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2018年9月18日火曜日

(連載2)2-3「ひとりきりの人間」と「ひとつだけの世界」



仮に我々が、
道に迷い帰路を探してさまよう子供だったとしよう。


今はどんなに取り乱して不安に追われても
無事に我が家にたどり着ければ、
その先は安堵して穏やかに暮らすこともできるはずだ。


これと同じである。


人間はまだ自分達が立つ場所がどこかを
理解していない。


ここがどこかも分からずに、
何故ここにいるのかも知らずに、
ただ怯えているだけなのである。


その為に権威や権力に群れて、
その虚像に自らの安心を求めてしまうのだ。


つまり正しさの基準を
他人や社会に合わせて
造られた価値観に自らを当てはめていく。

それが出来ないうちは
安定も安心も満足に得ることは出来ない。




しかし大統一理論は、
そんな人間に正しい居場所と家族とを示し、
我々に強さと安定感を与えることだろう。



これは言い換えれば
人間が「必要とされる勇気」を持つことであり、
「自らの使命(価値)を学ぶ」
自立することである。


世界から人間へと向けられた愛情と期待、
それを自覚する人間の確信。

あなた個人からこの世界へと向けられた愛情と希望、
それを自覚する自分自身の確信。


それは人間と世界の間に存在する絆である。


このようにあなた自身がこの世界を必要とするように、
この世界もあなたを求めている。
(あなたには世界が必要である。
この世界にはあなたが必要である。)



このように大統一理論の知識は、
人間の有り様とその立ち位置を変えていく。



人間に託された自由と
それに伴なう責任への気づき。


いや本当の科学とは
我々に真理を教え
人間に指標を与えるための学問である。


それを成すことの出来ない現状の科学が
未熟なだけなのだ。




ここまでやや説教じみた論説となり申し訳ないが、
もともと世界と人間の結びつきは科学的であり
同時に精神的である。


そして宗教とは
この科学的に未熟な部分を物語りへとつくり替え、
精神的救済のみを主軸としたものである。


このために宗教の歴史的な成熟さに比べ、
より劣っているのは科学である。
元々科学と宗教は
そのどちらがより「正しい」かを
我々が判断する為の材料ではない。


これは人間が同じものを
同じ世界に求めた結果生まれた、
人間の同じ希望である。





科学がもたらす情報は、
たとえ見えないものでも確信へと変わり、
それが人間が生きるための知恵へと変わる。


だからこそ科学は「正しく」なければならず、
そこに未知の領域を残していてはならない。
ここでいう正しさとは
「事実」という意味であり、
それは個人の主張する正義ではない。


けれども現実の科学では
未だに世界と人間を確定することは叶わず、
各々の漠然とした思い込みのみが
現実世界を引きとめて、
真実をさらに不鮮明なものとする。



ここは重要である。


現代科学の
時間や空間が何かも知らず
それは昔から存在し続ける未知の概念だとする認識は、
世界には原始から存在するとてもエライ人がいる、
などという非科学的な思考と
全く同じレベルの主張でしかないのだ。


それの何処が科学なのか?


結局は人類のための科学ではなく、
大学や宗教、権力に近い一部の人間達によって
他の人間の価値観が好き勝手に
統制されているに過ぎない。


これは我々の信仰心や探求心が
利用されている、ということである。


国家と取り巻きと、権力者たち
ルールを振りかざす人間達によって。




人間は、この世界と人間の間には
何かしらの結びつきがあることを
本能的に理解する。

心と繋がる宇宙。

これはあなた自身が
内心で期待することかもしれない。


何か自分が特別なものであって欲しいという願いと、
あるいは世界に認められた(愛された)自分と
そこから生まれる満足。



だがもともとこの世界に育まれた命である以上、
我々が外側の世界に絆を覚えることは
当然のことである。



だが我々は感じているだけで
理解してはいない。



それは「何故」という根本的な疑問が
まだ解決されていないからである。



そして世界に
ひとつだけの原理があるのならば、
一人きりの自分と、ひとつしかない世界の
同じ存在する理由が分かるはずなのだ。




「大統一理論は
全てが無から始まった現実を理解する」




そこにビックバンはない。
宇宙と我々は同じものとして
このひとつの始まりに集約される。


そこに空想や神話を加えてはならない。




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