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2018年8月28日火曜日

(連載1)1-8 最後のガリレオ





人間は太古の昔より、
統一された力学の存在を求めてきた。


自分自身の、あるいは人間の安定と
その納得を創り出すための知識として。


もちろんその実証には
科学が伴わなければならず、
かつ信仰としても
全ての人間を満たすものでなければならない。



融合を望むのは人間の力学である。



だとすればそれを理解するのが善政であり、
信仰である。


そしてそれを利用したのが悪政であり、狂信なのだ。




我々はこの先1000年も、
これまでと同じような悩みを抱えたまま
ただ過ぎゆく時間を耐え忍ぶ事しかできないのか。
本質を理解できないかぎり、
悲劇は何度でも繰り返されるはずなのに。



我々は知識としての「存在とは何か」を理解しない限り、
人間の歩みを進めることはできない。



人間は今、自分たちの歴史を新しく始める為にも
過ちの繰り返しに終止符を打つ為にも、
「存在するもの」を正しく理解して
世界を確定する努力を行わなければならない。



その為にはまず自分自身を、
ひいては人間の存在を確定することである。
(これは自分自身の信仰心を肯定すること、
人々の信仰心と共有することであり、
宗教に加入することではない)

それは同時に世界を確定する作業(科学の確立)である。



我々は知らなければならない。
人間と世界が存在する、その理由を。



人間には正しい科学が必要である。




これが学問を学ぶ本当の意義、
「大統一理論」の目的である。

大統一理論は、
これまでに行われた探求の為の学問を
創造のための知識へと変える、
人類の価値ある分岐点である。


私がここで皆さんへと伝えたい学問は
この大統一理論である。


そう既に大統一理論は完成している。


この試みは人類の誕生とともに始まり、
近年、ライプニッツの単子論と
アインシュタインの等価原理を経て
今日やっと完成したものである。


ライプニッツの提唱するモナド理論と、
アインシュタインの素粒子の探求は
同じ理由から始められていた。
最小から始める理解と、
最小を探すための探求。


これは同じ「世界の原因」への探求である。


彼ら自身も気づかないままに、
「全てを同じモナド」とする単子論と
「異なる概念と力学を同じものとする」等価原理は
統一理論への同じ探求だったのである。




この章の前半部分において私は、
「自我の本能」と「生命の本能」が
同じ構造を持つことをお伝えした。


命を求める死の姿である「生命」と、
融合への願いを育む消えない虚空としての「自我」。
存在しないはずの虚空(死)が周りの空間をひきつける同じ力学。
同じ構造を持ち、そこに同じ作用をもつ重力の構造。



このようにすべてを統括する共通の力学が
宇宙には存在する。
その事象に対する共通の理解が大統一理論である。


だが我々は、まだこの本質的な力学の存在を知らない。


全ての物理学や時間の流れ、空間が存在することさえも
「同じひとつのもの」として
わたし達が存在することと変わらない同じ現象なのだ。


そしてこの大統一理論は「世界の正しさを証明する」。


ここに発現した力学は、
生命世界では「本能」と呼ばれ、
物理学では「重力」、
自我世界では人間が何かに惹かれ、導かれる「希望」
と呼ばれている。


当然、物理学の長年の課題であり、
統一理論を難解なものとした
「4つの未分割の力」も一つに統合し
重力と物質の本当の性質も明らかになってくる。



これは驚くべき事ではない。
世界が一つの摂理によって成り立つものであれば
全ての事象が一つに統括されるのは当然の事である。


もちろん人間の力学も
「同じひとつの科学」に集約される。
これははるか昔に捨てられた統一論であり、
一元論と呼ばれていたものだ。


統一理論はある。


全ては「同じもの」ものである。



さあ世界と、世界に存在する
全ての謎を終わらせよう。
探求の為の学問を終わらせて、
創造の為の学問を新しく始めるのだ。


我々の宇宙は物質の誕生から始まる訳ではない。
本当の宇宙は点と線から生まれる。


質量とエネルギーだけが等価なのではない。
アインシュタインの等価原理は
存在する全てのものを等価とする。


空間や時間でさえ物質と「同じ存在」である。
物質と生命の概念も「同じ概念」である。


何故同じなのか?


現代物理学では、まずこの時間と空間の問題から
解決しなければならない。




宇宙や生命世界に保存の法則はなく、
全ての宇宙は「拡大すること」をその目的とする。
だからこそこの力学において
現在も宇宙は「拡大」を続けている。


これは現代物理学のいう空虚な膨張ではない。

「宇宙は成長する」

物理学も生物学も数学も哲学も、
今の我々には正しい知識が必要なのだ。
その知識は人間とこの世界を
確かな存在として確立することだろう。



私は断言する。
あと100年以内にこの大統一理論とその知識は、
全ての我々の常識とその始まりとなり、
世界は人間と和解するだろう。
この文章の目的はその下地を
この世界に創ることである。


原理や法則の探求が
科学に与えられた役割ではない。
本当の科学とは
その原理や法則が何故存在するのかを、
我々人間に理解させるものである。


学問に覚えることなど一つもない。
最初のひとつの理解から始めて、
その後に続く全てを「理解すること」が
本当の科学である。
前提のある科学は、神話に過ぎない。




ガリレオ・ガリレイが
望遠鏡を宇宙に向けてから400年、
アインシュタインからもまだ100年しか経っていない。
現代の科学が不完全である事は
ある程度仕方のないことかもしれない。


けてどもそれを「正統なもの」として
その権威にすがるのは愚かである。
我々民衆も盲目的に今ある知識を
信じるだけでは駄目なのだ。
かつてガリレオの見識を封じ込めた教会と同じに、
人間の無知と虚栄心はまだ少しも進歩していない。


我々はまだ
探求者でなければならない。
科学や学問は常に我々のそばにある。


新しい時代を創るのは正しい知識なのだ。


我々は知らなければならない。
理解しなければならない。
真に自立するために。
自立とは責任を背負い共に生きることだ。



私は科学者や大学、権威や権力から
本当の科学を取り戻したいと考えている。
最後のガリレオとして。


いや科学者たちよ!
あなた方もまだガリレオになれるのだ!
あなた方の本当の願いは何だったか。
この世界を理解する事ではなかったのか。
あなた方には今、やれることがある。


世界がひとつの現実から生まれたのであれば、
原理はひとつで
力学もひとつしかない。
これは当たり前である。


だがそれを考えようとしないのが
現代の科学である。
自らの生活や金銭のために
空っぽの権威のために、
科学を売り物にしてはならない。


科学は正しさなのだから。





では次回からは
大統一理論の理解とその解釈に入りたい。
大統一理論はこの世界の正しさと本質、
そして存在する全ての疑問を明らかにする。


これまでの科学が正しく、
知識は創り出すものなのか。
それとも
正しさが科学であり、
知識は学ぶものなのか。



そのどちらがあるべき姿なのか、
答えは明白である。



前提は人間が作り出すものである。
しかし科学に前提を置いてはならない。




現状での正しさが「暫定的なもの」である以上、
人間は目を閉じて自分自身を信じるのか、
あるいは流されて偶像にすがるのか、
そのどちらかしか選べなくなっている。


だが人間は
本当は信仰心とともに生まれ、
この世界によって心の虚空を補うように
創造されている。
そして世界の穴を自らで埋めるという
その使命も与えられている。


現状では、
向かうべき先の見えない「求める心」が
苦悩を生む。
しかし本当は
あなたは与え続けることも
求め続けることも
同じように出来るのだ。


それは何故か?


全ては理解することが出来るだろう。
あなたがここに存在する理由も、
世界がここにある理由も。

さあ皆さん、
「本当のこと」を見つけにいこう。



「この世界には何も存在しなかった」



そこから全てが始まる。
答えも全て、そこにある。



全ての我々は同じ「存在する無」であり、
この世界と同じ「世界」である。


2018年8月21日火曜日

(連載1)1-7「大統一理論」という絆




人間とは何か。
世界とは何か。



人間は、世界と人間との間に「絆」を探そうとして、
これまでのあいだ科学や宗教を発展させてきた。


人間原理としての希望はその求めに応じ、
いつの時代も変わらず
人間とこの世界との融和を望んだのである。



あえて言わせてもらうが、
ここでは融合したいと願うのも、
融合させたいと願うのも
「同じベクトル」である。



例えば支配したいという願い、
ひとつになりたい、誰かのために生きたいという願い、
その全てが「融合へとむけられた同じ想い」である。


ただひとつの同じ願いが、
人類の無数の歩みとその変化に満ちた営みを創るのだ。



この人類の進歩の中で、
存在に対する人々の探求はあらゆる時代をまたいで
今日まで引き継がれてきた。


デカルトや
ライプニッツ、
アインシュタイン、
夏目漱石や
宮沢賢治に至るまで、
彼らの人間と世界に対する探求心は
存在に対する解答を広く導くことを求めていた。




人間は何者なのか。



無論現代に生きる全ての我々も、
同じ探求者である。



すなわち人間の究極の探求心は
この「存在」に対する疑問、
「何故私は(世界は)存在するのか?」に向けられている。



けれどもその探求心は、
そこに考え方の相違や異なる視点が生まれ
科学と呼ばれるものや一方では宗教を中心に、
あるいは哲学、芸術、さらには文学などとして
その裾野を広げ続けてきた。


そしてそのそれぞれの行く先に
新しい真理が生まれている。




新しい価値観の創造は、
人間としては共に喜ぶべきことである。


けれども元々ひとつしかないはずの真理が、
何故世界には無数に溢れてしまうのか。





ここに世界の決まりごとがある。


ひとつのものから始まる分岐と多様性の創造。
連鎖の先に生まれる新たな融合と更なる拡大。






つまり探求心が消せないものである以上、
ここから生まれる新たな価値観の創造も必然である。



融合を求めるがゆえに引き起こされる
意味のある分岐。


この望みが
可能性に彩られた未来を創造する。






唯一無二の統一神を信じる人々と
あらゆる対象に千差万別の神々の姿を見る人がいる。


実はこれも、全てのものに唯一の力が宿るという
共通の理解である。
全てのものに唯一の力が宿るのか、
唯一の力を全ての存在が宿すのか。


それは突き放した解釈においては
同じ原理である。


探せばどこからでも
同じ真理は見つかるのだ。




これもこの世界に
概念を貫く共通の理解が
あるためである。




「想いは生まれたり消えたりするのに
物質は盤石なものである。
その原理は異なるはずだ。」

これももはや事実ではない。

物質も生まれたり、消えたりをくり返す。
確かな存在は何処にもなく、
あるのはただ力学のみである。


その力学が意志と呼ばれるのである。




中世、科学と教会が対立した背景には
この統一した力学の確立という問題があった。
宗教が定めた神による世界の創造と同じ、
本家の科学でも
最初は統一された同じ力学の構築を求めていた。


その結果、教会と科学との対立は深まる。


だが近年では科学は挫折し、
業を煮やした人々は哲学や信仰へと
その突破口を求めたといわざるを得ない。




科学は本道を外れてしまい、
今やその正しさは信仰という非科学によって
守られているようである。
科学的視点によって
科学から心は取り除かれてしまう。


科学においては
世界から学ぶ、人間を学ぶというというテーマは既に乏しく、
ただ試験や資格、仕事のために作り出された専門知識と、
世界を加工する技術、研究費獲得のための創作と
その迷走ぶりは凄まじい。


国家や与えられた常識によって守られた
権利と利益を独占するための排他的、
支配的な商いが現代の学問である。






だがほんの僅かな昔まで、
人間は知っていたはずなのだ。
あるいは学び、理解していたはずである。



世界にはただ一つの真理が存在し、
それが全ての事象にも等しく宿っていることを。
そして人間もその絆から生まれた
この世界の同じ仲間であることを。



今や科学が無くしてしまった本当の道を
誰もが自由にこの世界に求めていた、
それが学問であり、探求の全てである。


あなたが大人になってしまうまでの
ほんの僅かな前までは。



我々は大切なことを、
自ら切り捨ててしまったのだ。




2018年8月14日火曜日

(連載1)1-6 「外側の世界」と「内側の世界」



話をもどそう。


本能は重力である。


命が生み出した
「生命が同じ生命に引き寄せられる力学」、
その力学が宿る有機物が生命である。


この重力によって命は、
他の数多くの生命と新たに結び付けられていく。


この生命の繋がりの中で、
死が創り出した人間に宿る必然的な探究。


「我々は何処から来たのか。
我々は何者なのか。
我々は何処へ行くのか。」


ゴーギャンのこの問いかけは、
人間の深層でより単純化された
人間の持つ究極の疑問だと言えよう。



人間が疑問を持つのは、
その認識力においてである。



そして人間がその認識力によって疑問を抱くものには
大きく分けて2つの種類がある。


他者と自分。


あるいは何かと自分。
つまり「世界と自分」である。


この世界はどこから来たのか。
この世界は一体何か。
この世界はどこへいくのか?


つまるところこちらの疑問も、
ゴーギャンの同じ問いかけの表と裏である。



ではこのように人間の探求心の向かう先は
“世界と自分”の2種類で
本当によいのだろうか?



「よもや自分の中にも他の世界があったり、
世界の中にも他の自分がいるようなことは
起こり得るはずはないか?」



あなたの心の位置によって
この世界は見え方を変えていく。

この世界の情勢によって、
あなたも存在の仕方を変化させるのだ。



世界と「わたし」の間には
本当に異なった力学、あるいは違った原理が流れているのか。




何故と問う、世界と人間の先に
ぼんやりと見えてくる共通項。



人間は、あるいはこの世界は、
本当に存在するのだろうか?


自分は何者か?
世界は何故存在するのか?




今、考える時だ。



もともと人間は
この世界の一部分として生まれている。


そしてこの世界もまた、
我々人間の一部分である。


人間がそれを認識し、
それらを自らの内側に宿すという意味において。


そしてあなた自身の中にも
この世界の構成要素としての、物質、空間、時間、などの
宇宙の一部分が含まれている。




我々はこの世界を愛し、
かけがえのないものとしてこの世界を想う。

それはあたかも自分自身を愛するように。


そして人間は自分を忌み嫌い、
おのれの影にも怯える。

それはこの世界を憎み、畏怖するのと同じである。



世界と自分。


あなたを映し出して
あなたを投影する鏡。
世界を反映して
世界を映し出すあなたという鏡。





さらに人間の感情は
その全てがこの世界の状態によって
表現する事ができる。


同じ日、澄み渡る青空に
自分自身の心を浮かべて全てを受け入れる人々と
眩しすぎる太陽に目を背け
全てを否定してしまう人々。


そこに見える景色は、
単に自分自身を写した鏡に過ぎない。



詩人たちは理解していた。
この世界は“全てのことが記された書物”だと。
そして哲学者は教える。
この世界には窓がなく、
世界を見るものの全ては同じように世界から見られると。



では何故、この世界は我々の鏡となるのか?
人間がその瞳に写すものとは
一体何処にある世界なのか。



人間とは何か?
世界とは何か?


この世界と人間の繋がりは?





世界を理解して学ぶことは、
そのままで人間理解、
ひいては自分自身を理解することである。



まずはこの世界が先に誕生し、
そのあとに生命が、
そして我々人間が「それを模倣して」生まれたのだから。

模倣?
縮尺?


いや我々は「同じもの」である。


物質でさえ生まれ、消えるものであれば、
それはあなたの命や意志とも同じものである。


違うのは存在する場所だけではないか。


だからこそ人間は
他の生命に依存し、
この世界とも共有して生きている。


単純に地球とそこに生きる全ての生命、
そして我々人間も、
この世界の摂理に従ってここに存在する。



人間だけが特別に
「存在する理由を持つ」訳ではないのだ。



人間は理解することによってそれを共有し、
自身を広げる生き物である。
つまり理解したいという人間の希望や好奇心の行く先には、
必ずその中に「人間が広がること」がその目的としてある。



それは逆に
人間は理解できないことに対しては不安を覚え、
恐怖し拒絶するということである。



従って人間がこの世界を理解しようと努めるのは、
人間がこの世界を共有し、
その先に人間が世界との融合を望むための
正しい姿勢である。


それは自らが存在するという不安を払拭し、
この世界に安堵を求めた結果なのだ。



この願いによって我々は
人間とその歴史を造って来た。



人々を先へ先へと歩ませる願いと、
それを生み出すためにある心の空虚。




この「失われた心の空間」を埋める為の前進で
これまであいだ人間は、
手探りでその行進を続けてきた。


原罪と呼ばれたこの空洞が何を意味するのか、
我々は未だ理解することが出来ないでいる。



けれども全てを求め、
全てを生み出すこの虚空が人間であり、
我々の全てを生み出す希望の本質なのである。




この虚空は物理学によってのみ
理解することが可能だ。



我々が抱き続けた存在そのものに対する疑問、
理解できないでいた漠然とした不安。



そこにあるのは“存在”に対する
人間の無知である。



だからこそ、
我々は知らなければならない。
事実をだ。





2018年8月7日火曜日

(連鎖1)1-5 「生命原理」と「原理を生むもの」


命には何故、
本能が宿るのか。


それ以前に命とは何か?
本能とは何か。




本能は
「命が同じ命を求める力学」である。


この本能をもつ有機物が生命と呼ばれている。


つまり生命は、それ自体は存在ではなく、
物質に「生命を求める」という力学が
「付加された」状態なのである。





「重力」は
失われた空間が
同じ空間を求める力学である。
この力学が物質の求める力として
重力や核力に現れている。



このように本能や重力は、
その根底にはもっと深い部分での同じ因果律がある。



世界の奥底に流れる
「原因が原因であり続けようとする」
より大きな物理学。



つまり本能や重力でさえそれは表面上に現れた
見せかけの力学に過ぎず、
それぞれがそこに存在する理由は
更に深層の別の物理学が受け持っているのだ。


物理原理
生命原理
人間原理


原理には、それが原理たる理由がある。


その原理を人間が勝手に決めてはならない。



そして全ての理由を持たない、
唯一の前提となるのが大原理である。


それは知識の生まれる場所であり、
世界の始まる場所でなければならない。








「生命がある」とは同時に
「死がある」ことを意味する。


「存在する死」という際限のない虚空。


この虚空が引き寄せる、
同種の(あるいは自分自身の)命へと働く
生命の力学。


そこに発現したものが
本能という生命世界の重力である。


更に本能にも
「原因が原因であり続けようとする」
元々の物理学が継承されている。


(科学的には「有機物の抜け落ちた穴」が、
同じ有機物を求める作用として
「本能と呼ばれる力学」は生じる。
この元々の空洞にあった有機物は
中心の有機物の中で2重に重なり、
ここにこの空洞は「同じ種類の有機物を求める」
という力学を宿す。
この空洞から内外の同じ有機物へと向けられた引力が
本能である。)



生きることを願いそれを支える死と、
命を維持し創造する為に死が命へと与えた重力。



死は
「何も存在しないこと」
ではない。


生命にとって死とは
ただ無くなることではなく、
存在しないはずの虚空、
生の抜け落ちた空間(死)が「そこにある」ことである。


0から生命は生まれない。


本来存在するはずのない「死があること」、
それが生命なのだ。



つまり死は生の一部分であり、
生もまた死の側面に過ぎない。


「生きる」ということは、
「死が存在する」状態である。


だからこそ「存在する死」は、
その対価として同じ命を求め、
それは本能として、食物連鎖として
全ての生き物の生命活動を統括する。



これが生命の基本となる
「生命原理」である。



死が求める命は自分自身の命であり(核力)、
自分と同じ命(重力)である。
それ故に生は死の産物であり
死は生を集めるのである。


つまり動物の本能は「存在する死」から生まれる。


決して埋めることの出来ない、
生命世界に開らいた穴。



「自我の本能」も同じ命である以上、
この生命の原型をたどる。
つまり生命世界のもつ「本能」は、
自我世界のもつ「願い」と同じ種類のベクトルなのだ。



本能が進化させた生命体。
その生命体がより優位な状況で
生命を繁栄させる為に生まれた人間の自我。


つまり自我世界は
元々の生命原理を模倣する形で、
あるいはその本能の一部分として、
「人間原理」を発現させている。



生命の中心に存在する死と、
自我の中心に存在する虚空。


死と自我の中心「虚空」は
同じ空洞として
そこに求める力を発現させている。



存在するものが何処にも存在しない状態の「死」と
存在しないものが確かにある状態の「生命」。


あるのにない同じ、命と心。



死が命を求めるのと同様に
心の虚空は融合を求め
願い、そして希望を生む。


存在する死が人間の源であり、
死は人間の探求心を増幅する。



つまり死は無ではなく、
抜け落ちた生命世界の空間である。
その重力によって
生命世界は拡大へと導かれるのだ。