「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
にほんブログ村
2018年10月2日火曜日
(連載2)2-5「正しさ」と「正義」
この時代
人々は誰もが心に不安をかかえ、
他人の影におびえ、否定をつらぬき、
防衛のための無関心を
常にその身へとまといながら生きている。
あるいは信念をもって生きる人々も、
その大半は確信をもって
「他者を否定できる強さ」をもつ人々である。
信念とはほとんどの場合
その当人だけの「正義」にすぎず、
信念によって失われるものがあることも、
我々は同時に吟味しなければならない。
本来この世界に「正義」などはなく、
あるのは単に価値観のちがいだけである。
そして何より重要な事は、
複数の価値観が共存できる世界を
我々が創れるか否か、という問題なのである。
これが「正しさ」である。
人間の価値観は
決して統合されてはならない。
これは科学からくる人間理解である。
我々はもともと他人とは「異なる為に」
「同じもの」から生まれている。
その事によってお互いが拡大し
世界の面積を広げていく、
その目的があるためである。
世界はその存在自体に
「拡大する」使命を課せられている。
この力学のために
人間原理にも「個性の創造」が含まれている。
これは世界原理から来る
「異なるものが生まれお互いに拡大する仕組み」から
派生したものである。
けれども我々はまだ、
無知による孤独や混沌に取り囲まれている。
人間をとりまく孤立や強要、
排除や争い。
我々の求める「正しさ」はどこにあり、
何を糧に我々は、
これからの時代を生きぬいていけばよいのか。
もはや自らの垣根をまもり、
境界線を引き続けることによってのみ平穏となる現代社会。
その結果、
視野を広げれば広げるほどに増す苦悩と、
上手にあきらめる事だけが生める安らぎ。
多かれ少なかれ我々は、
誰もが「争いと混乱」を
自分の中に押さえ付けながら生きている。
けれども人間とは、
もっと優しく
もっと感じやすいものではなかったか。
あるいはもっと激しく、
もっとたくましいものではなかったのか。
私には「人間が生きる」という意味自体が
希薄へと向かっているように感じられる。
いやそれどころか人間自身が
自らの存在意義についての疑問さえ
抱いているようにすら思われてくるのだ。
人間はその人口が増加した分だけ
薄まっても良いものではない。
けれども我々は既に、
無条件に「神なる存在」に全ての責任をおしつけて
すがりつけるほどには幼くもないだろう。
我々は自らの存在意義を何かに委ねて流されるよりも、
その足で急流に立ち、
その激流でさえ自分自身の一部分として認める強さを
必要とする。
次元理論を用いて
人間が宇宙と自然の「理」を理解することは、
それ自体で我々が
「人間に対する根本的な理解」を手に入れて、
その「正しさ」を認識することへとつながる。
「我々は一人きりではなく
全ての世界に認められて存在する」
そして
「あらゆる存在に支えられた
全ての世界の希望が人類である」
ことを、
人間はその知識によって
理解することができるのだ。
知識は人間がつくりだすものではない。
この世界の正しさが知識である。
その知識が
人間を育てていく。
そしてその知識を我々に与えてくれるのが
科学である。
だからこそ我々は
この世界を理解しなければならない。
だからこそこの世界は
我々を真実へと誘うのだ。
」
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿