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2018年8月21日火曜日

(連載1)1-7「大統一理論」という絆




人間とは何か。
世界とは何か。



人間は、世界と人間との間に「絆」を探そうとして、
これまでのあいだ科学や宗教を発展させてきた。


人間原理としての希望はその求めに応じ、
いつの時代も変わらず
人間とこの世界との融和を望んだのである。



あえて言わせてもらうが、
ここでは融合したいと願うのも、
融合させたいと願うのも
「同じベクトル」である。



例えば支配したいという願い、
ひとつになりたい、誰かのために生きたいという願い、
その全てが「融合へとむけられた同じ想い」である。


ただひとつの同じ願いが、
人類の無数の歩みとその変化に満ちた営みを創るのだ。



この人類の進歩の中で、
存在に対する人々の探求はあらゆる時代をまたいで
今日まで引き継がれてきた。


デカルトや
ライプニッツ、
アインシュタイン、
夏目漱石や
宮沢賢治に至るまで、
彼らの人間と世界に対する探求心は
存在に対する解答を広く導くことを求めていた。




人間は何者なのか。



無論現代に生きる全ての我々も、
同じ探求者である。



すなわち人間の究極の探求心は
この「存在」に対する疑問、
「何故私は(世界は)存在するのか?」に向けられている。



けれどもその探求心は、
そこに考え方の相違や異なる視点が生まれ
科学と呼ばれるものや一方では宗教を中心に、
あるいは哲学、芸術、さらには文学などとして
その裾野を広げ続けてきた。


そしてそのそれぞれの行く先に
新しい真理が生まれている。




新しい価値観の創造は、
人間としては共に喜ぶべきことである。


けれども元々ひとつしかないはずの真理が、
何故世界には無数に溢れてしまうのか。





ここに世界の決まりごとがある。


ひとつのものから始まる分岐と多様性の創造。
連鎖の先に生まれる新たな融合と更なる拡大。






つまり探求心が消せないものである以上、
ここから生まれる新たな価値観の創造も必然である。



融合を求めるがゆえに引き起こされる
意味のある分岐。


この望みが
可能性に彩られた未来を創造する。






唯一無二の統一神を信じる人々と
あらゆる対象に千差万別の神々の姿を見る人がいる。


実はこれも、全てのものに唯一の力が宿るという
共通の理解である。
全てのものに唯一の力が宿るのか、
唯一の力を全ての存在が宿すのか。


それは突き放した解釈においては
同じ原理である。


探せばどこからでも
同じ真理は見つかるのだ。




これもこの世界に
概念を貫く共通の理解が
あるためである。




「想いは生まれたり消えたりするのに
物質は盤石なものである。
その原理は異なるはずだ。」

これももはや事実ではない。

物質も生まれたり、消えたりをくり返す。
確かな存在は何処にもなく、
あるのはただ力学のみである。


その力学が意志と呼ばれるのである。




中世、科学と教会が対立した背景には
この統一した力学の確立という問題があった。
宗教が定めた神による世界の創造と同じ、
本家の科学でも
最初は統一された同じ力学の構築を求めていた。


その結果、教会と科学との対立は深まる。


だが近年では科学は挫折し、
業を煮やした人々は哲学や信仰へと
その突破口を求めたといわざるを得ない。




科学は本道を外れてしまい、
今やその正しさは信仰という非科学によって
守られているようである。
科学的視点によって
科学から心は取り除かれてしまう。


科学においては
世界から学ぶ、人間を学ぶというというテーマは既に乏しく、
ただ試験や資格、仕事のために作り出された専門知識と、
世界を加工する技術、研究費獲得のための創作と
その迷走ぶりは凄まじい。


国家や与えられた常識によって守られた
権利と利益を独占するための排他的、
支配的な商いが現代の学問である。






だがほんの僅かな昔まで、
人間は知っていたはずなのだ。
あるいは学び、理解していたはずである。



世界にはただ一つの真理が存在し、
それが全ての事象にも等しく宿っていることを。
そして人間もその絆から生まれた
この世界の同じ仲間であることを。



今や科学が無くしてしまった本当の道を
誰もが自由にこの世界に求めていた、
それが学問であり、探求の全てである。


あなたが大人になってしまうまでの
ほんの僅かな前までは。



我々は大切なことを、
自ら切り捨ててしまったのだ。




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