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2021年5月26日水曜日

点と線6(真理はここから始まる)

 


「全ての点は0と同じもの」です。



圧倒的な存在として宇宙の中心に居続けた

「数字の0」は、

実は全ての数字、あらゆる点と同じものでした。


「何処にも存在しないのに、

確かに存在する点」これが0です。


ところがその他のあらゆる点(数字)も

その本体は

「ここに確かに存在するのに

何処にも探せない、何処にも存在しない点」です。



そこに呼び名として数字や記号を与えたとしても

結局は1、000…   2,000…   あるいはπ(3、14…)として

誰も特定することも、確定することも出来ません。


これは仕方のないことだったのかも知れませんが

思考停止の罠です。


これが数学です。



「何処にも存在しないのに確かに存在する点」0と、

「確かに存在するのに何処にも存在しない点」その他の全ての数字との

違いはなんでしょうか?


この両者に違いがありますか?


だから「0もその他のあらゆる点」も

全ては同じものなのです。




線を構築する概念は「連続する点」です。


けれども点はその全てが0で、

結局は何処にも存在することが出来ません。


何故なら点には本体(この場合は面積)が

与えられていないからです。




この仕組みを理解することが

本当の意味での宇宙物理学です。




これまでは「無から有が生まれた」、

これが現代科学の考え方でした。

その為に「マイナス有」を

ありもしないのに必死で探しました。



けれども真実は「0と点は同じもの」、

つまり無は有としてここに存在し続けている、ということが

私達の世界の解答となります。



長さを持たない為に存在出来ない点、

面積を持たない為に存在出来ない線、

体積を持たない為に存在出来ない面…


これが「あるのに何処にも存在しない0と等しい」世界の仕組みです。





数字や0は、

もともと点や線を利用する為に

わたし達人間が発明した道具でした。


けれども「宇宙に存在する線や点の概念」に

0の概念はありません。


この世界に数字はなく、

何より全ての存在する点が

「0と同じもの」なのです。



全ての点と0に違いはない、

と私は言いました。



世界を構築する全ての点が0と等しい!

これが数字によって隠されていた

「本当のこと」です。


では何故そんなことになったのでしょうか。


点とは何か、

線とは何か、


わたし達はもう一度最初から

本当の事を理解し直さなければなりません。


「この点を1と呼びます」と覚えてきた

その前の段階から‥



それなくして「本当の科学」は成り立ちません。



はじめに0を置き

宇宙を折り曲げることの不自然さ、

基準点のない宇宙に

ビックバンなどという0を持ち込み、

無理矢理の物理法則をでっち上げることの愚かさ、

このままでは人間の中心にある知識が危険です。



科学はわたし達の「正しさの基準」となります。



信じる事を目的とした宗教ではありません。



科学はわたし達が理解するための知識であり

それが現実世界として

人間の世界に対する考え方となるのです。



世界(宇宙や自然)から学ぶこと、

それが本来の人間の科学であり学問の姿です。


そしてその事実を歪めるものが

誤った知識(思い込み)であり

残念ながら「現代の科学」です。



だからこそ世界の始まりから、

わたし達はこの宇宙の本当を理解していきましょう!








2021年5月18日火曜日

点と線5(数字のレトリック)

 




それでは0以外の他の点にはどんな意味があるのか、

あるいは0以外の点はどんな概念を持つのか、

それを見ていきます。



まず1番に

考えてみたいのは無理数です。



無理数の代表格は円周率ですね。

これはπです。

およそ3です。

3.145926535897‥

小数点以下に予測のつかない数字が延々と続きます。

まさに終わりのない、

決してたどりつくことの出来ない点、

それが無理数です。



けれども無理数もきちんと

「そこにある点」なんですね。



たどり着けないからといって、

円周率が「存在しない」訳ではありません。

簡潔に表すことが出来ないから記号で、

もしくは数式のままで、

そこに「存在すること」を表しているだけなのです。



でも数字であらわすと、

無理数には本当にどこまで行っても

たどりつくことが出来ません。


というか、無理数は

絶対にたどり着くことのできない点なのです。


「そこに確かにあるのに、

どこまで行っても確定することのできない」点、

それが無理数です。

だから「存在する円周率」は

記号で表記するしか方法がないのです。



さて、ここで大事なことは

円周率に代表される無理数は

「存在しない」訳ではないということです。

単に数字で表記出来ないだけであり

ちゃんとそこに「存在する点」だという認識は必要です。




この「存在する点」を理解するために

今度は循環小数を考えてみましょう。



0.333…と小数点以下に

同じ数字がエンドレスに続く点、

これが循環小数です。

循環小数も確かにそこにあるのに

「少数点の表記」では

やっぱりたどりつくことは出来ません。


けれどもこの循環小数は

1/3と分数表記にすると正確に確定することが出来ます。

これは3倍すると1となる数字で

キチンと安定してますよね。


0.333…と1/3は「同じ点」を表します。


このように少数点表記では

決してたどり着けない「循環小数」も、

分数表記でならちゃんと確定する事ができました。

これは循環小数も円周率と同じように、

たしかにそこにある「存在する点」だからです。



しかし、どこまで行っても続く

「終わらない一つの数字」が、

確定された状態で「存在する」とは

一体どう言うことなのでしょうか?


1/3と確定できる点と

0.333…と表記しきれない点が、

全く同じ点である、とは、

一体どういう理屈なのでしょうか?

片方では確かに存在する点が、

基準を変えることによって存在出来ない点になる、

ということですかね?

いやいや、どちらも同じ点であり、

それは存在する点ではあるけれど、

まだ数列が対応できてないだけでしょうか?



そこでいま一度、

我々が最も安心して確定することの出来る点、

「普通の整数(自然数)」の性質を確認しましょう。



数列上のいたるところに均等に配置されて

確かに存在する信頼できる点、

それが普通の整数(ここでは自然数のこと)です。

あるのかないのかわからない前者たち

終わりの見えない無理数などと比べると、

ややこしくもなく、潔ぎのよい普通の数字です。



わたし達も整数はどこにありますか?と聞かれても

ここです!と

自信を持って示せることでしょう。


えっ、どこですか?

あなたの指の先に!?

よくわかりません!


よくわからないのでその点を

1000倍ほどの大きさに拡大してみるとしましょう。

先ほどあなたが示した小さな点は、

今度は結構大きな円であったことがわかります。


これは点ではありませんね。

おそらくその拡大された黒丸の中心に、

点の本当の本体はあるのでしょう。



ではその円の中心をもっともっと、ずっと、

出来る限り拡大してみましょう。

「整数の場所」にあった確かな点は、

果たしてその中にありますか?



何度くりかえしても、

幾らくりかえして見ても、

点の本体は見えて来ません。


1.0000…
2.0000…
3.0000…


つまりわたし達が

確かに存在すると思っていた普通の整数も、

実は決してたどりつくことの出来ない、

「循環小数の仲間」だったのです。



「確かに存在するのに、

何処にも見つからない点」


決して言葉のあやではありません。

全ての点が探せないことが真実なのです。


円周率が記号で表わすことしか出来なかったように、

あるいは分数で表せる点が終わりのない循環小数だったように、

実は全ての整数も

記号で表わすことしか出来ない点だったのです。

1や2や3といった「記号」でしか‥


「確かに存在するのに

何処にも存在しない点」


それが数列上の「全ての数字」に与えられた

点の本来の性質です。


それは例えわたし達に何と名付けられようと、

変わることのない「事実」です。



無理数や循環小数だけが

特別な「存在しない点」ではなかったのです。

整数を含む全ての点が

決して確定することのできない

「存在するのに存在しない点」です。


円周率は何処にあるのか?


終わりのない特別な数字へと向けられてきた

わたし達の疑問は、

本来は全ての数字、あらゆる点へと

向けられるべきものだったのです。



全ての点はあるのに何処にも探せない

0と「同じもの」です。






2021年5月13日木曜日

点と線4(数学という哲学)

 



つまり0を基準とする数列を使うことによって

結論は先に導かれてしまうのです。



宇宙にはマイナスの物質世界がある!

という概念は、

実は計算の結果ではなく0を使用した時点で

「最初から決められている」

約束事です。



全ての数字の合計値は0!

これも0を起点とする数列によって生まれた

前提としての決まり事(哲学)です。



宇宙に始まりの点0を置き、

そこからプラスの世界が生まれれば

マイナスの世界も「なければいけない」。



0から生まれた世界は

最終的に0に戻ら「なければならない」。



これら当然の考え方は、

あくまで数列世界における常識なのです。



本来数列ではない「全てのもの」に0を使っても、

本当に良かったのでしょうか。



マイナス2個のリンゴが

「足りないことを表す表現」ならまだ良いのです。

しかし2個のマイナス属性のリンゴが現実に存在する、

という解釈になれば目も当てることはできません。




けれどもまず最初に理解して頂きたいことは

「ないものが存在する点」は0です。

0の概念の正体は

「ないものがある」

これで正解です。



このようにあまりにも特別過ぎる点0は、

明らかに他の点とは異なります。


しかし0は

宇宙に最初から存在した起点などではなく、

後付けにその意味を考え出された道具であることを

覚えておいて下さい。




それは真理を発掘した結果

発見されたものでもなく、

どこにでも存在する「何かの模造品」であることも

すぐに証明出来ます。



0はそれを使う人間の意思で

何処にでも置くことが出来ます。

つまり全ての場所(点)は

0と等しい、0と同等の概念を持っている、

ということです。


これが存在する全ての世界が持つ秘密です。


オンとオフのように

あるとない、だけではなく

その全ての点の中に

「あるのにない」の0の概念が含まれているのです。



全ての点、それは確かに存在するのに

点には面積はありませんよ。

面積のない点が

存在するとはどういうことですか。







2021年5月6日木曜日

点と線3(数字の0について)



では数字の0のお話です。


0は最も特別な点であり、

科学と同じ距離に哲学的な意味も漂う

不思議な数字です。



まずこの「0という数字」の意味から

探りましょう。



「0はあるのか、ないのか」と

よく議論されます。

けれどもこの0を置くことによって

数列全体が始まる、

全てのものの基準点が0です。



0を境に正反対の異なる世界が表記されます。

正にあらゆる数字の中庸にあり、

世界のど真ん中に位置する点が0です。



「数列が存在する」こと自体も0に由来し、

0は全ての点の支配者というべき

圧倒的な概念を持ちます。


全ての始まりが0なのです。


ではこの基準点0は、一体

どこに定めることが正しいのでしょうか。



果たして、絶対的な基準点などが

本当にありうるのでしょうか。


つまり「0を置くこと」自体に、

その基準を決める人間の意志が反映されるのです。



どうして0は誰もが自由に

勝手に何処ででも使うことが出来るのでしょうか?



謎だらけですね。


実際はわたしの世界は

数字に支配されているのではありません。


これは世界を構成する要素の中に

数列を当てはめることの出来る「何か」が

ある事を示しています。


数字ではなく、この「何か」を理解することが

本当の物理学の仕事です。


数学が先行する以上

物理学の先はまだ暗いです。






ただこの「0に付けられた意味」、

つまり「0はあるのか、ないのか」議論には

けっこう簡単に結論が出ます。


0の概念は「ないものがある」で正解です。


「ない」と「ある」はどちらも正解ではありません。

あるのにないもの、あるいは、ないのにあるものという

私達が普段はほとんど意識しない価値観が必要になります。



0は私たちの世界の中に巧妙に隠れています。


例えば時間における「今という瞬間」は0です。

「今」はどこにも存在出来ない長さです。

ただこの「長さを持たない時間」はいつもここに確かにあります。



例えば「命」だって0の仲間です。

「命」って一体なんでしょうか?

確かにあるのに何処にもないもの、

何処にもないのにここに確かにあるもの。


「あなた」や「わたし」という自我だって

やっぱり0です。

あなたは何処にいますか?

人間の頭の中ですか、

胸の奥にいるのが本当のあなたですか?

この世界の何処にも見つからないのに、

あなたはここに確実に存在します。



あるのにないもの、

ないのにあるもの「0」は、

私達が意識しない現実世界の中に

間違いなく存在する概念なのです。




それにしても0は、くせものです。


0の概念は「あれば便利だから」という理由で

人間が勝手に創り出しました。

そして0は、

数学的には大変役に立ちます。


けれどもその圧倒的な支配力は、

0を使用した途端に世界を半分に折り曲げて、

正負の概念を強制的に作り上げてしまうほど強烈です。


数字の0は道具ですよ?


昔の頭の良いインドの方が考え出しただけの発明品です。


しかし0を置くだけで

既にその世界観だけで、

数列世界全体に先に同じ結論を与えてしまうのです。


中庸は0であり、

世界は正と負に分けられてそれぞれの量は等しく

全てを合わせると0になると。


これでは宇宙物理学なんて必要ありませんよね。


数列を使う以上、同じ結論が生まれることは

最初から分かりきっています。


物理学者達が探っているのは現実世界ではなく

数列世界です。

早く気付いて欲しいですね。




では0は、本当は
どこにあるべきものだったのでしょうか?

 

2021年4月29日木曜日

点と線2(科学は間違っている)


これから数字の0についてお話をします。



0は特別な数字として用いられる

数列の基準点です。


しかしこの認識は人間の発明から生まれたものであり、

「数字や数列」と「点と線」の概念は重なりさえすれ

それは決して同じものではありません。



まずその事実を確認するために

この特別な点0とその他の点との違い、

例えば無理数や他の整数などとの違いを

調べていきましょう。



そこに数列に隠された真実があります。

そこにあるのが点と線の持つ「本来の自然科学」です。



では本題に入る前にこの章では

そのことについて語らせて下さい。





わたし達の先祖の数学者は

「点が何かを知らなかった」ために、

点にその呼び名となる記号を与えました。



それ以来わたし達は

やはり「点が何か」を考える前に

「存在する記号」として

数列を理解するようになりました。



つまり数学を始める前に

勝手に前提を作ってしまったのです。



ここでわたし達のおかした大きな間違いは

点に記号を与え「存在するもの」として

点を理解したことです。



「前提のある科学」は

最後まで前提を残したままです。

もしも仮に数学を全て理解した人間がいたとしても

彼の最後の疑問は「この前提は何故あるのか?」

で終わります。


「0は無いもので、点は存在する」


その前提に何の疑問もなく

そこから始めることによって、

わたし達人間は大きな弊害を(もちろん利益もですが)

受け取ってきました。



この仕組みは「世界は神様がつくった」として

そこから始まる疑似科学と

何ら変わることはありません。


つまり数学には前提を超えて

世界を理解する力はありません。


これは「世界を理解する為の物理学」が

未だに世界に解答を与えることの出来ない理由です。




その事実を理解できた時、

道具としての数列の課題も

数学を科学の基盤として活用することの問題も、

おのずから分かることでしょう。



正しい理解がなく、

わたし達がただ「それが正しいから」と

覚えてきただけの知識に、

きっと驚かれるに違いありません。



結論だけ先に申し上げますと、

わたし達の科学は

まだ始まってもいません。



「本当の科学」を始めるためには、

そして「正しい学問」を人間が手に入れる為には

わたし達には正しい知識が必要なのです。



本当の科学は間違えません。

もしもあなたが

「科学は間違っている」と感じられるならば

それはその科学がまだ本物ではないからです。


世界の正しさ、それが科学です。




これはそれを理解するための学習です。





2021年4月21日水曜日

点と線1(存在するものとしないもの)

 

私達は数学で点を使います。
でも本当に点は存在できるのでしょうか?
点には面積がありません。
面積を持たない図形は存在できますか?



では線はどうでしょうか。
線は点の集合体です。
私達はこの線を使います。
しかし線にも面積や体積はありません。
では面積のない図形が存在出来ますか?



長方形や三角形には面積があります。
点や線で構成されたこれらの図形には
「独自に占有する面積」が与えられていて
この図形は存在します。


でもちょっと待って下さい。
体積を持たない長方形が
本当に存在するといえるのでしょうか?



私たち人間の使う「存在する」という言葉に
今区別はありません。
けれども「本当に存在するもの」を考えるにおいては
正しい認識と知識が必要なのです。



「存在する」を一種類しか知らない人類に
「宇宙は存在する」を理解することは出来ません。



我々の宇宙は力学の連鎖による流動するベクトルであり、
その連鎖の段階、段階が次元世界と呼ばれます。
このブログでは「何故存在するのか」という全ての疑問に
科学的な解答を考えていきます。









点と線1




わたし達の科学は
点と線を活用することによって
大きく進歩しました。


それは人間が
数字を活用する技術
「数学」の誕生です。



わたし達はこの数列の上を
行ったり来たりしながら、
公式を見つけ出したり、
解を探したり
まさに正しさの基準として
数学を利用して来ました。


線は無数の点のつながりであること、
点は二本の直線の交わった一点であること、
線はその長さによって範囲を表すことができることなど、
点と線の運用は科学の基本にあります。



そんな数学の基礎でありながら、
数列の活用によって
わたし達の世界の全てが理解できると、
ほとんどの物理学者は考えています。



それは正しくもあり、
けれども大きな間違いです。



宇宙にも点と線の概念はあります。
そしてそれを活用することは
決して間違ったことではありません。


しかし我々が数学で利用する数字や数列は、
計算の前提として作り出された「道具」であり、
これは0という数字にしても同じことなのです。



わたし達には科学に対する信頼として、
数学は知識の前提であるという認識や、
その理解があります。


しかし数字や数列は、
人間の文化や歴史的な構築物としての側面も色濃く、
それは理論的な哲学のひとつに過ぎないということを
わたし達はまず理解しなければなりません。



つまり普遍の真理を表すと
考えられている方程式でさえ、
その根底には人間の考え方や捉え方といった
思い込みが先立っているのです。






2021年4月13日火曜日

(連載22)22-4「存在しない」と「永遠」は同じ


 

人とのつながり、

世界とのつながり、

それを知ることは私たち自我世界にとっての

数少ない安らぎです。

 

 

もしもこの一文が正しいものであれば、

人間が世界とのつながりを蓄えるということは、

この世界を私たち人間の安らぎの場所へと

変えていくということです。

 

 

このように理解するのは人間であり、

けれどもそれが世界から理解される人間の在り方です。

 

 

 

本当は、今ここに居ることが一番の幸せなのです。

 

 

 

 

 

 

次元理論を考えはじめたころの

私にあったものは

ただこの宇宙にたいする「好奇心」だけでした。

 

 

宇宙が何故生まれたのか、

何故私はここにいるのか、

それを純粋に知りたかったのです。

 

 

私も最初はビックバン神話を信じ、

そこに疑問が生まれ、

結果、実体から始まる宇宙の形にたどり着きました。

 

 

 

無への理解が人間理解につながることも、

次元理論が私に教えてくれました。

 

 

 

少し奇妙な話になりますが

この次元理論における旅では、

私は一人の画家として、

そこで見てきた風景を出来るかぎり正確に

描写してきたに過ぎません。

 

 

よって私も単なる次元理論の

「最初の読者」です。

 

 

「わたし」が問いかける「わたし」は

いつも「わたし」でした。

 

 

 

ですからもし皆さまに

この文章を読んでいただき、

共感や理解して頂けたとしても、

それは私の力ではなく、

皆さま自身の能力によるものです。

 

 

「わたしの視点」によって、

あらゆる次元世界を共に旅して来られた、

私の大切な友人である「あなた」。

 

 

「わたし」には見つけ出すことが出来なかった世界も、

「あなた」であれば見つけることが

出来るかもしれません。

 

 

 

そしてこの本も「わたし」が書いたものだということを、

どうか忘れないで下さい。

 

 

もしも「あなた」が

無を理解した最初の「わたし」であったならば、

「あなた」も同じようにこの「次元理論」を執筆したはずです。

努力や才能は、

それを本当に必要とする人間に与えられるのです。

 

 

 

人間は誰もが

この宇宙の中心にいる特別な存在です。

 

 

そして特別な人間など、

誰一人としてこの宇宙には存在しません。

 

 

 

 

おそらく私も

「一人の宇宙として存在する」とは

「全ての宇宙として存在する」ことと同じという

次元理論の示した結末に、

大変満足しております。

 

 

過去も未来もなく、

今しか存在しない世界。

宇宙もわたしも。

存在することが出来ないから

始めていることが出来る世界。

「存在しない」と「永遠」は同じ。

 

 

 

私たちは私たち自身の存在を、

この宇宙の夢や希望へと変えていくのか、

あるいは一時の幻とするのか、

自分たち自身で選択する自由があります。

 

 

つまり私たちには責任があるのです。

その責任は生きる希望と同じ、私たちの権利です。

 

 

迷うことは必要です。

 

 

けれども私たちの外がわには宇宙があり、

この宇宙はどんな時でも「正しい解答」を

私たち内側の宇宙に与えてくれます。

 

 

どれだけ広く、あるいは遠くまで、

見渡すことが出来るのか。

 

 

私たちは求め続けなければなりません。

私たちはベクトルです。

 

 

「彼ら」は強く優しく温かく輝きながら、

そして深遠で冷たく厳しく、

私たち人間に問いかけます。

 

 

 

「人間は何処から来たのか、そして人間は何処へ向かうのか」

 

 

 

その問いかけは、

あるいはこの世界から

我々人間へとむけられたものです。

 

 

 

「人間とは何者なのか」

 

 

 

それは私たち自身が選択することです。

 

 

 

 

なによりありがたいことは、

彼らは悠久の時間をかけて

私たち人間を見まもることが可能だいうことです。

 

 

私たちは着実に、少しずつ

ただ広がっていけばいいと、

私は思います。

 

 

 

 

「わたしは世界を愛するように、

自分自身を愛しています。

わたしは自分自身を愛するように

この世界を愛します。」

 

 

 

 

 

次元理論は「この世界を理解したい」と願う「あなた」を

「理解する」ための論文です。

 

 

もしもそれが書き手としての私の力不足によって

皆さまに正確にお伝えする事できなかったら、

私は「新しい書き手」に

この次元理論をゆだねることを否みません。

 

 

 

次元理論は人類の探究の歴史であり、

自我世界の一部分です。

 

 

 

このたび「わたし」が偶然受け取ったこの「バトン」も、

本来は「あなた」にお渡しするためのものです。

 

 

 

「時間は止まらない」ということを、

これからもお互いに証明し続けましょう。

 

 

 

次元理論が私を幸せにしてくれたように、

どうか皆さまの人生も有意義で

豊かなものでありますように。

 

 

         

 

2016,12,31(初版)

2018,6,26(改訂版)

The third eyes こと 富史見 和輝、

ブログ編集  青木 聡汰

 

 

 

ありがとうございました。













                  

2021年4月7日水曜日

(連載22)22-3出発


 

 

 

人間は誰かと一緒だと安心することが出来ます。


 

けれども「自分だけはちがう」として、

一人で歩きだす力も持っています。

 

 

次元理論を理解して頂ければ、

彷徨える自分を奮い立たせることも、

崩れそうになる自分を支えることも

より容易な事となり、

次の挑戦へと向かうための力が

確実に生まれてくるはずです。

 

 

 

わたしたち一人ひとりは

世界を広げるための使命を持った

全ての存在における希望です。

 

 

 

 

 

そんなちっぽけな事に全身全霊を傾けて

時には情熱の炎で自分の命を輝かせ、

あるいは時折この大宇宙に自らの願いを浮かべて

我々の本当の故郷へと想いを馳せながら、

来たるべき未来を一緒に夢見たいものですね。

 

 


 

時間も場所もこえて

我々の自我世界は「つながる」ものです。

 


ですから我々は、自分の望む者と

いつでも語りあうことが出来たのです。

 

 

すでに我々が、いつでもそうしているように。

(今も私は「あなた」と話しをしています。)

 

 

 

あらゆる宇宙や時代、地球上の全ての人々とも、

自分自身の自我世界がどこかで繋がっているのだと感じることは、

個である自我にとっての心強い確信です。

 

 

人間の弱さはそのままで

人間の強さに変わります。

 

 

どれほど多くの価値観を共有出来るのか、

どれほど深い結び付きを保てるのか、

それが人間の強さだと私は考えます。

 

 

そしてその事が、

私達が自我世界で「生きる証」なのです。

 

 

 

 

 

 

 

次元理論はまだ

生まれたばかりの子供と同じです。

 

今後は多くの方々との出会いを体験し

何かをいただいたり、

また何かをお分けしたりしながら、

正しく成長してくれることを

私は願わずにはいられません。

 

 

自我世界はつながるものでした。

 

 

ですからいつかどこかで、

私たちも必ず出会うことでしょう。

 

 

その時には「あなた」が「わたし」であったり

「わたし」が「あなた」であったりしても、

全く不思議ではありません。

 

 

その時の「わたし」は、

次元理論から始まる人生を歩んでいけてたら

きっと幸せだろうなと思います。

 

 

疑問を希望へと変えての、

そこから始まる「わたし」の始発点。

「わたし」の終着点から始まる

「あなた」の新しい旅立ち。

ですからきっと、

私たちは一緒に成長していけるでしょう。

 

 

 

 

過去の「わたしたち」に感謝と敬愛を。

未来の「わたしたち」に希望と願いを。

そして今の「わたしたち」に自由と探求を。