にほんブログ村

2018年9月11日火曜日

(連鎖2)2-2 ひとつの世界



「同一」であること。



大統一理論によって示されるのは
世界と人間との絆である。


これにより我々は
宇宙と人間が「同一のもの」であることを
理解できるだろう。



ひとつの始まりから生まれた同じもの。



アインシュタインの発見した「等価原理」が成り立つ理由も、
ライプニッツの「モナド」が
人間の内側と外側を同一とする理由も、
その根底には大統一理論(超統一理論)がある。



それぞれが異なるために生まれた同じもの。
多様性を創り出すことは
広がる宇宙の一部分、新たな空間である。





人間はいかなる時代においても
宇宙の中に「世界と人間の解」を
求め続けてきた。


我々は何者なのか。
人間はなぜ存在するのか。
そしてこの宇宙はなぜ存在するのか。


自然の大地から離れ
造り変えられた人工物の森で生きる現代人にとっては、
もはや馴染みの薄いことかもしれない。
けれども人間が生きるという事は
本来は「自然を理解すること」であった。


その中で人々は「自然と心を通わす」という行為を
ごく当たり前のように行ってきた。


これは動物や植物などの
生命体ばかりを対象とするものではない。
山や川、海や空といった無機物とさえ人間は
その言葉を交わし、
彼らの感情をくみ取ってきたのである。



一方自然界においても、
人間には試練と恩恵とを与え、
彼らはその命を守り、常に磨き続けてきたのだ。
自我世界を育てたのは自然界である。



母なる大地、母なる海、母なる地球‥
現在も人間による自然賛歌は
歴史、文化、行事、学問、それ以外にも
人々の素直な心情として位置付けられている。


そこにあるのは感謝、崇拝、恐れ、
癒し、恵、信仰、敬愛‥


物理的、そして精神的に考えても、
宇宙と自然、人間と世界とは
決して切りはなすことは出来ない。


そこにある繋がりと結びつき。


我々はこの世界から「学ぶ」ことで成長し
今もなおこの世界への理解を必要とする。


世界は人間を導き、我々を歩ませる。




だが現代、
人間は自らの裁量を超える暴力によって
この世界を荒廃させ、
生命体に課せられた義務からも逸脱しようとしている。

果たして自分の欲望のために
自らの手足を切り捨てる愚かな生き物が
他にあるだろうか。



それでも人間は
決して失敗作ではない。


例え人間が他のどの知的生命体に代わろうとも、
知識の基盤なしでは
同じ過ちをただ繰り返すだけである。
人間はこの与えられた機会を生かして
成長するしかない。



我々がごく一般的に考えても、
人間のためだけにこの世界は存在する訳ではない。
実際に世界は様々な様相、あるいは歴史をもち、
その一部分にのみ我々は
人間の生活環境をあたえられたのである。


人間が自然に対して抱く感謝や恐れ。
同時に宇宙や世界が
人間を育てるために費やした
気の遠くなるほどの時間と愛情。


我々はそこに絆を覚え、
そしてこの世界に誘われ、
これまでの間科学や宗教を発展させてきた。


それは自然を理解し、納得し、
生き残る為の知恵でもあった。


つまり我々は、
自分の中の感性と理性の結合を
同じように望んだのである。


人々の想いが投影される自然世界。


それは感傷ではなく
科学的に確かなものでなければならない。


それは世界を愛するものが
同じように世界からも愛される、
確かな証明である。




人間は弱い。
だからこそ自らの隙間を埋めるために
この世界を必要とする。


そしてこの世界の隙間を自らの存在で補えた時、
人間はこの世界と同等の強靭な輝きを放つ。



そしてそのために
世界を求める人間の探求はある。
その場所へと我々を誘う
確かな重力がある。



今はまだ分からなくてもいい。
だがこれらの理解と探求は、
現代社会においても変わることなく続けられている。


人間はこの世界として生きる希望と、
同時に世界を広げる太陽としての役割を担う。




けれども現代の我々は
お金を求めることに時間を消費する。
人間には本来、お金を求めるという本能はない。
けれども人間の生きる目的が
お金によって差し替えられているのは事実である。


ではお金は、
一体何に変わるはずのものだったのか。
それは今、我々が考えなければならない問題である。

手段が目的となってしまった経緯、
金銭による支配、
これが絆を失った科学に代表される虚構であり、
人間の渇きである。



けれども人間は、
本来は宇宙と人間とのつながりを、
(自分と世界との絆を)
深く求めている。


ただ闇雲に何でも求めるだけの巨大な塊から、
自身を作り変えながら世界中に風を吹かす
新たな輝きの中心へ。




従って我々が求める「大統一理論」とは、
実は世界と人間の「つながり」を
理解するための科学である。


「大統一理論」は
あらゆる存在を統合する「大原理」が
この宇宙には存在することの証明なのだ。




これは夢物語ではない。



直感的に唯一の原理を認識するからこそ、
我々は宗教を認めてしまう。
いや、漠然と感じるのは
世界を巻き込むもっと大きな流れである。


そして科学とは、
事実としてその原因を理解することが
目的だったはずなのだ。


しかし答えを出せないままでいる科学と、
結論しか答えられない宗教。
その対立は人間の葛藤でもある。




我々が求めるのは「本当のこと」だ。


理性も感情も等しく納得できる場所、
それが本物の科学の期待値である。



信仰心には影響されない科学、
逆に信仰心を理解出来る科学を、
我々は必要とする。



世界がひとつの現実から始まったのであれば、
存在と力学は常にひとつである。
全ての世界は同じひとつの現象なのだ。





0 件のコメント:

コメントを投稿