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2018年1月19日金曜日

モナドの声を聞く 3



「この世界には何も存在しなかった」


これが確定的な「始まり」である。



誰もいない。
何もない。
全てが存在しない。


他を必要とはせず、
そこに一切の疑問も生じることのない
唯一の領域。


「この世界には何も存在しなかった」


この宇宙に存在する
理由を持たないただひとつの大前提。
これが世界の始まりに
「存在する無」である。


そしてこれが
この世界が持つただひとつの現実
「大原理」である。



全ての知識はここから始まる。




この無を理解するために我々は生まれた。
これは過言ではない。
全ての探求がここにつながる。


無を理解することだけが
「存在する世界」の真実を知る
唯一の方法である。



誰もが探す本当のこと。



全ての人間が探求者となることに
その手がかりは残されている。


探求は「求めること」である。
全ての人間は「求めるため」に
自分自身で重力を持つ。


「重力」


そう、全ての原子は
自らの失われた空間を埋めようとして
そこに自身と周りの空間とを引きつける
重力を持つ。


この物質の重力が
人間の意志と同じ「力学」なのだ。





この世界に存在する無は「完全無」であり、
それは絶対的、かつ不変的な概念である。


もちろんそこに神はいない。
物理法則もまだ生まれていない。
したがってここにビックバンなど起きるはずもない。


事実はひとつである。


この世界の始まりが「存在する無」である以上、
世界は未だに
永遠の無「完全無」でありつづけているのだ。



ということは未だ

私たちは存在しない。


この世界も存在しない。


まずはそれを証明しなければならない。



けれども我々は
「存在する無」という現実を
まだ理解していない。


それは存在しない、ものではない。
存在しないものが存在する、
それが「存在する無」である。


ないのにある、
あるのにない。


「存在する無」の全てを
無条件に解読することは難しい。
だから少しずつ
我々は学んでいくしかないのだ。


けれども理解することが出来れば、
それは最も単純で
何よりも明確なことである。



全ての概念、そして存在は、
無から誕生した「同じもの」である。



全ての我々は
無をその「全ての部分」として持つ。


この世界が、
ここにいる「わたし」自身が、
存在する無なのだ。


あるのにない、
ないのにある。


無であることによって
存在する時間は存在しない時間「今」となり、
存在する点も
面積や長さを持たない実体「モナド」である。


あらゆる存在の
全ての部分を持たないモナド。
このモナド(実体)こそ
存在するのに存在しない「実在する無」なのだ。


その為に我々の世界では
全く異なる概念でも「同じモナド」として
全てが等価で結びつく。

これが大統一理論である。


その為に我々の世界では
存在する全ての概念が「永遠に存在しない」
無限大という性質を宿している。

あらゆる可能性を持つ、とは
そういうことなのだ。



存在する無と
どこにも存在しない無限大の概念は同じものである。
無限大とは
存在するのに存在しない「無の集合体」である。


モナドは全てを等価な「同じもの」として、
「存在する力学」である。


大原理はあらゆるものの回帰点である。



2018年1月12日金曜日

モナドの声を聞く 2



人間は生かされている。
人間は自分では生きていない。


今、私が問題にしているのは
人間の意志の問題だ。


生きたいとは思うだろう。
生きてやるとは考えるだろう。


だがそれは何のためか。


何のために人間は生きていなければならないのか、
何のために人間が存在するのか、
我々は自分の使命を理解しているのだろうか。


人間は自分の選択に
自由があることは知っている。
だが同時に、
人間には課せられた責任があることを
我々は本当に理解しているのだろうか。


それは誰に課せられた責任なのか。
どこから与えられた自由なのか。


全ては、あなたの勝手な自由ではない。
あなたが自分自身に「理由を与える」理由が
この世界にはある。




つまり世界と人間は
未だ不可解なものとして
我々人間からはまだ
確定されたものではない。


いくつもの前提を残したままで存在する宇宙。
神話から直結し、現代までつながる時間。


理解されることを許さない、
たくさんの同じ疑問。


私は
「人間は全てを理解することが出来る」
と信じる。


人間が「知りたい」という欲求を持って生まれることは、
真理を探究するために仕組まれた
人間自身の力学だと、私は考えている。


人間は必要があって
今の人間なのである。



これはある意味で「人間至上主義」
であるのかもしれない。
けれども私は
人間とその進化の歴史、
そして宇宙の歴史とを信頼する。



人間は「理解する」という目的の為に
白紙の状態で生まれた。
何度も、何度でも
やり直すことが出来るように。
進化する我々の知識のために。


それはわざわざねつ造された神話を覚える為の
キャンパスではない。
我々が彼らに伝えてよいのは
その手法だけである。


探究は彼らのものであり、
人間の数と等しいだけの探求がそこから生まれる。


何度でも繰り返される
「より正しいもの」を探すための挑戦。


それは人類の知識の積み重ね
つまり英知であり、
あるいは何の支えにもならない
薄氷の土台である。


人間には全てにおいて理由がある。


「単一」のものから生まれて
より多くのものへと枝分かれし、
無数のものが複雑に絡み合いながら
互いに支え合う、
あらゆる世界の持つ同じ構造。


更に強固な結びつきを求めるための
全と個による双方の
終わりなき前進。


誰もが知る、
全てのものに当てはまる
世界の生態系。
物質の生態系。
生命の生態系。
あるいは人間の生態系。


私は人間と、
人間に至る全ての過程とを信用する。
何故ならそれが「事実」だからだ。
「現実」は何よりも正しい。


私は存在する。
そしてこの世界もまた「同時に存在する」。


今ここにある現実が
探求のための
最大の手掛かりである。


世界はいつの時代も
人間を導くために正しい。
宇宙に不可解な謎が生まれる度に、
我々の科学は未熟さを知る。


我々はこの世界が現実であることを
我々自身に対して、
この世界に対しても
明確に証明していかなければならない。



このように考えると
現実に対する正しい理解
それが「原理」であり、
そこに疑いの余地がないもの
それが「真理」である。



したがって人間の理解が及ぶ最大の真理とは
「この世界には何も存在しなかった」
という原理のみである。



全宇宙で最もシンプルで
明確な現実。
あらゆる疑問を持ち込むことの出来ない
唯一の領域。


「この世界には何も存在しなかった」


これが事実であり、
真理であり、原理なのだ。



この「存在する無」を理解することが
人間の最初の挑戦である。



そこには
時間もない。
空間もない。
誰かもいない。
何かもない。


世界は何も持たない状態から始まる。
ここから全てを始めなければならない。
ここから世界を確定しなければならない。


必要なのは知識なのだ。





2018年1月5日金曜日

モナドの声を聞く 1




おそらく私は原理主義者である。


他を必要とはせず、
かつ他にとっての唯一の約束事である「原理」。


世界はこの「原理」に支えられて存在する。
それは「存在する世界」が成立するための大前提である。


言いかえればそれは
「世界が存在する理由」でもあるだろう。


あるいはそれが
宇宙を創生する「始まりの科学」である。


では「何故、この世界は存在するのか?」
これはこれまで何千回、何万回と
人々が問いつづけた疑問だ。


世界の始まりは何か。


私は神を信じない。
いや、私は神の存在を信じないのではなく、
この世界をひとりで創造したという
その利便性とご都合主義、
そこから生まれる人間の思考停止を
認めたくないのだ。


私は「理解すること」が人間の強さであり、
人間はそこから始まると信じる。


同様に私は
ビックバンを信じない。
ある日突然にしておきた無の大爆発など
科学が認めてよいものではない。
もちろん推測や仮定は必要だ。
しかし科学に思い込みや信仰を
持ち込んではならない。


「存在するもの」には全てにおいて
正当な理由がある。
因果律の矛盾を否定するのは
科学の正しい態度である。
正しさの積み重ねによって、
世界は現在の世界なのだ。


それが科学である。


すなわち「原理」を認めないということは
世界の歴史の否定である。
世界の存在する理由を正しく理解すること、
それが原理主義者の最初の挑戦である。




2017年12月31日日曜日

おわりに



最後までお読みいただき
ありがとうございました。


「モナドの声を聞く」は、
哲学書や
経典の類ではありません。


2018年の現代において、
一番進んだ科学書であり、
近未来の学問の教本です。


モナド(実体・点)に対する理解は、
我々を無知の呪縛から解き放ち
人間の可能性を最大限に引き上げるための
「全ての知識の源泉」です。


残念ながら今の我々を支配する知識は、
歪んでいて行き先の見えないものばかりです。


正しい知識を持つこと、
それが人間の生きるひとつの目的になります。
これが数千年に渡り、
私たちがずっと求め続けてきた本当のことです。


皆さん、
科学を変えていく為には
論文が必要です。


大統一理論を現実に引き寄せる為には
それこそたくさんの論文が、
数学に物理学に化学に、
生物学、哲学、人類学、脳科学、
全ての学問に必要なのです。


学問に携わる全ての方々へ。


どうかモナド(実体)の科学の実現のために、
本当の科学のために、
私達は勇気を持って戦いましょう。


「正しい知識の理解」が
人間が人間として
希望を絶やさずに生きていく世界のためには
必要です。


そのための科学を
今、私たちの手で開く時です。


私たちは「本当のこと」のために
生きなければなりません。


私たちの目には
全てのものが写ります。
私たちが変われば
この世界も本当の姿を見せてくれるでしょう。
(私たちを正しく導くために
この世界は存在しています。)


あなた方が学問を選択した本当の理由も
ここにあったはずなのです。


この先も
私たちが集まる広場のために、
このブログは残しておきます。


皆さまの学びと英断を信じ、
ここまでの結びとさせていただきます。


これまでお付き合いを頂き、
本当にありがとうございました。
また今という時間の中で
お会いしましょう。


「わたし」は「あなた」です。





2017  12/31

The third eyes  富史見 和輝


2017年12月29日金曜日

点と線 8




先ほどわたしは、
全ての点と0の間に違いはない、
と言いました。


「この宇宙には何も存在しなかった」
これが始まりの0(原点)です。


つまり
「この宇宙には何も存在しなかった」
という0の状態が
「全ての点が存在する状態と等しい」のです。


無からビックバンが始まったのではありません。
無と等しい状態として点が無数に存在し、
それが線を構築したのです。


そして「全ての点が存在する状態」
は線です。


更に「全ての線が存在する状態」
が面です。


「全ての面が存在する状態」
それが空間なのです。



宇宙はこのように
「無と同じもの」として
誕生しました。



無と点は同じもの。
点と線は同じもの。
線と面は同じもの。


お分かりでしょうか?
この「同じもの」という現実がやがて
質量とエネルギーが同じもの、という
等価原理に繋がります。


無を理解すれば
原理を理解することが出来ます。
原理は決して前提ではありません。
原理には原理の原理たる理由があるのです。
理由のない原理が
間違っています。



宇宙は純粋です。
ここに大統一理論が
生まれます。


科学は信仰ではありません。



わたし達は今、
現実を
正しく理解する必要があります。


あなたの視点、
「わたしの第3の瞳」を
どうかお貸し下さい。


そしてわたしの視点、
「あなたの第3の瞳」を
どうかご覧になって下さい。




よろしくお願い致します。




2017 12/29
The third eyes  富史見 和輝


2017年12月22日金曜日

点と線 7



点は無数に集まって線を構築します。
けれども全ての点は「位置を現す情報」しか持たず、
面積や長さといった「何かの部分」を持つことはありません。


では点は幻想(単なる情報)で、
存在しないものかというと
そうではありません。


何故なら「線から点を取り出すことは可能」だからです。


並行ではない2本の直線が交差した部分が
「点」です。


これによって
線の中に「点が存在すること」は
明確に証明されるでしょう。
点は「存在」します。


逆に「点」を正確に表記出来る表現も
「2本の線の交差した部分」以外にはありません。


このように2本の線の交差によって
「線の中に点が存在すること」は
はっきりと確認できます。
点の概念は現実に存在します。


けれども点は「長さの部分」を持ちません。
線という「長さの概念」の中にありながら、
点は「長さの概念(部分)」を持たないのです。


面積も長さも持たないのに
「確かに存在する」点。



わたし達の科学に欠けている大切なもの、
それがこの「実体」という概念です。



「実体」が哲学ではなく、
科学であることは明白です。
そして「数字」が科学ではなく
哲学だったのです!


数字ではない、
この「実体」を基盤として
わたし達の科学は
そこから始まらなければなりません。


よく分からないからといって
怖がらなくても結構です。
「実体」とは「点」のことですから。
体積も面積も長さも持たないのに
現実にそこに存在する点、
それが「実体」です。


わたし達はこの実体が
何故点から始まるのか、
その謎を理解する必要があります。
何故、
面積も長さも全ての部分を持たない点が
存在することになったのか、
その現実を理解しなければなりません。



宇宙の始まりはビックバンではなく、
「出現した点」です。




2017年12月15日金曜日

点と線 6



ではあの圧倒的な存在であった
「数字の0」は
どうでしょうか。


「何処にも存在しないのに、
確かに存在する点」0。


「何処にも存在しないのに確かに存在する点」0と、
「確かに存在するのに何処にも存在しない点」その他の全ての数字との
違いはなんでしょうか?


この両者に違いがありますか?


実は「0もその他のあらゆる点」も
全てが同じものなのです。


数字や0は、
もともと点や線を利用する為に
わたし達人間が発明した道具です。


しかし「宇宙に存在する線の概念」に
0はありません。
この世界に数字はないのです。
何より全ての存在する点が
「0と同じもの」なのです。


全ての記号や数字はわたし達人間が、
物事を理解しやすくする為の
勝手な約束事、ものさしです。


全ての点と0との間に違いはない、
と私は言いました。
線を構築する全ての点が0と等しい!
これが数字によって隠されていた
「本当のこと」です。


では何故そんなことになるのでしょうか。


点とは何か、
線とは何か、

わたし達はもう一度最初から
本当の事を理解し直さなければなりません。


「この点を1と呼びます」と覚えてきた
その前の段階から‥


それなくして「本当の科学」は成り立ちません。
はじめに0を置き
宇宙を折り曲げることの不自然さ、
基準点のない宇宙に
ビックバンなどという0点を持ち込み、
無理矢理の物理法則をでっち上げることの愚かさ、
このままでは人間の中心、知識が危険です。


科学はわたし達の「正しさの基準」です。
信じる為の宗教ではありません。
わたし達が理解するための知識であり
それが事実として
世界に対する理解となるのです。


世界から学ぶことが
本来の人間の科学であり学問です。
そしてその事実を歪めるものが
誤った知識であり
残念ながら「現代科学」です。



だからこそ世界の始まりから、
わたし達は本当の事を理解していきましょう!