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2018年8月14日火曜日

(連載1)1-6 「外側の世界」と「内側の世界」



話をもどそう。


本能は重力である。


命が生み出した
「生命が同じ生命に引き寄せられる力学」、
その力学が宿る有機物が生命である。


この重力によって命は、
他の数多くの生命と新たに結び付けられていく。


この生命の繋がりの中で、
死が創り出した人間に宿る必然的な探究。


「我々は何処から来たのか。
我々は何者なのか。
我々は何処へ行くのか。」


ゴーギャンのこの問いかけは、
人間の深層でより単純化された
人間の持つ究極の疑問だと言えよう。



人間が疑問を持つのは、
その認識力においてである。



そして人間がその認識力によって疑問を抱くものには
大きく分けて2つの種類がある。


他者と自分。


あるいは何かと自分。
つまり「世界と自分」である。


この世界はどこから来たのか。
この世界は一体何か。
この世界はどこへいくのか?


つまるところこちらの疑問も、
ゴーギャンの同じ問いかけの表と裏である。



ではこのように人間の探求心の向かう先は
“世界と自分”の2種類で
本当によいのだろうか?



「よもや自分の中にも他の世界があったり、
世界の中にも他の自分がいるようなことは
起こり得るはずはないか?」



あなたの心の位置によって
この世界は見え方を変えていく。

この世界の情勢によって、
あなたも存在の仕方を変化させるのだ。



世界と「わたし」の間には
本当に異なった力学、あるいは違った原理が流れているのか。




何故と問う、世界と人間の先に
ぼんやりと見えてくる共通項。



人間は、あるいはこの世界は、
本当に存在するのだろうか?


自分は何者か?
世界は何故存在するのか?




今、考える時だ。



もともと人間は
この世界の一部分として生まれている。


そしてこの世界もまた、
我々人間の一部分である。


人間がそれを認識し、
それらを自らの内側に宿すという意味において。


そしてあなた自身の中にも
この世界の構成要素としての、物質、空間、時間、などの
宇宙の一部分が含まれている。




我々はこの世界を愛し、
かけがえのないものとしてこの世界を想う。

それはあたかも自分自身を愛するように。


そして人間は自分を忌み嫌い、
おのれの影にも怯える。

それはこの世界を憎み、畏怖するのと同じである。



世界と自分。


あなたを映し出して
あなたを投影する鏡。
世界を反映して
世界を映し出すあなたという鏡。





さらに人間の感情は
その全てがこの世界の状態によって
表現する事ができる。


同じ日、澄み渡る青空に
自分自身の心を浮かべて全てを受け入れる人々と
眩しすぎる太陽に目を背け
全てを否定してしまう人々。


そこに見える景色は、
単に自分自身を写した鏡に過ぎない。



詩人たちは理解していた。
この世界は“全てのことが記された書物”だと。
そして哲学者は教える。
この世界には窓がなく、
世界を見るものの全ては同じように世界から見られると。



では何故、この世界は我々の鏡となるのか?
人間がその瞳に写すものとは
一体何処にある世界なのか。



人間とは何か?
世界とは何か?


この世界と人間の繋がりは?





世界を理解して学ぶことは、
そのままで人間理解、
ひいては自分自身を理解することである。



まずはこの世界が先に誕生し、
そのあとに生命が、
そして我々人間が「それを模倣して」生まれたのだから。

模倣?
縮尺?


いや我々は「同じもの」である。


物質でさえ生まれ、消えるものであれば、
それはあなたの命や意志とも同じものである。


違うのは存在する場所だけではないか。


だからこそ人間は
他の生命に依存し、
この世界とも共有して生きている。


単純に地球とそこに生きる全ての生命、
そして我々人間も、
この世界の摂理に従ってここに存在する。



人間だけが特別に
「存在する理由を持つ」訳ではないのだ。



人間は理解することによってそれを共有し、
自身を広げる生き物である。
つまり理解したいという人間の希望や好奇心の行く先には、
必ずその中に「人間が広がること」がその目的としてある。



それは逆に
人間は理解できないことに対しては不安を覚え、
恐怖し拒絶するということである。



従って人間がこの世界を理解しようと努めるのは、
人間がこの世界を共有し、
その先に人間が世界との融合を望むための
正しい姿勢である。


それは自らが存在するという不安を払拭し、
この世界に安堵を求めた結果なのだ。



この願いによって我々は
人間とその歴史を造って来た。



人々を先へ先へと歩ませる願いと、
それを生み出すためにある心の空虚。




この「失われた心の空間」を埋める為の前進で
これまであいだ人間は、
手探りでその行進を続けてきた。


原罪と呼ばれたこの空洞が何を意味するのか、
我々は未だ理解することが出来ないでいる。



けれども全てを求め、
全てを生み出すこの虚空が人間であり、
我々の全てを生み出す希望の本質なのである。




この虚空は物理学によってのみ
理解することが可能だ。



我々が抱き続けた存在そのものに対する疑問、
理解できないでいた漠然とした不安。



そこにあるのは“存在”に対する
人間の無知である。



だからこそ、
我々は知らなければならない。
事実をだ。





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