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2020年12月29日火曜日

(連載19)19-5力学と意志は等しい「宇宙統一理論」

 

 

かつてまだ

「科学」が未成熟であったころ、

人間の世界を守ってきたものは「信仰」であった。


 

信仰によって人間は「知識」へと導かれた。

 

 

けれども間もなく

知識が信仰を高めるという時代も

訪れ来ることだろう。

 


 

科学と宗教は

この世界が人類をより良く栄えに導くための

双子の先導者である。

 

 

そこには常に「同じ信仰心」がある。

 

 

もともと我々を導く為に用意された「あらゆる知識」が

「この世界」に共有される以上、

これは当然のことである。

 

 

 

「科学」も「宗教」も

「次元世界」としての枠組みが

人間にもたらした異なる視点であるが、

それはしかし「同じ現実」である。

 

 

 

けれども私はそのことによって

科学と宗教の統合を願うわけではない。

 

 

 

我々が認識すべき現実は

「人類は同じ価値観をもって生まれ、

科学も宗教もその同じ価値観から生まれた

同じ目的であり、我々は常に同一である」

という事実である。

 


 

人類はこの一点において、

最初から統合されている。

 


 

我々は我々の科学と宗教が正しい限り、

同じ人間を信じて良いのだ。

我々は共に歩む為、同じ目的の為に

道を違えた仲間である。

 

 

 


人類はその「数多の視点(第三の眼)」において、

物事をあらゆる観点から検証する能力をもつ。


 

そして主観を共有することによって我々は

その事象に対する本質的な理解を

さらに深めることが出来る。


 

私が期待するのは

この「第三の眼」である。

 

 

この「数多の目」が

人類最大の力であり、

人間にやどる最も優れた理解力、

あるいは創造力である。

 

 

特殊な個性は

こうして全ての人類に還元される。

 

 

 

次元理論であれば、

本来共有すべき者達が今なお否定し合う現状に、

いつかは和解をもたらす事が出来ると私は期待する。

 

 

 

 

また次元理論において

「宇宙の永遠性」を人間が理解することは、

「人間の可能性にも限界はない」ということを

我々が理解することである。

 

 

これまでの人類が感性によってのみ認識してきた現実を、

今度は「知識」としても理解する。


 

それは、不安に満たされた存在することへの懐疑を

知識によって確定することである。

 

 

この態度は人間が「存在することへの不安」を払拭し、

我々が生きることへの「確信」を手に入れることである。

 

 

それが次元理論を学ぶ意義である。

 

 

次元理論によって感性に知性が追いつく日は、

必ず訪れくるだろう。

 

「感性と知性の不調和」

 

この不安定さが、

我々のかかえた「もろさ」なのだ。

 

 

けれども

「相互に高め合う感性と知性の間に存在する自我」

という構図は、

人間の「自我」という次元世界を確立し

その存在を確定することにも繋がるだろう。

 

 

それによって「科学」や「宗教」に代表される

我々の「探究心(信仰心)」も、

さらなる発展をとげるだろう。

 

 

 

 


次元理論が示したように、

人間は意志をもたないあらゆる次元世界に対しても

その「概念としての意志」を感じる。

 

 

力学と意志は等しいのだ。

 

 

それは認知力というよりも理解力であり、

もはや想像する力という方が正しいかもしれない。

 

 

けれども次元理論において

第8次元「自我世界」は、

無からつづく時間や空間、自然、生命、精神という、

第7次元世界までの

全ての次元世界を共有する「宇宙」である。

 

 

つまり自我の構成要素には、

全ての存在する宇宙が

最初から全部含まれている。

 

 

その結果「次元理論」では、

「宇宙は自我であり、自我もまた宇宙である」という

結論に到達する。

 

 

そして我々の自我は、

そのことでさえ最初から知っていたはずなのだ。

 



 

この「多重次元構造」という現実があるからこそ、

人間が世界を理解することは

そのままで自我世界の探究へとつながる。

 

 

したがって人間は

「この世界を理解する」という必然性をもって

生まれている。

 

 

世界を理解することが、

人間が人間を知る唯一の方法であり、

人間もまた「この世界を理解すること」をその希望する。

 

 


つまり人間は「分かりあえること」を希望とし、

それが人間の果たすべき本当の義務なのだ。

 








 

 

2020年12月22日火曜日

(連載19)19-4科学は神を愛する

 

 

 

世界を創り上げたベクトルの流れ

「無の科学」を、

神の意志として認識し

この世界全てを「ひとつの神の姿」と捉える。

これは現実世界に対する正しい「捉え方」である。


 

 

そしてこの同じ「無の意志」を

今度は物理学として認識し、

この世界の全てを等価原理によって理解する。

これも科学の正しい着地点である。

 

 

 

どちらにせよ物理学におけるベクトルは

宇宙の意志として存在し、

私たち人間の意志も宇宙の物理学である以上、

正しい科学と正しい信仰は同じ理解の範ちゅうにある。

 

 


科学と宗教は

そこにたどり着くための

同じ道筋なのだ。

 

 

 

 

この根本的な理解があれば、

枠組みの僅かな相違は些細なものに過ぎない。

 

 

 


すなわち宇宙を理解する科学は

神を学ぶ知識であり、

それは自分自身に対する理解である。

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめて夜空を見上げて

宇宙の存在に気づいた頃の人類と、

今を生きる我々に

果たしてどれほどの違いがあるのだろうか。

 

 

おそらく人間は

何も変わらないはずである。

もし我々と彼らの間に違いがあるとすれば、

それは共有する知識と経験の差でしかないだろう。

 

 


とすればこの「知識と経験」が、

我々と彼らとを分かつ最大の要因である。

 


 

この「科学と宗教」、

すなわち「真理を求める心」によって

自我世界は育てられてきた。

 

 


 

そしてこの「知識」は

絶えず現実世界に共有されていて、

それを見つけだしてきたのが人類の歴史である。

 

 

 

そこにある「本当のこと」。

 

 

 

ゆえに知識には

常に正確さと正しさが要求される。

それが現実なのだから。

 

 


 

けれどもこの「知識」が不完全である期間、

我々は感性が知る正しさを

その指針とするしか手法をもたなかった。

 

 

 

「感性が知る正しさ」とは、

各々の人間が「感じることの正しさ」である。

 


 

だが一方の理性も

知識の基盤が伴わない現状では

各々の「信じることの正しさ」である。

 

 

 

つまり実際には

「感性によって認識する正しさ」と、

「知識によって認識する正しさ」は

同じでなければならない。

 

 

 

世界を科学的に見るまっすぐな探究心と、

世界の力学に心を重ね

自然と共に歩む人間の純粋な信仰心は、

同じものである。

 

 

 

 

だが現状では

我々の認識が及ばない現実として、

個々の正しさが乱立している。

 

 


これはまだ

本当の正しさが生まれる前の状態である。

真理は「現実」と等しい。

 

 

 

もちろん無数の価値観が生まれることは

「正しいこと」であり、

「各々の正しさ」が生まれてこないことは「間違い」である。

 

 


だが我々はまず

本当の正しさは他者を否定しないことを

学ばなければならない。

 

 

 

その知識の根幹を

我々は共有しなければならない。

 

 


それはこの宇宙の仕組みとして

あらゆる世界の力学として

この世界を統括する原理であり、

我々が最初に学ぶべき学問である。

 

 

 

私はそれを「次元共有の大原理」と呼んでいる。

 

 

 

けれどもそれを「科学の真理」ととらえることも、

「神々の奇跡」と唱えることも、

決して間違いではない。

 

 


宗教家や思想家、科学者たちは

それを知るために扱う視点が異なるだけであり

本来はおなじ目的をもち、

同じ探究をすすめる人々である。

 

 

全ての答えはひとつしかない。

 

 

だからこそ我々は、

これまで争うことも、

手を取りあうこともできたのである。

 

 

真の科学も

誠の宗教も

まだここにはない。

 

 

本当の科学は

神を愛している。

 

 




宗教家たちは神によってその思考を停止させてはならない。

神とは何か、神は何処にいるのか、

その信仰心によってあなた方はまだ

求め続けなければならない。

 

 


そして知を信仰する科学者たちよ。

あなた方は数式によって感じることを

止めてはいけない。

あなた方が探究する現象の原因を

あなたは必ず突き止めなければならない。

その存在が、そのベクトルが何処から来たのか、

それは何か、あなた方は知識によって

それを理解しなければならない。

 

 

 

 

偉大なる神は

その思想に関わらず

全ての人間を平等に包み、

宇宙の全ての力学を彼の力で統括して

世界を導くことだろう。

 

 

感性と理性は同じものである。

 

 

無と宇宙は等価として存在し、

世界は同じものとして

「ひとつの力学」に統括される。

 

 

 

その結果、あらゆる現象は

「同じ」個別の力学の発現である。

 

 

 

我々が見る異なるものは

全て同じものである。

 

 

 


科学と宗教はさらなる領域を

まだ広く残こしているのだ。