、
面積はない。
そして線もその現実の姿は「長さの概念」であり、
幅や面積という要素は持ち得ないものである。
少なくとも面積と面積が交わらなければ、
そこに面積は生まれない。
果たして平面上に「面積を持たないもの(点や線)」が
本当に存在するといえるのだろうか。
線を構築する唯一の構成要素であり、
しかし線の部分を持たない「点」。
存在するのに
存在しない、の概念体。
この概念体は、数学者であり哲学者でもあるライプニッツによって
「モナド」として現代まで知られている。
(実際はもっと古くから見られた概念であるが、
現代までモナドを持ち込んだ人物がライプニッツである。
この存在しない最小値を探す視点が
彼の創作による微分法、積分法である。)
モナドは「部分を持たない最小にして究極の単子」である。
線の中にある「部分を持たない最小の単子モナド」は、
これが線の長さという部分を持たない単子「点」である。
これまで「モナドのことは聞いたことはある」が
「モナドとは何か」を理解出来なかった読者の方も、
このように線と点の理解からはじめれば
ライプニッツの単子論は意外と理解しやすいものである。
線のモナドは点。
ライプニッツによると
この世界は全てがモナドの集合体であり
その集合体も同じ「同一のモナド」として
統合される。
結果としてモナドは、
「存在するもの」の全てを統括する。
しかし現実には
物質の最小単位にモナドは存在しない、
そう思われてきた。
科学の発達による素粒子の発見などに伴って
モナドは哲学側のものとして分類されてきたのである。
(素粒子学等の「物質の最小単位を探す」という分野の研究も
発想は「存在の最小単位を探す」というライプニッツの発想と
同じものである。
存在を考えるにおいては、アインシュタインやライプニッツ、
そしてニュートンも同じルートをたどり模索している。
つまり世界を理解するためには
実体の科学やモナドを理解することは、
正統的かつ、合理的な手順である。)
けれども実際には、
物質は「存在する」限り必ず「空間の中に」
その固有の占有範囲を持つ。
つまり物質も空間の一部分なのである。
そしてその空間概念の究極の単子は
やはり現実に存在する点、モナドなのだ。
物質がある、という前提の前に必要な
空間があることに対する認識。
何故空間はあるのか。
時間とは何か。
物質の始まり以前の
空間の始まりを知ること、
これが宇宙の原理を「理解する」ことにつながるのである。
さてこのように理論を正しくすれば、
線をいくら拡大したところで
そこに現れるのは永久に線それ自体である。
線世界では、その線の最果てにあるとされる
点に行き着くことなどは、
絶対に出来ないことなのだ。
モナドとしての点は「長さの部分を持たない」ために
線の概念上には永久に「存在しない」。
では点はどこにあるのか?
線は無限大に連鎖する点が創りだした「世界」である。
「長さの概念」世界、
それが連続して存在する点によって構築された
「線世界」なのである。
点は線の「存在」を構成するが、
線世界の中に「長さを持たない点」は
存在しない。
つまり点の連鎖と線は
「同一のもの」である。
線の概念と連鎖する点は「同じもの」なのだ。
しかしそれは、
概念としては「異なる世界」の住人である。
そこでその同じものに対する「概念世界」の方が
分岐する。
これが「次元世界」である。
(後述とさせていただくが
このように一つの同じ実体が複数の「異なる概念世界」
を構築することによって生まれたもの、
それが「次元世界」である。)
そしてこれが物理学(等価原理)の始まりなのだ。
つまり構成要素が「点の概念」ただ一つによって生まれた世界、
それが線(長さの概念世界)という「1次元宇宙」である。
現状の我々の科学は「次元世界」を扱う局面にきても
まだその成り立ちさえ理解していない。
2018年10月16日火曜日
(連載3)3-1実体の科学
第3章
実体の科学
「存在するもの」と「存在しないもの」
(本編に先立つ導入部として
「点と線」という作品を先に投稿してあります。
「面積も長さも持たない点は存在しない」をテーマに
わかりやすく「実体の概念」を取り上げました。
「実体がある」という「科学の本当の始まり」を
こちらでも確認してみてください。)
3-1点と線
大統一理論ではその重要な論点として
「存在する」という概念を扱う。
しかし問題は、
この言葉の持つ本当の意味を
我々がまだ理解していないことにある。
「あるとない」とを表わす「存在する」という言葉は
実は相対的な事象に対する限定的な概念である。
何に対して存在するのか、
何処に存在するのか、
そこには「定義される」ことが必要なのだ。
もちろんその定義も
人間が勝手に創作した前提(公理)であってはならない。
そこでこの「存在する」の概念を
我々が一番理解しやすい
「点と線」の話を先にしよう。
我々がこれまで覚えて来た知識が、
如何に曖昧なものであったのか、
知識の棚卸しをしながら
しっかりと確認して頂きたい。
この「存在する」という言葉は、
人間が宇宙の構造を理解する為に必須となる
「次元世界」共通のキーワードである。
ではまずその基本となる
点と線の話である。
「線は点の無限大に連鎖した姿である」
このように理解する現代人にとっては、
点と線が存在することに大した違和感はない。
これは数学を学んできた我々には
当然の認識である。
数列の直線には
あらゆる点が含まれている。
これはつまり
2つの点があれば、
直線で繋ぐことが出来るということである。
これはもちろん正しい。
では「線の中に点が存在する」とは
本当に正しい認識なのだろうか。
現実問題として
線の中に「存在する」とは
「長さの部分を持つ」ことである。
つまり線の中に「存在する」為には
その線上に「固有の範囲」が必要なのだ。
線は「長さの概念」である。
線が長さの概念である以上、
線の中に存在する為には、
やはり同じ「長さの概念」を持たなければならない。
長さの部分(範囲)を持つこと、
これが線の中に現実に「存在する」ということである。
では点は、
本当に線の中に存在するのだろうか?
ここでの問題は点が、
長さやその固有の範囲を持たないことにある。
点はその無限大の連鎖により
線の概念を創りだしている。
無限大に連続して存在する点、それが線なのだ。
けれども点それ自体に、長さの概念はない。
点の持つ範囲を正確に表すことのできる「表現」は
2つの直線が交差した一点、あるいはその部分である。
だが「長さの概念しか持たない線」が交わったところで
果たしてそこに
範囲(面積や長さ)が生まれるだろうか。
答えはノーである。
線は長さの概念である。当然線は面積を持たない。
つまり2つの長さの概念が交差したところで、
そこに部分となる「何か(範囲)」は生まれてこないのだ。
通常我々が認識する点は、小さな円である。
我々が点を認識し、その場所を特定できるのは
人間が勝手に点に「面積を与えた」為である。
これは表現であって科学ではない。
この「表現」を数学の始まりとして
あるいは科学の始まりとして
我々が認識してしまう、
それが問題なのである。
つまり数学は科学ではなく、
論理的な前提を持つ哲学(考え方)なのだ。
哲学から科学は生まれない。
本当の科学から
本当の哲学が生まれるのである。
実体の科学
「存在するもの」と「存在しないもの」
(本編に先立つ導入部として
「点と線」という作品を先に投稿してあります。
「面積も長さも持たない点は存在しない」をテーマに
わかりやすく「実体の概念」を取り上げました。
「実体がある」という「科学の本当の始まり」を
こちらでも確認してみてください。)
3-1点と線
大統一理論ではその重要な論点として
「存在する」という概念を扱う。
しかし問題は、
この言葉の持つ本当の意味を
我々がまだ理解していないことにある。
「あるとない」とを表わす「存在する」という言葉は
実は相対的な事象に対する限定的な概念である。
何に対して存在するのか、
何処に存在するのか、
そこには「定義される」ことが必要なのだ。
もちろんその定義も
人間が勝手に創作した前提(公理)であってはならない。
そこでこの「存在する」の概念を
我々が一番理解しやすい
「点と線」の話を先にしよう。
我々がこれまで覚えて来た知識が、
如何に曖昧なものであったのか、
知識の棚卸しをしながら
しっかりと確認して頂きたい。
この「存在する」という言葉は、
人間が宇宙の構造を理解する為に必須となる
「次元世界」共通のキーワードである。
ではまずその基本となる
点と線の話である。
「線は点の無限大に連鎖した姿である」
このように理解する現代人にとっては、
点と線が存在することに大した違和感はない。
これは数学を学んできた我々には
当然の認識である。
数列の直線には
あらゆる点が含まれている。
これはつまり
2つの点があれば、
直線で繋ぐことが出来るということである。
これはもちろん正しい。
では「線の中に点が存在する」とは
本当に正しい認識なのだろうか。
現実問題として
線の中に「存在する」とは
「長さの部分を持つ」ことである。
つまり線の中に「存在する」為には
その線上に「固有の範囲」が必要なのだ。
線は「長さの概念」である。
線が長さの概念である以上、
線の中に存在する為には、
やはり同じ「長さの概念」を持たなければならない。
長さの部分(範囲)を持つこと、
これが線の中に現実に「存在する」ということである。
では点は、
本当に線の中に存在するのだろうか?
ここでの問題は点が、
長さやその固有の範囲を持たないことにある。
点はその無限大の連鎖により
線の概念を創りだしている。
無限大に連続して存在する点、それが線なのだ。
けれども点それ自体に、長さの概念はない。
点の持つ範囲を正確に表すことのできる「表現」は
2つの直線が交差した一点、あるいはその部分である。
だが「長さの概念しか持たない線」が交わったところで
果たしてそこに
範囲(面積や長さ)が生まれるだろうか。
答えはノーである。
線は長さの概念である。当然線は面積を持たない。
つまり2つの長さの概念が交差したところで、
そこに部分となる「何か(範囲)」は生まれてこないのだ。
通常我々が認識する点は、小さな円である。
我々が点を認識し、その場所を特定できるのは
人間が勝手に点に「面積を与えた」為である。
これは表現であって科学ではない。
この「表現」を数学の始まりとして
あるいは科学の始まりとして
我々が認識してしまう、
それが問題なのである。
つまり数学は科学ではなく、
論理的な前提を持つ哲学(考え方)なのだ。
哲学から科学は生まれない。
本当の科学から
本当の哲学が生まれるのである。
2018年10月9日火曜日
(連載2)2-6現実こそ科学
大統一理論の知識は、
人間が宿した複雑な感情の中から
「本当のあなた」を選択する。
我々はまだ
自分の感情がどこから来るのか、
それを理解していない。
本当の自分と、
反射的な感情による上辺の自分。
人間はこれから
本当の自分の気持ちを受け止める
自己の視点を確立することだろう。
こうして自我世界は、
世界の中心へと向かう
「確かな判断基準」を手に入れる。
この様に世界へとむけられた正しい認識は、
我々が「生きる」という現実を
その希望へとつなげる力にも変わっていくはずである。
我々は学びによって
人間を取り囲むあらゆる現実が、
全て納得のできるものへと昇華することに
気がつけるだろう。
我々が時折つき当たる
人間の身勝手さや理不尽、
そして孤独や孤立、停滞と淀み。
それら全ての苦悩をつつみ込む寛容が、
人間自身にも、この世界にも、
もともと備わっているという認識を
我々は理解できるのだ。
人間は日々、
多くの価値観と新しい世界を
生みだしながら生きている。
もともと人間が生きるということは
「創る」ことである。
当然生み出された世界は
守られなければならない。
そしてその為にいま、人々は争う。
けれども我々が勝ち取り、真に守るべき世界とは
その「あらゆる価値観が共存できる世界」である。
我々はこの共有という基準を守り、
全ての「可能性」の芽を育まなければならない。
悪とはその可能性を断ち切る行為である。
「目に見えるもの」は
人間の「知識」によって姿を変える。
これは人間の成長である。
「世界は正しい」
だからこそ人間にも
無限大の可能性が宿るのだ。
せかいを引き継ぎ
その可能性を広げること、
つぎの世界にもそれ以上の可能性を受け渡すこと、
それが我々の責務である。
人間としての傲慢さゆえではなく、
この宇宙がつくりだした我々人間に
その宇宙が理解できないはずはない。
私には「人間がこの宇宙を理解する」ということは
この宇宙も同様に
「自らが待ち望んだことである」と、
そう断言することができるのだ。
そこにあるのは「あらゆるものの希望」であり
人間自身の「本当の願い」である。
あなたが「今を生きる」ということは、
全ての存在が共通して願う
この世界の希望である。
自分自身に引き渡されたものの
空間の巨大さと途方もない時間の長さに
我々は想いを馳せるべきである。
我々は自分自身のために、
そして我々を支えるあらゆる世界のためにも、
この世界から「学ぶ」ことを
始めなければならない。
さて次章からは
この結論にたどりつくための手法を、
文字通り「0」から順番にたどる作業がはじめる。
宇宙の始まりと
空間や時間の出現について。
物質の誕生と重力の発現、
生命の誕生から
人間の自我世界の誕生まで。
私はこの機会に、
この宇宙がもつ本当の魅力とその真実を、
余すことなく皆さまへと伝えられるように
奮闘する所存である。
どうか全ての皆さまに、
最後までお付き合い頂けることを願いたい。
世界の正しさは
人間の正しさである。
だからこそ世界の現実はすべて相対的であり、
人間の価値観もやはり相対的なものである。
あなた自身がこの宇宙であり、
ひとつしかない世界なのだ。
これまでのあなたが必死で繋ぎ
守り続けてきた世界の先に
今のあなたは存在する。
あなたはこの永遠の一部分として
今を重ねていかねばならず、
全ての存在を引き継ぎながら
やがて新しい世界へと受け渡さなければならない。
何度も何度も挫折し
それでも存在をつづけ、
諦めることなく前に向って
あなたは歩み続けなければならないのだ。
そこに希望さえあれば
それは楽しい旅となり、
そこに期待されることがあれば
それは充実した決意である。
さらに全ての宇宙には内側はなく、外側もなく、
それはただひとつの同じ世界である。
点の内側と外側で世界が異なろうとも、
それは点というひとつの世界である。
あなたの内側と外側で世界が異なろうとも、
それがあなたというひとつの同じ世界である。
この世界に存在するあらゆる力学が
全て等価であり、
異なる我々全ての人間とも等しい。
あなた自身もひとつの同じものなのだ。
あなたの内側の「本当のあなた」が
この世界の真実の姿であり、
それは外側の同じ宇宙の現実である。
さあ人間が何から生まれたのか、
その科学を紐解いていこう。
2018年10月2日火曜日
(連載2)2-5「正しさ」と「正義」
この時代
人々は誰もが心に不安をかかえ、
他人の影におびえ、否定をつらぬき、
防衛のための無関心を
常にその身へとまといながら生きている。
あるいは信念をもって生きる人々も、
その大半は確信をもって
「他者を否定できる強さ」をもつ人々である。
信念とはほとんどの場合
その当人だけの「正義」にすぎず、
信念によって失われるものがあることも、
我々は同時に吟味しなければならない。
本来この世界に「正義」などはなく、
あるのは単に価値観のちがいだけである。
そして何より重要な事は、
複数の価値観が共存できる世界を
我々が創れるか否か、という問題なのである。
これが「正しさ」である。
人間の価値観は
決して統合されてはならない。
これは科学からくる人間理解である。
我々はもともと他人とは「異なる為に」
「同じもの」から生まれている。
その事によってお互いが拡大し
世界の面積を広げていく、
その目的があるためである。
世界はその存在自体に
「拡大する」使命を課せられている。
この力学のために
人間原理にも「個性の創造」が含まれている。
これは世界原理から来る
「異なるものが生まれお互いに拡大する仕組み」から
派生したものである。
けれども我々はまだ、
無知による孤独や混沌に取り囲まれている。
人間をとりまく孤立や強要、
排除や争い。
我々の求める「正しさ」はどこにあり、
何を糧に我々は、
これからの時代を生きぬいていけばよいのか。
もはや自らの垣根をまもり、
境界線を引き続けることによってのみ平穏となる現代社会。
その結果、
視野を広げれば広げるほどに増す苦悩と、
上手にあきらめる事だけが生める安らぎ。
多かれ少なかれ我々は、
誰もが「争いと混乱」を
自分の中に押さえ付けながら生きている。
けれども人間とは、
もっと優しく
もっと感じやすいものではなかったか。
あるいはもっと激しく、
もっとたくましいものではなかったのか。
私には「人間が生きる」という意味自体が
希薄へと向かっているように感じられる。
いやそれどころか人間自身が
自らの存在意義についての疑問さえ
抱いているようにすら思われてくるのだ。
人間はその人口が増加した分だけ
薄まっても良いものではない。
けれども我々は既に、
無条件に「神なる存在」に全ての責任をおしつけて
すがりつけるほどには幼くもないだろう。
我々は自らの存在意義を何かに委ねて流されるよりも、
その足で急流に立ち、
その激流でさえ自分自身の一部分として認める強さを
必要とする。
次元理論を用いて
人間が宇宙と自然の「理」を理解することは、
それ自体で我々が
「人間に対する根本的な理解」を手に入れて、
その「正しさ」を認識することへとつながる。
「我々は一人きりではなく
全ての世界に認められて存在する」
そして
「あらゆる存在に支えられた
全ての世界の希望が人類である」
ことを、
人間はその知識によって
理解することができるのだ。
知識は人間がつくりだすものではない。
この世界の正しさが知識である。
その知識が
人間を育てていく。
そしてその知識を我々に与えてくれるのが
科学である。
だからこそ我々は
この世界を理解しなければならない。
だからこそこの世界は
我々を真実へと誘うのだ。
」
2018年9月25日火曜日
(連載2)2-4「ひとつ」と「全て」
簡単に忘れられてしまう
存在するのかどうかさえ不明瞭な世界と人間、
そしてその絆。
この絆の存在は、
数字や数式が万物の現象をあらわすのと同様に、
これまではごく「当然」のこととして扱われてきた。
自分が想うことと同じ、
自分自身が想われること。
もちろん何かの為に犠牲になるのは間違いである。
世界のための犠牲、
あるいは誰かのための犠牲。
自分自身の拡大と同時に
この世界は広がらなければならない。
この世界の拡大と共に
あなた自身も拡大しなければならない。
これは当然の原則である。
しかしこの「当然」という認識が不完全であり、
危険なのである。
問題は「なぜそれが当然なのか」という根底を
我々が理解できないことにある。
真理はひとつである。
これは納得出来ることかもしれない。
世界中の無数の現実、その全てが真理である。
これも正しいだろう。
しかし我々は
その正しい真理が一体何か、
それを理解していないのだ。
世界が盤石で鉄壁な巨人なのか、
儚くおぼろげな一瞬の幻なのか、
それを我々は理解していないのである。
信じる者だけで成りたつ世界ではない。
知識は覚えるよりも
理解することのほうが重要である。
何故なら人間の主観は
その理解した知識によって確立されるからだ。
人間を創るのは
理解によって生まれた知識である。
それは人間の適応力であり、
人間は「現実世界」に対応する。
だからこそ、
人間は世界の本当の姿を
理解しなければならない。
このために科学の原点に
信仰があってはならない。!
人間が信仰心を持つのは何故か、
それを理解できるものが科学である。
つまり大統一理論では、
信仰や思想に頼らない「科学的な結論」として、
数列や時間、そして宇宙や自然、そして我々人間、
その全てが「同じもの」であり、
一つにつながっているのだということを
証明できるのである。
ひとつしかない真理が
全ての現実に宿ること。
「同一である」こと。
それが理解できた時にはじめて、
人間は宇宙や自然から更なる恩恵として
人類が進むべき道の「指標」を
受け取ることも出来るのだ。
その理解が、
我々の持つ信仰心の正しさを証明する。
科学と信仰心を統合するのである。
(学問と宗教ではない。
全ての人間は最初から信仰心を持っている。)
それは理性と感性の融合である。
これまでの人類は
根本的な「なぜ」や「どうして」を
完全には解決することが出来ないままに、
「それが前提である」と決めつけて
あらゆる科学をすすめてきた。
もちろんそれは仕方のないことであった。
知識の前提となる「当然という認識」に
残されたままの疑問。
それでも科学は
ほとんどの場合、正しくあり続けた。
なぜなら科学は
仮説を生みだして、
その後多くの検証を通じ
最終的な結論を導きだすものだからである。
けれども科学者たちは
その「それぞれの科学」の「それぞれの正しさ」が、
根本的な部分では「あいまい」となり、
必ずしも全てが統合されないことに頭を抱えている。
科学でさえも「信じること」を前提とした宗教と
まるで変わりはないのではないかという疑問にまで、
人類は突き当たってしまったのだ。
極論として、
これまでの仮説と検証のみの科学では
すでに知識は限界である。
そしてそこから抜け出すためには
知識に対する更に「根本的な理解」が必要である。
数学、化学、生物学、物理、天文学、脳科学など、
すべての学問は統合されて初めて
科学は科学足りえるものなのだ。
何故なら、始まりはひとつしかないからだ。
仮に「始まりと終わりがなかった」としても、
何故そうなったかを
科学であれば理解出来るものでなければならない。
我々はこれまで「科学による証明」によって、
この世界にはさまざまな原理や法則が存在することを
明らかにしてきた。
けれども「本当の科学」とは、
それらの原理や法則が
「なぜもたらされたのか」を
我々に理解させるものでなければならない。
そこに前提があってはならないのだ。
現状の科学では
その基本となる数学でさえ、
前提から始まった合理的な哲学に過ぎない。
真理の姿は千差万別か、
それとも統一理論は存在するのか。
その事でさえ判別することのできない現代科学では、
大統一理論の見知からすれば、
多神教と統一神で争う宗教界とも
差ほど変わりはないのである。
科学の正しさは
それが「事実であること」に由来する。
大統一理論はこの世界の成りたちを
「次元世界」という枠組みでとらえ、
そこに現れる「次元世界の法則」を見つけ出すことによって
「新しい科学」を構築する。
その為に大統一理論は「次元理論」と呼ばれる。
この手法によって我々は、
既存の科学では探せだせない深い観点から、
この世界をより的確に捉え直すことができるのだ。
そしてこの統合された学問の中にこそ
我々「人間」もその姿を現わしてくる。
人間は類まれなる偶然の産物であり、
かつこの宇宙における必然の存在である。
最終的に人間原理には傾かず
「0」からの理論のつみ重ねによって、
「人間とは何か」という疑問にも
我々は解答を与えることができるのだ。
つまり「人間が存在する理由」と
「世界が存在する理由」、
「人間原理は何か」を、
我々は理解することが出来るのである。
次元理論によって宇宙と人間の
「ひとつのつながり」を見つけだすことは
この世界がもつ統合を見つけることに他ならない。
次元理論がもたらした根本的な理解は、
我々がこれまで「当然」としてきた認識に対する
新たな証明と、正しい解答である。
2018年9月18日火曜日
(連載2)2-3「ひとりきりの人間」と「ひとつだけの世界」
仮に我々が、
道に迷い帰路を探してさまよう子供だったとしよう。
今はどんなに取り乱して不安に追われても
無事に我が家にたどり着ければ、
その先は安堵して穏やかに暮らすこともできるはずだ。
これと同じである。
人間はまだ自分達が立つ場所がどこかを
理解していない。
ここがどこかも分からずに、
何故ここにいるのかも知らずに、
ただ怯えているだけなのである。
その為に権威や権力に群れて、
その虚像に自らの安心を求めてしまうのだ。
つまり正しさの基準を
他人や社会に合わせて
造られた価値観に自らを当てはめていく。
それが出来ないうちは
安定も安心も満足に得ることは出来ない。
しかし大統一理論は、
そんな人間に正しい居場所と家族とを示し、
我々に強さと安定感を与えることだろう。
これは言い換えれば
人間が「必要とされる勇気」を持つことであり、
「自らの使命(価値)を学ぶ」
自立することである。
世界から人間へと向けられた愛情と期待、
それを自覚する人間の確信。
あなた個人からこの世界へと向けられた愛情と希望、
それを自覚する自分自身の確信。
それは人間と世界の間に存在する絆である。
このようにあなた自身がこの世界を必要とするように、
この世界もあなたを求めている。
(あなたには世界が必要である。
この世界にはあなたが必要である。)
このように大統一理論の知識は、
人間の有り様とその立ち位置を変えていく。
人間に託された自由と
それに伴なう責任への気づき。
いや本当の科学とは
我々に真理を教え
人間に指標を与えるための学問である。
それを成すことの出来ない現状の科学が
未熟なだけなのだ。
ここまでやや説教じみた論説となり申し訳ないが、
もともと世界と人間の結びつきは科学的であり
同時に精神的である。
そして宗教とは
この科学的に未熟な部分を物語りへとつくり替え、
精神的救済のみを主軸としたものである。
このために宗教の歴史的な成熟さに比べ、
より劣っているのは科学である。
元々科学と宗教は
そのどちらがより「正しい」かを
我々が判断する為の材料ではない。
これは人間が同じものを
同じ世界に求めた結果生まれた、
人間の同じ希望である。
科学がもたらす情報は、
たとえ見えないものでも確信へと変わり、
それが人間が生きるための知恵へと変わる。
だからこそ科学は「正しく」なければならず、
そこに未知の領域を残していてはならない。
ここでいう正しさとは
「事実」という意味であり、
それは個人の主張する正義ではない。
けれども現実の科学では
未だに世界と人間を確定することは叶わず、
各々の漠然とした思い込みのみが
現実世界を引きとめて、
真実をさらに不鮮明なものとする。
ここは重要である。
現代科学の
時間や空間が何かも知らず
それは昔から存在し続ける未知の概念だとする認識は、
世界には原始から存在するとてもエライ人がいる、
などという非科学的な思考と
全く同じレベルの主張でしかないのだ。
それの何処が科学なのか?
結局は人類のための科学ではなく、
大学や宗教、権力に近い一部の人間達によって
他の人間の価値観が好き勝手に
統制されているに過ぎない。
これは我々の信仰心や探求心が
利用されている、ということである。
国家と取り巻きと、権力者たち
ルールを振りかざす人間達によって。
人間は、この世界と人間の間には
何かしらの結びつきがあることを
本能的に理解する。
心と繋がる宇宙。
これはあなた自身が
内心で期待することかもしれない。
何か自分が特別なものであって欲しいという願いと、
あるいは世界に認められた(愛された)自分と
そこから生まれる満足。
だがもともとこの世界に育まれた命である以上、
我々が外側の世界に絆を覚えることは
当然のことである。
だが我々は感じているだけで
理解してはいない。
それは「何故」という根本的な疑問が
まだ解決されていないからである。
そして世界に
ひとつだけの原理があるのならば、
一人きりの自分と、ひとつしかない世界の
同じ存在する理由が分かるはずなのだ。
「大統一理論は
全てが無から始まった現実を理解する」
そこにビックバンはない。
宇宙と我々は同じものとして
このひとつの始まりに集約される。
そこに空想や神話を加えてはならない。
2018年9月11日火曜日
(連鎖2)2-2 ひとつの世界
「同一」であること。
大統一理論によって示されるのは
世界と人間との絆である。
これにより我々は
宇宙と人間が「同一のもの」であることを
理解できるだろう。
ひとつの始まりから生まれた同じもの。
アインシュタインの発見した「等価原理」が成り立つ理由も、
ライプニッツの「モナド」が
人間の内側と外側を同一とする理由も、
その根底には大統一理論(超統一理論)がある。
それぞれが異なるために生まれた同じもの。
多様性を創り出すことは
広がる宇宙の一部分、新たな空間である。
人間はいかなる時代においても
宇宙の中に「世界と人間の解」を
求め続けてきた。
我々は何者なのか。
人間はなぜ存在するのか。
そしてこの宇宙はなぜ存在するのか。
自然の大地から離れ
造り変えられた人工物の森で生きる現代人にとっては、
もはや馴染みの薄いことかもしれない。
けれども人間が生きるという事は
本来は「自然を理解すること」であった。
その中で人々は「自然と心を通わす」という行為を
ごく当たり前のように行ってきた。
これは動物や植物などの
生命体ばかりを対象とするものではない。
山や川、海や空といった無機物とさえ人間は
その言葉を交わし、
彼らの感情をくみ取ってきたのである。
一方自然界においても、
人間には試練と恩恵とを与え、
彼らはその命を守り、常に磨き続けてきたのだ。
自我世界を育てたのは自然界である。
母なる大地、母なる海、母なる地球‥
現在も人間による自然賛歌は
歴史、文化、行事、学問、それ以外にも
人々の素直な心情として位置付けられている。
そこにあるのは感謝、崇拝、恐れ、
癒し、恵、信仰、敬愛‥
物理的、そして精神的に考えても、
宇宙と自然、人間と世界とは
決して切りはなすことは出来ない。
そこにある繋がりと結びつき。
我々はこの世界から「学ぶ」ことで成長し
今もなおこの世界への理解を必要とする。
世界は人間を導き、我々を歩ませる。
だが現代、
人間は自らの裁量を超える暴力によって
この世界を荒廃させ、
生命体に課せられた義務からも逸脱しようとしている。
果たして自分の欲望のために
自らの手足を切り捨てる愚かな生き物が
他にあるだろうか。
それでも人間は
決して失敗作ではない。
例え人間が他のどの知的生命体に代わろうとも、
知識の基盤なしでは
同じ過ちをただ繰り返すだけである。
人間はこの与えられた機会を生かして
成長するしかない。
我々がごく一般的に考えても、
人間のためだけにこの世界は存在する訳ではない。
実際に世界は様々な様相、あるいは歴史をもち、
その一部分にのみ我々は
人間の生活環境をあたえられたのである。
人間が自然に対して抱く感謝や恐れ。
同時に宇宙や世界が
人間を育てるために費やした
気の遠くなるほどの時間と愛情。
我々はそこに絆を覚え、
そしてこの世界に誘われ、
これまでの間科学や宗教を発展させてきた。
それは自然を理解し、納得し、
生き残る為の知恵でもあった。
つまり我々は、
自分の中の感性と理性の結合を
同じように望んだのである。
人々の想いが投影される自然世界。
それは感傷ではなく
科学的に確かなものでなければならない。
それは世界を愛するものが
同じように世界からも愛される、
確かな証明である。
人間は弱い。
だからこそ自らの隙間を埋めるために
この世界を必要とする。
そしてこの世界の隙間を自らの存在で補えた時、
人間はこの世界と同等の強靭な輝きを放つ。
そしてそのために
世界を求める人間の探求はある。
その場所へと我々を誘う
確かな重力がある。
今はまだ分からなくてもいい。
だがこれらの理解と探求は、
現代社会においても変わることなく続けられている。
人間はこの世界として生きる希望と、
同時に世界を広げる太陽としての役割を担う。
けれども現代の我々は
お金を求めることに時間を消費する。
人間には本来、お金を求めるという本能はない。
けれども人間の生きる目的が
お金によって差し替えられているのは事実である。
ではお金は、
一体何に変わるはずのものだったのか。
それは今、我々が考えなければならない問題である。
手段が目的となってしまった経緯、
金銭による支配、
これが絆を失った科学に代表される虚構であり、
人間の渇きである。
けれども人間は、
本来は宇宙と人間とのつながりを、
(自分と世界との絆を)
深く求めている。
ただ闇雲に何でも求めるだけの巨大な塊から、
自身を作り変えながら世界中に風を吹かす
新たな輝きの中心へ。
従って我々が求める「大統一理論」とは、
実は世界と人間の「つながり」を
理解するための科学である。
「大統一理論」は
あらゆる存在を統合する「大原理」が
この宇宙には存在することの証明なのだ。
これは夢物語ではない。
直感的に唯一の原理を認識するからこそ、
我々は宗教を認めてしまう。
いや、漠然と感じるのは
世界を巻き込むもっと大きな流れである。
そして科学とは、
事実としてその原因を理解することが
目的だったはずなのだ。
しかし答えを出せないままでいる科学と、
結論しか答えられない宗教。
その対立は人間の葛藤でもある。
我々が求めるのは「本当のこと」だ。
理性も感情も等しく納得できる場所、
それが本物の科学の期待値である。
信仰心には影響されない科学、
逆に信仰心を理解出来る科学を、
我々は必要とする。
世界がひとつの現実から始まったのであれば、
存在と力学は常にひとつである。
全ての世界は同じひとつの現象なのだ。
2018年9月4日火曜日
(連載2)2-1拡大する宇宙
第2章
大統一理論
「科学に前提を持ち込んではならない。
全ての事象に対する理解を諦めてはならない。
人間も宇宙も時間も同じものとして、
ただひとつしかないこの世界の
ほんのわずかな一部分である。」
2-1広がる宇宙
大統一理論があると、
世界はどのように変わるのだろうか。
大統一理論が成立すれば、
この世界にはただひとつの原理(力学)しかなく
その原理に基づいて全ての宇宙が構築されたことになる。
同じ理由を持ち存在する同じ世界、
これはモノとココロに対する理解でも同じである。
これは「一元論」と呼ばれる。
これまで一元論は、
物質は不変だが思考は創造されたり消えたりする、
という認識によって破棄されてきた。
不変のものとそうでないもの。
しかし現代人こそ、
自らの想いの中に宇宙があることや
物質にも誕生と消滅があることを理解している。
この世界に変わらないものはない。
ひとつの事実からこの世界が始まったとすれば、
全てのものに共通の原理が宿ることは必然である。
その当たり前の現実を否定してきたのが
我々の歴史である。
その身勝手な主観と無知によって。
しかし人間の頭脳に、体内に、
その生命に、そして生き物たちの生態系の中に、
あるいは物質である地球上の至るところに、
「宇宙が存在する」ことは
ほとんどの我々が周知する事実である。
科学的な視点だけではなく、
旋律の中に、焼き窯の向こう側に、
言語の調べに、数多の創作の中に「宇宙を見ること」は、
芸術家達の仕事であり
人間の喜びである。
では我々は何を基準に
「宇宙を感じている」
のだろうか。
その広大さか、美しさに並ぶもののないことか、
圧倒的な奥行きか、
あるいはそこに秘められた無限大の可能性と
その中にある唯一の輝きか。
ただ我々が感じる宇宙は
確かにそこにあり、
我々が惹きつけられる理由も
実はあなた自身が「同じ宇宙を持つもの」だからである。
我々は新しい宇宙を見つけた時に、
同時に自分自身の内側にも
同じ宇宙を見つけ出している。
感動は共鳴なのだ。
けれども人間が想う宇宙には
常に「何故ここに宇宙が広がるのか」、
という疑問が付きまとう。
大宇宙と
世界中に溢れる多くの小宇宙、
そして
自分自身の中にも感じるやはり広大な空間。
例えまだ科学に啓示できないとしても、
人間が感覚的に理解する「同じ宇宙」は
モノとココロに共通である。
その感覚的なものを
現実に(科学的に)引き戻すことが出来るもの、
それが一元論、すなわち大統一理論である。
それによって示されるのは
人間と世界との絆である。
2018年8月28日火曜日
(連載1)1-8 最後のガリレオ
人間は太古の昔より、
統一された力学の存在を求めてきた。
自分自身の、あるいは人間の安定と
その納得を創り出すための知識として。
もちろんその実証には
科学が伴わなければならず、
かつ信仰としても
全ての人間を満たすものでなければならない。
融合を望むのは人間の力学である。
だとすればそれを理解するのが善政であり、
信仰である。
そしてそれを利用したのが悪政であり、狂信なのだ。
我々はこの先1000年も、
これまでと同じような悩みを抱えたまま
ただ過ぎゆく時間を耐え忍ぶ事しかできないのか。
本質を理解できないかぎり、
悲劇は何度でも繰り返されるはずなのに。
我々は知識としての「存在とは何か」を理解しない限り、
人間の歩みを進めることはできない。
人間は今、自分たちの歴史を新しく始める為にも
過ちの繰り返しに終止符を打つ為にも、
「存在するもの」を正しく理解して
世界を確定する努力を行わなければならない。
その為にはまず自分自身を、
ひいては人間の存在を確定することである。
(これは自分自身の信仰心を肯定すること、
人々の信仰心と共有することであり、
宗教に加入することではない)
それは同時に世界を確定する作業(科学の確立)である。
我々は知らなければならない。
人間と世界が存在する、その理由を。
人間には正しい科学が必要である。
これが学問を学ぶ本当の意義、
「大統一理論」の目的である。
大統一理論は、
これまでに行われた探求の為の学問を
創造のための知識へと変える、
人類の価値ある分岐点である。
私がここで皆さんへと伝えたい学問は
この大統一理論である。
そう既に大統一理論は完成している。
この試みは人類の誕生とともに始まり、
近年、ライプニッツの単子論と
アインシュタインの等価原理を経て
今日やっと完成したものである。
ライプニッツの提唱するモナド理論と、
アインシュタインの素粒子の探求は
同じ理由から始められていた。
最小から始める理解と、
最小を探すための探求。
これは同じ「世界の原因」への探求である。
彼ら自身も気づかないままに、
「全てを同じモナド」とする単子論と
「異なる概念と力学を同じものとする」等価原理は
統一理論への同じ探求だったのである。
この章の前半部分において私は、
「自我の本能」と「生命の本能」が
同じ構造を持つことをお伝えした。
命を求める死の姿である「生命」と、
融合への願いを育む消えない虚空としての「自我」。
存在しないはずの虚空(死)が周りの空間をひきつける同じ力学。
同じ構造を持ち、そこに同じ作用をもつ重力の構造。
このようにすべてを統括する共通の力学が
宇宙には存在する。
その事象に対する共通の理解が大統一理論である。
だが我々は、まだこの本質的な力学の存在を知らない。
全ての物理学や時間の流れ、空間が存在することさえも
「同じひとつのもの」として
わたし達が存在することと変わらない同じ現象なのだ。
そしてこの大統一理論は「世界の正しさを証明する」。
ここに発現した力学は、
生命世界では「本能」と呼ばれ、
物理学では「重力」、
自我世界では人間が何かに惹かれ、導かれる「希望」
と呼ばれている。
当然、物理学の長年の課題であり、
統一理論を難解なものとした
「4つの未分割の力」も一つに統合し
重力と物質の本当の性質も明らかになってくる。
これは驚くべき事ではない。
世界が一つの摂理によって成り立つものであれば
全ての事象が一つに統括されるのは当然の事である。
もちろん人間の力学も
「同じひとつの科学」に集約される。
これははるか昔に捨てられた統一論であり、
一元論と呼ばれていたものだ。
統一理論はある。
全ては「同じもの」ものである。
さあ世界と、世界に存在する
全ての謎を終わらせよう。
探求の為の学問を終わらせて、
創造の為の学問を新しく始めるのだ。
我々の宇宙は物質の誕生から始まる訳ではない。
本当の宇宙は点と線から生まれる。
質量とエネルギーだけが等価なのではない。
アインシュタインの等価原理は
存在する全てのものを等価とする。
空間や時間でさえ物質と「同じ存在」である。
物質と生命の概念も「同じ概念」である。
何故同じなのか?
現代物理学では、まずこの時間と空間の問題から
解決しなければならない。
宇宙や生命世界に保存の法則はなく、
全ての宇宙は「拡大すること」をその目的とする。
だからこそこの力学において
現在も宇宙は「拡大」を続けている。
これは現代物理学のいう空虚な膨張ではない。
「宇宙は成長する」
物理学も生物学も数学も哲学も、
今の我々には正しい知識が必要なのだ。
その知識は人間とこの世界を
確かな存在として確立することだろう。
私は断言する。
あと100年以内にこの大統一理論とその知識は、
全ての我々の常識とその始まりとなり、
世界は人間と和解するだろう。
この文章の目的はその下地を
この世界に創ることである。
原理や法則の探求が
科学に与えられた役割ではない。
本当の科学とは
その原理や法則が何故存在するのかを、
我々人間に理解させるものである。
学問に覚えることなど一つもない。
最初のひとつの理解から始めて、
その後に続く全てを「理解すること」が
本当の科学である。
前提のある科学は、神話に過ぎない。
ガリレオ・ガリレイが
望遠鏡を宇宙に向けてから400年、
アインシュタインからもまだ100年しか経っていない。
現代の科学が不完全である事は
ある程度仕方のないことかもしれない。
けてどもそれを「正統なもの」として
その権威にすがるのは愚かである。
我々民衆も盲目的に今ある知識を
信じるだけでは駄目なのだ。
かつてガリレオの見識を封じ込めた教会と同じに、
人間の無知と虚栄心はまだ少しも進歩していない。
我々はまだ
探求者でなければならない。
科学や学問は常に我々のそばにある。
新しい時代を創るのは正しい知識なのだ。
我々は知らなければならない。
理解しなければならない。
真に自立するために。
自立とは責任を背負い共に生きることだ。
私は科学者や大学、権威や権力から
本当の科学を取り戻したいと考えている。
最後のガリレオとして。
いや科学者たちよ!
あなた方もまだガリレオになれるのだ!
あなた方の本当の願いは何だったか。
この世界を理解する事ではなかったのか。
あなた方には今、やれることがある。
世界がひとつの現実から生まれたのであれば、
原理はひとつで
力学もひとつしかない。
これは当たり前である。
だがそれを考えようとしないのが
現代の科学である。
自らの生活や金銭のために
空っぽの権威のために、
科学を売り物にしてはならない。
科学は正しさなのだから。
では次回からは
大統一理論の理解とその解釈に入りたい。
大統一理論はこの世界の正しさと本質、
そして存在する全ての疑問を明らかにする。
これまでの科学が正しく、
知識は創り出すものなのか。
それとも
正しさが科学であり、
知識は学ぶものなのか。
そのどちらがあるべき姿なのか、
答えは明白である。
前提は人間が作り出すものである。
しかし科学に前提を置いてはならない。
現状での正しさが「暫定的なもの」である以上、
人間は目を閉じて自分自身を信じるのか、
あるいは流されて偶像にすがるのか、
そのどちらかしか選べなくなっている。
だが人間は
本当は信仰心とともに生まれ、
この世界によって心の虚空を補うように
創造されている。
そして世界の穴を自らで埋めるという
その使命も与えられている。
現状では、
向かうべき先の見えない「求める心」が
苦悩を生む。
しかし本当は
あなたは与え続けることも
求め続けることも
同じように出来るのだ。
それは何故か?
全ては理解することが出来るだろう。
あなたがここに存在する理由も、
世界がここにある理由も。
さあ皆さん、
「本当のこと」を見つけにいこう。
「この世界には何も存在しなかった」
そこから全てが始まる。
答えも全て、そこにある。
全ての我々は同じ「存在する無」であり、
この世界と同じ「世界」である。
2018年8月21日火曜日
(連載1)1-7「大統一理論」という絆
人間とは何か。
世界とは何か。
人間は、世界と人間との間に「絆」を探そうとして、
これまでのあいだ科学や宗教を発展させてきた。
人間原理としての希望はその求めに応じ、
いつの時代も変わらず
人間とこの世界との融和を望んだのである。
あえて言わせてもらうが、
ここでは融合したいと願うのも、
融合させたいと願うのも
「同じベクトル」である。
例えば支配したいという願い、
ひとつになりたい、誰かのために生きたいという願い、
その全てが「融合へとむけられた同じ想い」である。
ただひとつの同じ願いが、
人類の無数の歩みとその変化に満ちた営みを創るのだ。
この人類の進歩の中で、
存在に対する人々の探求はあらゆる時代をまたいで
今日まで引き継がれてきた。
デカルトや
ライプニッツ、
アインシュタイン、
夏目漱石や
宮沢賢治に至るまで、
彼らの人間と世界に対する探求心は
存在に対する解答を広く導くことを求めていた。
人間は何者なのか。
無論現代に生きる全ての我々も、
同じ探求者である。
すなわち人間の究極の探求心は
この「存在」に対する疑問、
「何故私は(世界は)存在するのか?」に向けられている。
けれどもその探求心は、
そこに考え方の相違や異なる視点が生まれ
科学と呼ばれるものや一方では宗教を中心に、
あるいは哲学、芸術、さらには文学などとして
その裾野を広げ続けてきた。
そしてそのそれぞれの行く先に
新しい真理が生まれている。
新しい価値観の創造は、
人間としては共に喜ぶべきことである。
けれども元々ひとつしかないはずの真理が、
何故世界には無数に溢れてしまうのか。
ここに世界の決まりごとがある。
ひとつのものから始まる分岐と多様性の創造。
連鎖の先に生まれる新たな融合と更なる拡大。
つまり探求心が消せないものである以上、
ここから生まれる新たな価値観の創造も必然である。
融合を求めるがゆえに引き起こされる
意味のある分岐。
この望みが
可能性に彩られた未来を創造する。
唯一無二の統一神を信じる人々と
あらゆる対象に千差万別の神々の姿を見る人がいる。
実はこれも、全てのものに唯一の力が宿るという
共通の理解である。
全てのものに唯一の力が宿るのか、
唯一の力を全ての存在が宿すのか。
それは突き放した解釈においては
同じ原理である。
探せばどこからでも
同じ真理は見つかるのだ。
これもこの世界に
概念を貫く共通の理解が
あるためである。
「想いは生まれたり消えたりするのに
物質は盤石なものである。
その原理は異なるはずだ。」
これももはや事実ではない。
物質も生まれたり、消えたりをくり返す。
確かな存在は何処にもなく、
あるのはただ力学のみである。
その力学が意志と呼ばれるのである。
中世、科学と教会が対立した背景には
この統一した力学の確立という問題があった。
宗教が定めた神による世界の創造と同じ、
本家の科学でも
最初は統一された同じ力学の構築を求めていた。
その結果、教会と科学との対立は深まる。
だが近年では科学は挫折し、
業を煮やした人々は哲学や信仰へと
その突破口を求めたといわざるを得ない。
科学は本道を外れてしまい、
今やその正しさは信仰という非科学によって
守られているようである。
科学的視点によって
科学から心は取り除かれてしまう。
科学においては
世界から学ぶ、人間を学ぶというというテーマは既に乏しく、
ただ試験や資格、仕事のために作り出された専門知識と、
世界を加工する技術、研究費獲得のための創作と
その迷走ぶりは凄まじい。
国家や与えられた常識によって守られた
権利と利益を独占するための排他的、
支配的な商いが現代の学問である。
だがほんの僅かな昔まで、
人間は知っていたはずなのだ。
あるいは学び、理解していたはずである。
世界にはただ一つの真理が存在し、
それが全ての事象にも等しく宿っていることを。
そして人間もその絆から生まれた
この世界の同じ仲間であることを。
今や科学が無くしてしまった本当の道を
誰もが自由にこの世界に求めていた、
それが学問であり、探求の全てである。
あなたが大人になってしまうまでの
ほんの僅かな前までは。
我々は大切なことを、
自ら切り捨ててしまったのだ。
2018年8月14日火曜日
(連載1)1-6 「外側の世界」と「内側の世界」
話をもどそう。
本能は重力である。
命が生み出した
「生命が同じ生命に引き寄せられる力学」、
その力学が宿る有機物が生命である。
この重力によって命は、
他の数多くの生命と新たに結び付けられていく。
この生命の繋がりの中で、
死が創り出した人間に宿る必然的な探究。
「我々は何処から来たのか。
我々は何者なのか。
我々は何処へ行くのか。」
ゴーギャンのこの問いかけは、
人間の深層でより単純化された
人間の持つ究極の疑問だと言えよう。
人間が疑問を持つのは、
その認識力においてである。
そして人間がその認識力によって疑問を抱くものには
大きく分けて2つの種類がある。
他者と自分。
あるいは何かと自分。
つまり「世界と自分」である。
この世界はどこから来たのか。
この世界は一体何か。
この世界はどこへいくのか?
つまるところこちらの疑問も、
ゴーギャンの同じ問いかけの表と裏である。
ではこのように人間の探求心の向かう先は
“世界と自分”の2種類で
本当によいのだろうか?
「よもや自分の中にも他の世界があったり、
世界の中にも他の自分がいるようなことは
起こり得るはずはないか?」
あなたの心の位置によって
この世界は見え方を変えていく。
この世界の情勢によって、
あなたも存在の仕方を変化させるのだ。
世界と「わたし」の間には
本当に異なった力学、あるいは違った原理が流れているのか。
何故と問う、世界と人間の先に
ぼんやりと見えてくる共通項。
人間は、あるいはこの世界は、
本当に存在するのだろうか?
自分は何者か?
世界は何故存在するのか?
今、考える時だ。
もともと人間は
この世界の一部分として生まれている。
そしてこの世界もまた、
我々人間の一部分である。
人間がそれを認識し、
それらを自らの内側に宿すという意味において。
そしてあなた自身の中にも
この世界の構成要素としての、物質、空間、時間、などの
宇宙の一部分が含まれている。
我々はこの世界を愛し、
かけがえのないものとしてこの世界を想う。
それはあたかも自分自身を愛するように。
そして人間は自分を忌み嫌い、
おのれの影にも怯える。
それはこの世界を憎み、畏怖するのと同じである。
世界と自分。
あなたを映し出して
あなたを投影する鏡。
世界を反映して
世界を映し出すあなたという鏡。
さらに人間の感情は
その全てがこの世界の状態によって
表現する事ができる。
同じ日、澄み渡る青空に
自分自身の心を浮かべて全てを受け入れる人々と
眩しすぎる太陽に目を背け
全てを否定してしまう人々。
そこに見える景色は、
単に自分自身を写した鏡に過ぎない。
詩人たちは理解していた。
この世界は“全てのことが記された書物”だと。
そして哲学者は教える。
この世界には窓がなく、
世界を見るものの全ては同じように世界から見られると。
では何故、この世界は我々の鏡となるのか?
人間がその瞳に写すものとは
一体何処にある世界なのか。
人間とは何か?
世界とは何か?
この世界と人間の繋がりは?
世界を理解して学ぶことは、
そのままで人間理解、
ひいては自分自身を理解することである。
まずはこの世界が先に誕生し、
そのあとに生命が、
そして我々人間が「それを模倣して」生まれたのだから。
模倣?
縮尺?
いや我々は「同じもの」である。
物質でさえ生まれ、消えるものであれば、
それはあなたの命や意志とも同じものである。
違うのは存在する場所だけではないか。
だからこそ人間は
他の生命に依存し、
この世界とも共有して生きている。
単純に地球とそこに生きる全ての生命、
そして我々人間も、
この世界の摂理に従ってここに存在する。
人間だけが特別に
「存在する理由を持つ」訳ではないのだ。
人間は理解することによってそれを共有し、
自身を広げる生き物である。
つまり理解したいという人間の希望や好奇心の行く先には、
必ずその中に「人間が広がること」がその目的としてある。
それは逆に
人間は理解できないことに対しては不安を覚え、
恐怖し拒絶するということである。
従って人間がこの世界を理解しようと努めるのは、
人間がこの世界を共有し、
その先に人間が世界との融合を望むための
正しい姿勢である。
それは自らが存在するという不安を払拭し、
この世界に安堵を求めた結果なのだ。
この願いによって我々は
人間とその歴史を造って来た。
人々を先へ先へと歩ませる願いと、
それを生み出すためにある心の空虚。
この「失われた心の空間」を埋める為の前進で
これまであいだ人間は、
手探りでその行進を続けてきた。
原罪と呼ばれたこの空洞が何を意味するのか、
我々は未だ理解することが出来ないでいる。
けれども全てを求め、
全てを生み出すこの虚空が人間であり、
我々の全てを生み出す希望の本質なのである。
この虚空は物理学によってのみ
理解することが可能だ。
我々が抱き続けた存在そのものに対する疑問、
理解できないでいた漠然とした不安。
そこにあるのは“存在”に対する
人間の無知である。
だからこそ、
我々は知らなければならない。
事実をだ。
2018年8月7日火曜日
(連鎖1)1-5 「生命原理」と「原理を生むもの」
命には何故、
本能が宿るのか。
それ以前に命とは何か?
本能とは何か。
本能は
「命が同じ命を求める力学」である。
この本能をもつ有機物が生命と呼ばれている。
つまり生命は、それ自体は存在ではなく、
物質に「生命を求める」という力学が
「付加された」状態なのである。
「重力」は
失われた空間が
同じ空間を求める力学である。
この力学が物質の求める力として
重力や核力に現れている。
このように本能や重力は、
その根底にはもっと深い部分での同じ因果律がある。
世界の奥底に流れる
「原因が原因であり続けようとする」
より大きな物理学。
つまり本能や重力でさえそれは表面上に現れた
見せかけの力学に過ぎず、
それぞれがそこに存在する理由は
更に深層の別の物理学が受け持っているのだ。
物理原理
生命原理
人間原理
原理には、それが原理たる理由がある。
その原理を人間が勝手に決めてはならない。
そして全ての理由を持たない、
唯一の前提となるのが大原理である。
それは知識の生まれる場所であり、
世界の始まる場所でなければならない。
「生命がある」とは同時に
「死がある」ことを意味する。
「存在する死」という際限のない虚空。
この虚空が引き寄せる、
同種の(あるいは自分自身の)命へと働く
生命の力学。
そこに発現したものが
本能という生命世界の重力である。
更に本能にも
「原因が原因であり続けようとする」
元々の物理学が継承されている。
(科学的には「有機物の抜け落ちた穴」が、
同じ有機物を求める作用として
「本能と呼ばれる力学」は生じる。
この元々の空洞にあった有機物は
中心の有機物の中で2重に重なり、
ここにこの空洞は「同じ種類の有機物を求める」
という力学を宿す。
この空洞から内外の同じ有機物へと向けられた引力が
本能である。)
生きることを願いそれを支える死と、
命を維持し創造する為に死が命へと与えた重力。
死は
「何も存在しないこと」
ではない。
生命にとって死とは
ただ無くなることではなく、
存在しないはずの虚空、
生の抜け落ちた空間(死)が「そこにある」ことである。
0から生命は生まれない。
本来存在するはずのない「死があること」、
それが生命なのだ。
つまり死は生の一部分であり、
生もまた死の側面に過ぎない。
「生きる」ということは、
「死が存在する」状態である。
だからこそ「存在する死」は、
その対価として同じ命を求め、
それは本能として、食物連鎖として
全ての生き物の生命活動を統括する。
これが生命の基本となる
「生命原理」である。
死が求める命は自分自身の命であり(核力)、
自分と同じ命(重力)である。
それ故に生は死の産物であり
死は生を集めるのである。
つまり動物の本能は「存在する死」から生まれる。
決して埋めることの出来ない、
生命世界に開らいた穴。
「自我の本能」も同じ命である以上、
この生命の原型をたどる。
つまり生命世界のもつ「本能」は、
自我世界のもつ「願い」と同じ種類のベクトルなのだ。
本能が進化させた生命体。
その生命体がより優位な状況で
生命を繁栄させる為に生まれた人間の自我。
つまり自我世界は
元々の生命原理を模倣する形で、
あるいはその本能の一部分として、
「人間原理」を発現させている。
生命の中心に存在する死と、
自我の中心に存在する虚空。
死と自我の中心「虚空」は
同じ空洞として
そこに求める力を発現させている。
存在するものが何処にも存在しない状態の「死」と
存在しないものが確かにある状態の「生命」。
あるのにない同じ、命と心。
死が命を求めるのと同様に
心の虚空は融合を求め
願い、そして希望を生む。
存在する死が人間の源であり、
死は人間の探求心を増幅する。
つまり死は無ではなく、
抜け落ちた生命世界の空間である。
その重力によって
生命世界は拡大へと導かれるのだ。
2018年7月31日火曜日
(連載1)1-4 本能・重力・希望 「求める」という同じ物理学
野生動物やより単純な生き物たちは
本能によってその行動を支配されている。
本能に従えばその生き物たちは
生き残る可能性を高め、
命を引き継ぐ生命の営みにも
より貢献する事が出来るのだ。
このように本能は、
命を拡大するという目的を持って
生まれている。
命が同じ命を「求める」力学、
それが本能である。
我々人間のココロも
この同じ物理学を持つ。
自我もその本能によって支配されている。
それが人間の願いや、希望として現われた
「自我の本能」である。
自我を他の世界へと惹きつけて
融合し拡大させるための重力。
人間である限り誰もが必ず持ち続ける
「求める心」。
即ちこれは「希望」である。
その願いを生み出すためにあるもの。
それは決して消すことの出来ない
「心の虚空」である。
自我が願い、希望を生み出すことは
この生命としての人間の構造から生まれている。
つまり「消せない虚空」が同じものとして
「消えない希望」なのである。
それは人間の中心で
我々の思考を支配する
本質的な欲求である。
人間はその自由意思によって
「好きなことを考えることが出来る」と
思う人は多いだろう。
「我思う故に我あり」だ。
けれども我々が持つ自由とは、
実は「選択する自由」だけである。
つまり我々の思考の原点には
「求めるための本能」が
まず働いている。
不満足から生まれる欲求。
人間の感情はその自我の選択を承認し、喜び、納得し、
そしてそこに新たな願いを生み出す、
その為だけにある。
つまり全ての人間の自我の相違は、
ただ「求めるものが異なる」だけである。
このように生命としての自我は
その中心にまず「願い」を持ち、
これは我々の持つ他の感情や想いとは
一線を隔てた特別なものなのである。
自我世界が予め設定する
人間の「目的地」。
それは永遠にたどり着くことのできない、
幻の理想郷である。
そして「求め続けるチカラ」、
それが人間の重力なのだ。
人間の自由意思を創り出すためにある「願い」と、
その願いによって育てられる感情世界。
あるいは感性という想いの渦から生まれた「願い」と
自由意思の集大成としてつくられた「希望」。
双方に行き来する精神世界と自我世界の
同じ動物的な、あるいは理性的な本能。
この物理学を築くための構造が、
人間の中心に位置する「自我の虚空」である。
そしてこれが「自我の本能」として
我々全ての人間を統括する「人間の行動原理」なのだ。
表現を正確にしよう。
人間が願いを持つのではない。
願いのために人間は生まれている。
人間を創ったのは「虚空」であり、
我々はそこから生まれた消えない「願い」である。
これが自我世界である。
我々は存在ではなく力学なのだ。
喜びや悲しみ、憎しみや恐怖、
我々が様々な感情を持つことも、
全ては新たな願いを自我に与える為である。
喜びを求め、恐怖を乗り越え、
満足に幸福を覚え、忘れ求め、苦しさに耐える。
このように願いを創り出す為にこそ
感情は働く。
そして生み出された願いは
人間の気持ちを安定させて、人間自身を強く育むのである。
我々の心は
この「願い」によって展開する。
人間に自我を目覚めさせるべく存在する、
心の虚空。
その空虚を埋めるために生まれる切望。
この願いによって人間は
あらゆる世界とも結び付けられていく。
「融合、そしてそこから始まる創造」
つまり高度に複雑化した我々を取りまく環境の中で、
それに対応した人間を動かす力学、
それが希望とも呼ばれる自我の本能なのだ。
これは決して特別な力学ではない。
ひとつの原子が抱えた「存在する重力」は、
失われた空間が他の空間を求めるための
物質の持つ欲求である。
そして核力は自らの存在を求める
原子の同じ本能である。
重力によって原子は他の原子群と結び付き、
やがてその重力で
核融合反応を起こして更に質量を拡大する。
融合と創造。
更に全ての命が生命として与えられた本能は、
失われる命(死)が他の命を求めるための
生命の重力である。
この本能は自らの命の継続を願う物理学であり
これは核力である。
生命はこの本能によって他の生命と結びつき
やがて融合する。
そこから創造(や進化)は始まる。
これが死が生み出した生命の欲求、
重力なのだ。
我々人間も、
この世界を認識することによって求めるという希望を持ち、
やがてその願いによって世界と融合する。
人間の自我世界という生態系において、
人間がより良く生きる為に与えられた能力、
それが「願いを持つ自我」という物理学なのだ。
では何故人間の(生命の、原子の)中心には
失われた空間があるのか。
その虚空は
何故他の同じ空間を引きつけるのか。
これが原始の「同じ物理学」である。
我々がまだ気付いていない、
宇宙の根底にある統一された同じ物理学である。
あなた自身も
その失われた空間に囚われて
確固たる自我として成立している。
そのココロの虚空がなければ、
あなたもこの世界と変わらない
巨大な空間に過ぎないのだ。
こうして見ると人間は、
“考える葦”などではなく
まさに「願いを生み出す命」そのものである。
あるいは「願いによって生み出された命」である。
すべての我々が所有する世界に共通の力学、
人間とその社会の全てを形成する源泉、
そしてあなた自身も具体的に導く「願い」。
このようにこの世界の正体は
「消えない願い」にある。
つまりこれは「消せない虚空」がそこにある
ことを意味する。
結論を急ぐ気はない。
しかし人間以外の全ての存在も
この世界にある「同じ願い」なのだ。
生命の本質は「存在する死」であり、
物質の本質は「存在する歪み」である。
人間の本質は「存在する虚空」である。
2重に重なった有機物、生命(命に空いた穴)。
2重に重なった空間、物質(空間に開いた穴)。
2重に重なった精神、自我(心にある虚空)。
だからこそ全ての生命は同じ命を求め、
物質は物質に引かれ、
希望とも呼べる人間と世界のつながりは強い。
全ては同じ物理学である。
存在する死は消えない空洞、
すなわち虚空と「同じもの」である。
それを埋めるために
そこにベクトル、すなわち求める欲求として
本能は生まれている。
存在する力学は消えない虚空、
即ち空間に開いた穴である。
それを埋めるためにベクトル、
即ち欲求として重力や核力がある。
つまりそれ以前に
力学は生まれていたのだ。
我々人間も同じものである。
そこに世界の根底に存在する、
我々のまだ知らない物理学、
「等価原理」がある。
2018年7月24日火曜日
(連載1)1-3 「自我」という孤独
「確定的に存在する世界」とは異なった、
揺らぎながら透き通る「わたし」という存在。
それは世界の内側と外側のはざまに位置し、
そのどちらでもない、
抜け落ちた空間である。
あなたの外側には世界があり、
あなたの内側にも同じ世界がある。
ではそれを認識するあなたは
一体何処にいるのか?
外側に無限大の世界を抱え、
内側にも無限大の奥行きがある。
それは点である。
あなたは点なのだ。
点の外側には無限大に広がる空間(スペース)があり、
その内側にも同じ無限大の奥行きがある。
では点は、
一体何処に存在するものなのか?
人と点。
そこには世界から切り取られて孤立する、
自己の領域とその孤独な時間がある。
存在するのに
存在しないもの。
存在しないのに
存在するというもの。
だからこそ人間は
求め続けることが出来るのだ。
「わたし」は一体何者なのか?と。
探求へと向かわざるを得ない、
自我に仕組まれた
求めることへの願望、衝動、欲求、
あるいはその構造上に生まれた力学。
「自我の重力」
即ちそれは、
自我が他の世界を求めて繋がるための
力学である。
その力学を生むものが
自我の中心にある虚空なのだ。
埋めることの出来ない、
永遠に引き付け続ける空白、空洞。
人間は自分が人間であると気付いたその瞬間から
探求者として目覚め、
探し求めることで人間へと成長する。
自分自身が
孤独である、
という自覚。
それ故に
何かを求める力学。
その探求の先で我々が出会う現実は、
存在と非存在が同列である理解と、
その認識をつくりだす生と死、
創造と破壊の混在する世界である。
その狭間に立つものが、
生と死の間に位置する同じ自分なのだ。
「ある」とは何か?
「ない」とは何か?
世界の内側と外側、
あるいは生と死、
さらには時間の存在する今と存在しない時間、
その全てのはざまに位置する「わたし」が、
存在を保つ自我である。
存在するのに
何処にも本体のない点。
存在する場所が何処にもない、
けれども「存在するわたし」。
誰でもない「わたし」と
唯一の一人称「わたし」。
やがて消滅するであろう
自分自身に対する懐疑と葛藤。
何故わたしは存在するのか。
今はまだ自我として保つこの歪んだ空間も、
やがてはこの狭間の消失と共に解かれて、
この世界に広がりゆくものである。
あるいは穏やかな時の流れにさえ
あがらうことが出来ない、永遠や悠久という蜃気楼。
全てのものは移り変わる。
ではその時間とは
一体何か。
点と同じ今。
何処にも存在しない「わたし」。
そこで我々は理解する。
完全なる不変とは
その内側に創造と終焉を
調和として含むものである。
それはまさに繁栄とよばれ、決して定常ではない。
永遠に完成されない構造が、
完成した世界である。
世界は永遠に広がる。
自我とて同じである。
柔らかく、勢い良く広がりゆくのか、
あるいは固執し執着し、小さく固まるのか、
そのどちらかしか持たない。
保存の原則のない全ての世界。
消滅するのか、新しく生まれるのか。
それを望むのか、望まないのか、だけの違い。
では何故、全ての人間は探求者なのか。
それは全ての我々が
「願い」を持つためである。
希望や願望、欲求や欲望など、
呼び方はちがえども人間を動かすものは
いつも同じ「願い」である。
我々は「求める者」なのだ。
我々は常に不満足を抱えている。
それが全ての人間が持つ物理学である。
自我は孤独になるために
ここに生まれている。
2018年7月18日水曜日
(連載1)1-2 「人間原理」
我々はどこから来たのか。
我々は何者なのか。
我々はどこへ行くのか?
フランスの画家、ゴーギャンの絵画に
この問いかけはある。
人間はその“考える”という本能によって、
ある日突然に認識して自覚する。
自分が「ここに存在する」という現実を。
この世界にある唯一の不純物
「わたし」。
それは自分だけの視点を持った
ただひとりの「わたし」の発見である。
一言で表わすならば、
「この世界とは違うもの」。
異質であり異物であり
この世界から隔離された空間。
つまり人間は、
その存在する自分自身に対しても戸惑い、
得も知れず不安を覚えるものである。
「何故私はこの世界とは違うのだろうか?」
これはひとえに人間の知識では
“理解することのできない事象”に対する驚きであり、
不確かな存在への怖れ、
あるいはためらいかもしれない。
具体的には一人称が必然的に伴なう孤独と、
不完全さが生む心細さや不安。
「私は一体何者なのか?」
自分が認識する外側の世界とは異なる、
その内側で孤立する「(創り出された)独我の領域」。
「わたし」にしかわからないこと。
「わたし」にさえわからないこと。
そこには問わずには
いられない衝動がある。
つまり疑問を生みだす為に生まれた
「私という存在」。
「わたし」が疑問を持つのか、
疑問を持つものが「わたし」なのか。
その答えが見つからないものだとすれば
諦めるために「わたし」はいるのか。
あるいは人間が決して諦めないものだとすれば
探し続けるものが「わたし」なのか。
これは全ての我々が
人間として生まれてきた以上抱えた
「自我の出発点」である。
人間であれば誰もが逃れることの出来ない、
不満足から始まる際限のない渇望。
その中心に
欠落した空間(うねりを伴う枯渇)がある。
人間の心の中心を構築する
決して埋めることの出来ない空洞、虚空。
この心の虚空が、
人間を突き動かすのだ。
これが自我の中に仕組まれた
人間を支配する力学、
「人間原理」である。
ここから「求める(欲求、衝動、願い、希望など)」という
自我の力学が生まれる。
この願いから人間は始まるのだ。
それは全ての人間が宿した
自我を導くベクトル、
人間の行き先を指し示す方位磁針である。
まず、忘れないで頂きたい。
「底の抜けた永遠の虚空」が
全ての人間の世界を創り出している。
人間はそこから拡大する物理学である。
2018年7月11日水曜日
(連載1)1-1「無を理解する科学」
無を理解する科学
第1章
「世界が無であることを証明する
世界が有であることを証明する
無と有が同一のものであることを証明する」
1-1 無を理解する科学
『これから私は、
「わたし」や「あなた」、
そして「全てのもの」の、
本当の物語を書いていきます。
これは宇宙誕生の物語であり、
全能の哲学書、そして真の科学書です。』
私は科学や学問は全ての人間のものであり、
正しい知識を独占して利益を得ることは
誤りだと考えている。
けれども労働に対してその正当な対価を得ることは、
決して間違ったことではないだろう。
なので商業的に言わせてもらえば、
この本はアカシックレコードの現代語訳版である。
全てのことが書かれた宇宙に一冊だけの本、
それがこの本だ。
この本を理解した先には
人間の行き先が見えてくる。
更に私は、あらゆる宗教を否定しない。
信仰を持つ全ての人々に聞いて頂きたいのは、
この本はあなた方の経典や聖書の現代語訳版であり、
全く同じ本だということだ。
2000年前と現代では
理解するために必要となる言葉は異なる。
この本を最後まで読んでいただければ
あなたの理解と同じ内容が書かれていることに
きっと気付けることだろう。
この本はあなた方の更なる信仰のためのものである。
もちろん、あなた方の宗教が
正しいものであることは前提であるが。
この本の主旨はただひとつ、
「無を理解すること」である。
時間も持たず、体積や面積もなく、
長さも持たない、それなのに確かに存在するもの。
それが「点」である。
そうなのだ。
この「点」が「無と同じもの」であり
モナドと呼ばれる「実体の正体」である。
これまでの科学はこの「点」を起点として
それに「数字という記号」をつけて、
そこから始まる理解を我々に押し付けてきた。
「点」ではなく、
「記号(造られたもの)」から始まる科学。
だから真実が見えなかったのだ。
我々の科学の前提は
人間の手による創作である。
だが本当の「点」は、
たとえどれだけの距離を拡大しようとも
永遠に近づくことの出来ない無限大の奥行きをもつ。
つまり点は、
長さも面積も時間も
あらゆる「存在する概念」を持たないものである。
では点がその本体をもたない理由は何か。
何故点は、
その内側に無限大に広がることができるのか。
点が存在でありながら何処にも存在しない
「実体」である現実の視点、
それを我々は理解しなければならない。
それが理解できれば
現実に世界は無から誕生するのだ。
無と同じものとして。
これが全てを無と同じものとする
「等価原理」である。
それが宇宙の誕生の物語であり、
我々の科学の本当の始まりである。
私たちはこれから
「世界の真実」を理解する。
それは全ての人間の疑問に答える、
この世界と存在するもの解答である。
その全てを理解した時、
あなたの意志は宇宙の意志と重なることだろう。
ライプニッツ(微分積分法の創始者)のいう
「窓のない世界」。
それは初めて理解された
一元論である。
それがアインシュタインの発見した
「等価原理」として
宇宙を統一する大統一理論である。
この本は大統一理論について書かれた科学書であり、
同時に真実の哲学書、
全ての存在を理解するための宇宙の物語である。
第1章
「世界が無であることを証明する
世界が有であることを証明する
無と有が同一のものであることを証明する」
1-1 無を理解する科学
『これから私は、
「わたし」や「あなた」、
そして「全てのもの」の、
本当の物語を書いていきます。
これは宇宙誕生の物語であり、
全能の哲学書、そして真の科学書です。』
私は科学や学問は全ての人間のものであり、
正しい知識を独占して利益を得ることは
誤りだと考えている。
けれども労働に対してその正当な対価を得ることは、
決して間違ったことではないだろう。
なので商業的に言わせてもらえば、
この本はアカシックレコードの現代語訳版である。
全てのことが書かれた宇宙に一冊だけの本、
それがこの本だ。
この本を理解した先には
人間の行き先が見えてくる。
更に私は、あらゆる宗教を否定しない。
信仰を持つ全ての人々に聞いて頂きたいのは、
この本はあなた方の経典や聖書の現代語訳版であり、
全く同じ本だということだ。
2000年前と現代では
理解するために必要となる言葉は異なる。
この本を最後まで読んでいただければ
あなたの理解と同じ内容が書かれていることに
きっと気付けることだろう。
この本はあなた方の更なる信仰のためのものである。
もちろん、あなた方の宗教が
正しいものであることは前提であるが。
この本の主旨はただひとつ、
「無を理解すること」である。
時間も持たず、体積や面積もなく、
長さも持たない、それなのに確かに存在するもの。
それが「点」である。
そうなのだ。
この「点」が「無と同じもの」であり
モナドと呼ばれる「実体の正体」である。
これまでの科学はこの「点」を起点として
それに「数字という記号」をつけて、
そこから始まる理解を我々に押し付けてきた。
「点」ではなく、
「記号(造られたもの)」から始まる科学。
だから真実が見えなかったのだ。
我々の科学の前提は
人間の手による創作である。
だが本当の「点」は、
たとえどれだけの距離を拡大しようとも
永遠に近づくことの出来ない無限大の奥行きをもつ。
つまり点は、
長さも面積も時間も
あらゆる「存在する概念」を持たないものである。
では点がその本体をもたない理由は何か。
何故点は、
その内側に無限大に広がることができるのか。
点が存在でありながら何処にも存在しない
「実体」である現実の視点、
それを我々は理解しなければならない。
それが理解できれば
現実に世界は無から誕生するのだ。
無と同じものとして。
これが全てを無と同じものとする
「等価原理」である。
それが宇宙の誕生の物語であり、
我々の科学の本当の始まりである。
私たちはこれから
「世界の真実」を理解する。
それは全ての人間の疑問に答える、
この世界と存在するもの解答である。
その全てを理解した時、
あなたの意志は宇宙の意志と重なることだろう。
ライプニッツ(微分積分法の創始者)のいう
「窓のない世界」。
それは初めて理解された
一元論である。
それがアインシュタインの発見した
「等価原理」として
宇宙を統一する大統一理論である。
この本は大統一理論について書かれた科学書であり、
同時に真実の哲学書、
全ての存在を理解するための宇宙の物語である。
2018年6月13日水曜日
その科学、本当に信用できますか?(モナドの声を聞く23)
身勝手な前提から
始まる科学はない。
これは点です。と記憶するよりも、
「点が面積を持たない」その理由を知ることが
科学の本当の視点である。
点の内側には無限大の奥行きがある。
それは点に「存在の概念」がないからだ。
点には体積や面積、長さ
それらのあらゆる概念(存在の部分)がない。
あるのにない、という
点は無限大と等しい実体である。
世界はたったひとつの同じものである。
これが大統一理論である。
それは存在でありながら存在しない、
異なる同一のモナド、つまり実体である。
「点」や「今」など、現実に世界は
この「実体」によって構築されている。
それを我々の科学は
早く認めなければならない。
実体は科学なのだ。
点や今も、
実体が何かを理解できなかった
かつての人々が、
ただそこから始まるものとして
勝手に付けた記号である。
現代の我々の「知識の前提」は
人間によって作られている。
それは科学ではない。
身勝手な前提からは
真理は生まれない。
我々は最初から
答えのないパズルゲームに
振り回されてきただけなのだ。
ビックバンもない。
現在の数学では
点や面、体積が何か、
それ自体を理解することは出来ない。
それでは世界は
絶対に確定できない。
しかしそれを理解するのが
本当の科学である。
あなたは「実体があることなど証明はできない」
と考えるかもしれない。
けれども存在を持たない
(面積も長さの部分も持たない)
点が実体である。
実体は現実にそこにある。
そして面積を持たない線も
同じ実体である。
(面における存在は面積を持たなければならない)
さらに体積を持たない面も
実体である。
(空間における存在は体積を持つたなければならない)
そして長さの部分を持たない
今という時間も実体である。
(時間軸も長さの概念である)
つまり存在の全ては概念として
実在であり、実体なのだ。
これが現実である。
科学はその目を
見開く必要がある。
現実は正しい。
存在する全ての概念を持たないのに
確かに存在する「点」は実体である。
「存在する全ての概念を持たない」存在とは
あるのにない「存在する無の概念」である。
つまり実体は
存在するのに何処にも存在できない
宇宙の真理に位置する「存在する無」なのだ。
宇宙の始まりには何も存在しなかった。
点の連鎖する理由は
それが無の永遠の連鎖だからである。
それが点(無)の拡大する力学(完全無)である。
点(連鎖する力学)と完全無は
全く同じものである。
我々は点が実体であり、
連鎖を重ねる力学である事実を
科学として学ばなければならない。
それが現実なのだ。
「あるのにない」実体でありながら
無限大に存在を重ね、
永遠に広がり続ける「完全無」。
この世界は点である。
宇宙の起源、
「無の永遠の連鎖」が「存在する力学(完全無)」なのだ。
我々が考える存在は存在ではなく、
存在するのはただ力学のみである。
それが同じものとして
時間の流れ(現実)である。
点も、そして完全無も、
確かに「存在するもの」でありながら
その概念は(長さも面積も体積も時間も)
「存在する全ての部分」を持たない。
実体としての「存在する」は
「存在しない」と同一である。
だからこそ世界は現実に存在し、
この宇宙は全てが一瞬の幻(存在しない時間軸)として
「何も存在しない」状態なのだ。
未だに世界には何も存在しない。
宇宙の起源は続く。
この「存在しないもの」の無限大の連鎖によって
「存在する力学」は構築されていく。
世界は存在ではなく力学である。
すなわち存在は力学と等価である。
これが「全と個を同一のもの」とする
世界の根幹にある「無の物理学」である。
世界は拡大するベクトルである。
存在ではなく同じ力学。
この同じ力学が
重力であり、
本能であり、
自我、意志の力なのだ。
全ては同じ「求める力」である。
これがはじめて人類にもたらされた
大統一理論である。
この世界には何も存在しなかった。
この現実は「完全無が存在する宇宙」を意味し、
永遠に何処にもないものが
永久にあり続ける状態を指す(実体の連鎖、力学)。
つまり「存在する」という概念は、
「今という時間」が決してとどまることの出来ないように、
それ自体が力学として
実体の無限大の連鎖なのである。
存在=力学(実体の無限大の連鎖)
無(点)の内側に広がる
「全てにおいて永遠に何も存在しない」無の概念と、
その連鎖として点の外側に同じものとして存在する
「確実にそこに在り続ける」という無限大(完全無)の概念。
最初からそれは「同じひとつのもの」である。
そして点は、
この無を「自らの構成要素」として
その内側に含む(同じもの)為
宇宙に現れた最初の実体(次元世界)である。
世界はその後、
点の無限大の連鎖によって構築される。
あらゆる概念の方向へと連鎖を続け
拡大する点。
それはその全ての世界が
「完全無」であることを示す。
「存在」とはこのように
存在しない実体の永遠の連鎖である。
従って全ての世界は、
正統な理由があって
そこに存在する(存在しない)。
それが大原理が示す「存在の本質」であり、
全ての存在(同じひとつのもの)が
等価として統合される同じ理由である。
存在(概念)=力学(実体の無限大の連鎖)=無の連鎖=完全無
存在は完全無と同一の
たったひとつの同じ世界である。
それは閉じた状態と開いた状態が
同じものである
存在するひとつの宇宙の姿なのだ。
このように
「存在する無を証明すること」において、
世界が存在しないことの証明は
世界が存在することの証明である。
あらゆる概念の方向へと
無限大の連鎖をつづける無。
それ自体がそのままで「存在する点」であり
際限なく拡大をつづける完全無である。
その点の連鎖が、
実際に空間を創り出し
時間を形成し
原子を形づくり
生命として現れる。
我々はこの理解から
新しい科学を
始めなければならない。
我々人間も
同じ「モナド(実体)」である。
あるいは「存在する無(実体の力学)」として、
この世界と等価な
ひとつの同じものである。
無の連鎖が力学であり
その力学が我々人間の意志なのだ。
存在しない世界で
唯一の存在するベクトルが力学であり
それは世界の同じ意志(自我)である。
この理解なしに
人類の革新はありえない。
我々の一人ひとりが
その使命と安心感を持ち、
自立した個性として
人間であることに満足した状態で
この宇宙を同一のものとみなす。
この認識を生みだす確信が
世界が我々に示した正しさであり、
科学という知識のもたらす正規の価値である。
科学は間違ってはならない。
そして宇宙を統括するこの科学は
「全てを同一のもの」とする統一理論であり、
それがアインシュタインの繋げようとした
等価原理である。
人間には存在する理由がある。
全ての存在もそこに存在する理由を持つ。
そのために我々人間は
個性(多様性と広がり)と、
希望(重力)と、
全てを許された自由(可能性の拡大)と
その責任(原理)を持つ。
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