「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
にほんブログ村
2018年11月6日火曜日
(連載3)3-4次元世界の誕生
ここまでは実体の一例として、
「点が実在すること」と「線の実在する世界」の二つ概念を
取り上げてきた。
線世界の構成要素が点であり、
線と点は同じ概念上に同時に存在するものではない。
なによりこの両者はまず「同じもの」であり、
「存在する概念世界」の方が
異なる(次元世界の分岐)のである。
(点と線は同じ実体の内側と外側である。
しかし「点の内側へと向かう無限大の奥行き」と、
「点の広がりを示す無限大の拡大」は
「同じ点の領域」でありながら、
異なる方向性の概念である。)
点も線も
部分を持たない存在する非存在(実体)として
「同じひとつのもの」である。
そしてそこには
点を線とを同一のものとする「力学」が働く。
点の無限大の連鎖である線。
この「連鎖する力学」の理解が世界の真実である。
「ないものがある」
あるいは
「あるものがない」
このように点は
存在を持たない、唯一の世界に最初に現れた実体である。
今後は実体があることを「実在する」としてまとめるが、
それに対し「存在する」は
もっと同一的な接点をもつ観点である。
何に対して「存在する」のか。
「存在する」は、その世界に対して
部分(共通の範囲)を持つものでなければならない。
「実体」はその発現する概念世界(次元世界)によって
「存在するもの」あるいは「実在するもの」として
認識のされ方が異なる。
(全ての「存在する」は「実在する」である)
今度はその実例を見ていこう。
点だけが実体(モナド)ではないのだ。
線が存在する世界、
それは長さの概念世界である。
(構成要素が点、ただ一つによる1次元線世界)
この線の概念世界は
連鎖する点によってのみ構築される為(点と線は同じもの)、
線は点の部分によって成り立つ。
しかし点は、
線の存在である「長さの部分」は持たない。
その為に点は、線の概念世界における存在ではない。
こうして点は存在を持たない実体となり、
線は「長さを持つ新たな概念」として発現する。
だがここで新しく「存在する」と認識した線世界は、
今度は「存在する」ものだろうか?
点は存在しない実体なのに
その連鎖である線は、
確かに存在すると言えるのだろうか。
面の世界が存在する。
面の世界は複数の線のつながりが構築した、
広さの世界である。
(無限大に連鎖する線世界、それが面世界である)
その為に面は
線に部分(長さ)を与えられることによって成立する。
線と面は同じものである。
(この事実により長さ×長さで長方形の面積は算出される。
これも等価原理である。)
だが面の世界に「存在する」とは
面積を持つことなのだ。
面積の世界に存在する為には、
その概念は「面積という固有の範囲」を持たなければならない。
けれども線に面積の概念はない。
この為に線は
面世界に「存在するもの」ではない。
点の集合体として「存在した」はずの線が、
今度は面積の世界には「存在しない」。
線の連鎖として面積を創り出した線世界も
やはり同じ実体(モナド)なのである。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿