「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2018年9月25日火曜日
(連載2)2-4「ひとつ」と「全て」
簡単に忘れられてしまう
存在するのかどうかさえ不明瞭な世界と人間、
そしてその絆。
この絆の存在は、
数字や数式が万物の現象をあらわすのと同様に、
これまではごく「当然」のこととして扱われてきた。
自分が想うことと同じ、
自分自身が想われること。
もちろん何かの為に犠牲になるのは間違いである。
世界のための犠牲、
あるいは誰かのための犠牲。
自分自身の拡大と同時に
この世界は広がらなければならない。
この世界の拡大と共に
あなた自身も拡大しなければならない。
これは当然の原則である。
しかしこの「当然」という認識が不完全であり、
危険なのである。
問題は「なぜそれが当然なのか」という根底を
我々が理解できないことにある。
真理はひとつである。
これは納得出来ることかもしれない。
世界中の無数の現実、その全てが真理である。
これも正しいだろう。
しかし我々は
その正しい真理が一体何か、
それを理解していないのだ。
世界が盤石で鉄壁な巨人なのか、
儚くおぼろげな一瞬の幻なのか、
それを我々は理解していないのである。
信じる者だけで成りたつ世界ではない。
知識は覚えるよりも
理解することのほうが重要である。
何故なら人間の主観は
その理解した知識によって確立されるからだ。
人間を創るのは
理解によって生まれた知識である。
それは人間の適応力であり、
人間は「現実世界」に対応する。
だからこそ、
人間は世界の本当の姿を
理解しなければならない。
このために科学の原点に
信仰があってはならない。!
人間が信仰心を持つのは何故か、
それを理解できるものが科学である。
つまり大統一理論では、
信仰や思想に頼らない「科学的な結論」として、
数列や時間、そして宇宙や自然、そして我々人間、
その全てが「同じもの」であり、
一つにつながっているのだということを
証明できるのである。
ひとつしかない真理が
全ての現実に宿ること。
「同一である」こと。
それが理解できた時にはじめて、
人間は宇宙や自然から更なる恩恵として
人類が進むべき道の「指標」を
受け取ることも出来るのだ。
その理解が、
我々の持つ信仰心の正しさを証明する。
科学と信仰心を統合するのである。
(学問と宗教ではない。
全ての人間は最初から信仰心を持っている。)
それは理性と感性の融合である。
これまでの人類は
根本的な「なぜ」や「どうして」を
完全には解決することが出来ないままに、
「それが前提である」と決めつけて
あらゆる科学をすすめてきた。
もちろんそれは仕方のないことであった。
知識の前提となる「当然という認識」に
残されたままの疑問。
それでも科学は
ほとんどの場合、正しくあり続けた。
なぜなら科学は
仮説を生みだして、
その後多くの検証を通じ
最終的な結論を導きだすものだからである。
けれども科学者たちは
その「それぞれの科学」の「それぞれの正しさ」が、
根本的な部分では「あいまい」となり、
必ずしも全てが統合されないことに頭を抱えている。
科学でさえも「信じること」を前提とした宗教と
まるで変わりはないのではないかという疑問にまで、
人類は突き当たってしまったのだ。
極論として、
これまでの仮説と検証のみの科学では
すでに知識は限界である。
そしてそこから抜け出すためには
知識に対する更に「根本的な理解」が必要である。
数学、化学、生物学、物理、天文学、脳科学など、
すべての学問は統合されて初めて
科学は科学足りえるものなのだ。
何故なら、始まりはひとつしかないからだ。
仮に「始まりと終わりがなかった」としても、
何故そうなったかを
科学であれば理解出来るものでなければならない。
我々はこれまで「科学による証明」によって、
この世界にはさまざまな原理や法則が存在することを
明らかにしてきた。
けれども「本当の科学」とは、
それらの原理や法則が
「なぜもたらされたのか」を
我々に理解させるものでなければならない。
そこに前提があってはならないのだ。
現状の科学では
その基本となる数学でさえ、
前提から始まった合理的な哲学に過ぎない。
真理の姿は千差万別か、
それとも統一理論は存在するのか。
その事でさえ判別することのできない現代科学では、
大統一理論の見知からすれば、
多神教と統一神で争う宗教界とも
差ほど変わりはないのである。
科学の正しさは
それが「事実であること」に由来する。
大統一理論はこの世界の成りたちを
「次元世界」という枠組みでとらえ、
そこに現れる「次元世界の法則」を見つけ出すことによって
「新しい科学」を構築する。
その為に大統一理論は「次元理論」と呼ばれる。
この手法によって我々は、
既存の科学では探せだせない深い観点から、
この世界をより的確に捉え直すことができるのだ。
そしてこの統合された学問の中にこそ
我々「人間」もその姿を現わしてくる。
人間は類まれなる偶然の産物であり、
かつこの宇宙における必然の存在である。
最終的に人間原理には傾かず
「0」からの理論のつみ重ねによって、
「人間とは何か」という疑問にも
我々は解答を与えることができるのだ。
つまり「人間が存在する理由」と
「世界が存在する理由」、
「人間原理は何か」を、
我々は理解することが出来るのである。
次元理論によって宇宙と人間の
「ひとつのつながり」を見つけだすことは
この世界がもつ統合を見つけることに他ならない。
次元理論がもたらした根本的な理解は、
我々がこれまで「当然」としてきた認識に対する
新たな証明と、正しい解答である。
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