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2018年10月30日火曜日

(連鎖3)3-3実体は科学




長さの概念を持たないのに、存在する点。

面積を持たないのに、存在する線。

体積を持たないのに、存在する面。



真に科学的な次元世界の定義は
その「構成要素」による。
力の方向性など、
後からとってつけた勘違いに過ぎない。
問題はそのベクトルが何故あるか、なのだ。



「存在する、存在しない」は
常にその概念世界の中で
認識されて議論されるべきである。


等価原理による理解では、
存在よりも力学の方が
この世界の本質である。


(ここにある、から始めるよりも
何故ここにあるのか、を我々は
理解しなければならない。
そして世界の全ては
必然性を持ってここに生まれている。
それを知るのが科学である。)



先の章では面積を持たない点と線は
存在するものではない、という論点をとった。
しかしここで扱う面積の概念も
空間世界では存在ではない。
空間における存在は
体積を持つことである。
つまり点や線だけではなく「存在すると定義した」はずの面も
モナドとして存在するものではないのだ。
もちろん新たな定義によって認識される空間も「存在しない」。
そのために時間世界は生まれている。(後述)





つまり点は「(面積や体積も)ないものがある」
という実体を示すものであり、
連続する「あるのにないの概念」は
新しく「長さの概念」として線世界を構築する。



この長さの概念も
点の概念をその部分(構成要素)として持つために
「連続して存在する点」としての「長さ」は発現しても、
そこにはまだ、存在としての面積や幅は与えられていない。


このように宇宙に初めて生まれた範囲は
長さ(連続して存在する点)であり、
「あるのにない」という点の概念は
既に線の存在と同化して線の(概念の)中に「同時に存在する」。


(これが我々の宇宙の
多重次元構造の始まりである。
リサ・ランドール博士は我々の宇宙を
シャワーカーテンに張り付いた水滴と表現する。
彼女は3次元、4次元世界の力学の関係性をそう理解したのであるが、
実際の物質世界は、
4次元時間空間世界を基盤にその後5次元物質空間世界に
発現したものである。)



同化、あるいは同一。
つまり「線」と「連鎖する点」は
異なる概念世界でありながら「同じもの」である。



この為に点と線は、
「連続する点」と「長さ」として
同じものであり、それは等価である。


これは線がその概念の内側に
「点の概念を合わせ持つ」ということである。
(点の概念の外側が線であり、空間である。
実体は内側と外側で含有する世界が異なる。
これが次元世界である。)


線の中に点は存在しない。


しかし線の構造の中には
存在する点(実体)が含まれている。
この為に線の概念も
面積を持つことが出来ない実体なのである。


あるのにない、
ないのにある、もの。


存在しないものが存在する。


我々は自分達の使う言葉を整理しなければならない。






線の世界を現実に構築する、
線の構成要素(部分として存在する)は点である。
(線は点の連鎖した姿、つまり「同じもの」である)

しかしながら点は、線の長さという概念の中には存在しない。
何故なら点は「長さの概念」を持たないからだ。



つまり点は線の中にある「実体」である。

存在するものではなく実在なのだ。
(実在…力学が等価として存在すること)



点は線の概念世界(次元世界)には存在しない。
しかし点は、
線世界の構成要素(部分)として
確実に線の中に実在する(同じもの)。



点は長さの形式を持たない(点は線の部分は持たない)。
しかし実体としての点は、
長さに部分(連続する点の概念)を与え
長さと同じものとして、線と同時に存在する。


「線と連鎖する点は同じもの」


その「存在」に対する概念は違っても
「同じもの」として
点と線は同時に(異なる概念世界の中に)存在している。
(次元世界…実体は一つの同じものである。
しかし存在としての概念世界の現れ方が異なる為、
概念世界の方が「異なるもの」として分岐する。)



このように実体(点)は現実に(線世界の中に)存在し、
事実、体積や面積、長さでさえ持たない点の概念は
確実に「存在を構築する力学として実在する」。



このように線世界は、
無限大に連鎖する点のみを
その構成要素として成立する。


そしてなにより大切な認識は
「実体」という概念が現実にこの世界を構築する「力学」だ、
という事実である。



(「連鎖」がキーワードである。
「存在と力学は同じもの」である。
だからこそ法則は生まれる。
この連鎖が力学なのだ。
何故連鎖があるか、については
この章ではまだ触れていない。
しかし本書のテーマは、
やがてこの力学へと移行する。
実体の連鎖、この力学こそが存在の本質である。)





2018年10月23日火曜日

(連載3)3-2学術としてのモナド


3-2学術としてのモナド



通常我々が認識する点は、小さな円である。
我々が点を認識し、その場所を特定できるのは
人間が勝手に点に「面積を与えた」為なのだ。


これは表現であって科学ではない。


この「表現」を数学の始まりとして
あるいは科学の始まりとして、
我々が認識してしまう、
それが問題なのである。




けれども実際の線の概念を生み出す
「点の要素」に、
面積はない。


そして線もその現実の姿は「長さの概念」であり、
幅や面積という要素は持ち得ないものである。



少なくとも面積と面積が交わらなければ、
そこに面積は生まれない。
果たして平面上に「面積を持たないもの(点や線)」が
本当に存在するといえるのだろうか。



線を構築する唯一の構成要素であり、
しかし線の部分を持たない「点」。


存在するのに
存在しない、の概念体。





この概念体は、数学者であり哲学者でもあるライプニッツによって
「モナド」として現代まで知られている。
(実際はもっと古くから見られた概念であるが、
現代までモナドを持ち込んだ人物がライプニッツである。
この存在しない最小値を探す視点が
彼の創作による微分法、積分法である。)


モナドは「部分を持たない最小にして究極の単子」である。


線の中にある「部分を持たない最小の単子モナド」は、
これが線の長さという部分を持たない単子「点」である。



これまで「モナドのことは聞いたことはある」が
「モナドとは何か」を理解出来なかった読者の方も、
このように線と点の理解からはじめれば
ライプニッツの単子論は意外と理解しやすいものである。



線のモナドは点。


ライプニッツによると
この世界は全てがモナドの集合体であり
その集合体も同じ「同一のモナド」として
統合される。


結果としてモナドは、
「存在するもの」の全てを統括する。




しかし現実には
物質の最小単位にモナドは存在しない、
そう思われてきた。


科学の発達による素粒子の発見などに伴って
モナドは哲学側のものとして分類されてきたのである。

(素粒子学等の「物質の最小単位を探す」という分野の研究も
発想は「存在の最小単位を探す」というライプニッツの発想と
同じものである。
存在を考えるにおいては、アインシュタインやライプニッツ、
そしてニュートンも同じルートをたどり模索している。
つまり世界を理解するためには
実体の科学やモナドを理解することは、
正統的かつ、合理的な手順である。)






けれども実際には、
物質は「存在する」限り必ず「空間の中に」
その固有の占有範囲を持つ。


つまり物質も空間の一部分なのである。


そしてその空間概念の究極の単子は
やはり現実に存在する点、モナドなのだ。



物質がある、という前提の前に必要な
空間があることに対する認識。

何故空間はあるのか。
時間とは何か。

物質の始まり以前の
空間の始まりを知ること、
これが宇宙の原理を「理解する」ことにつながるのである。






さてこのように理論を正しくすれば、
線をいくら拡大したところで
そこに現れるのは永久に線それ自体である。


線世界では、その線の最果てにあるとされる
点に行き着くことなどは、
絶対に出来ないことなのだ。



モナドとしての点は「長さの部分を持たない」ために
線の概念上には永久に「存在しない」。


では点はどこにあるのか?



線は無限大に連鎖する点が創りだした「世界」である。


「長さの概念」世界、
それが連続して存在する点によって構築された
「線世界」なのである。



点は線の「存在」を構成するが、
線世界の中に「長さを持たない点」は
存在しない。


つまり点の連鎖と線は
「同一のもの」である。


線の概念と連鎖する点は「同じもの」なのだ。


しかしそれは、
概念としては「異なる世界」の住人である。

そこでその同じものに対する「概念世界」の方が
分岐する。
これが「次元世界」である。

(後述とさせていただくが
このように一つの同じ実体が複数の「異なる概念世界」
を構築することによって生まれたもの、
それが「次元世界」である。)


そしてこれが物理学(等価原理)の始まりなのだ。




つまり構成要素が「点の概念」ただ一つによって生まれた世界、
それが線(長さの概念世界)という「1次元宇宙」である。
現状の我々の科学は「次元世界」を扱う局面にきても
まだその成り立ちさえ理解していない。






2018年10月16日火曜日

(連載3)3-1実体の科学

                                     第3章

                                実体の科学

        「存在するもの」と「存在しないもの」

(本編に先立つ導入部として
「点と線」という作品を先に投稿してあります。
「面積も長さも持たない点は存在しない」をテーマに
わかりやすく「実体の概念」を取り上げました。
「実体がある」という「科学の本当の始まり」を
こちらでも確認してみてください。)



3-1点と線


大統一理論ではその重要な論点として
「存在する」という概念を扱う。
しかし問題は、
この言葉の持つ本当の意味を
我々がまだ理解していないことにある。


「あるとない」とを表わす「存在する」という言葉は
実は相対的な事象に対する限定的な概念である。


何に対して存在するのか、
何処に存在するのか、
そこには「定義される」ことが必要なのだ。
もちろんその定義も
人間が勝手に創作した前提(公理)であってはならない。



そこでこの「存在する」の概念を
我々が一番理解しやすい
「点と線」の話を先にしよう。


我々がこれまで覚えて来た知識が、
如何に曖昧なものであったのか、
知識の棚卸しをしながら
しっかりと確認して頂きたい。


この「存在する」という言葉は、
人間が宇宙の構造を理解する為に必須となる
「次元世界」共通のキーワードである。





ではまずその基本となる
点と線の話である。


「線は点の無限大に連鎖した姿である」

このように理解する現代人にとっては、
点と線が存在することに大した違和感はない。


これは数学を学んできた我々には
当然の認識である。


数列の直線には
あらゆる点が含まれている。
これはつまり
2つの点があれば、
直線で繋ぐことが出来るということである。

これはもちろん正しい。


では「線の中に点が存在する」とは
本当に正しい認識なのだろうか。



現実問題として
線の中に「存在する」とは
「長さの部分を持つ」ことである。
つまり線の中に「存在する」為には
その線上に「固有の範囲」が必要なのだ。


線は「長さの概念」である。


線が長さの概念である以上、
線の中に存在する為には、
やはり同じ「長さの概念」を持たなければならない。


長さの部分(範囲)を持つこと、
これが線の中に現実に「存在する」ということである。




では点は、
本当に線の中に存在するのだろうか?




ここでの問題は点が、
長さやその固有の範囲を持たないことにある。




点はその無限大の連鎖により
線の概念を創りだしている。
無限大に連続して存在する点、それが線なのだ。


けれども点それ自体に、長さの概念はない。


点の持つ範囲を正確に表すことのできる「表現」は
2つの直線が交差した一点、あるいはその部分である。


だが「長さの概念しか持たない線」が交わったところで
果たしてそこに
範囲(面積や長さ)が生まれるだろうか。


答えはノーである。


線は長さの概念である。当然線は面積を持たない。
つまり2つの長さの概念が交差したところで、
そこに部分となる「何か(範囲)」は生まれてこないのだ。




通常我々が認識する点は、小さな円である。
我々が点を認識し、その場所を特定できるのは
人間が勝手に点に「面積を与えた」為である。


これは表現であって科学ではない。


この「表現」を数学の始まりとして
あるいは科学の始まりとして
我々が認識してしまう、
それが問題なのである。


つまり数学は科学ではなく、
論理的な前提を持つ哲学(考え方)なのだ。


哲学から科学は生まれない。

本当の科学から
本当の哲学が生まれるのである。




2018年10月9日火曜日

(連載2)2-6現実こそ科学



大統一理論の知識は、
人間が宿した複雑な感情の中から
「本当のあなた」を選択する。


我々はまだ
自分の感情がどこから来るのか、
それを理解していない。


本当の自分と、
反射的な感情による上辺の自分。


人間はこれから
本当の自分の気持ちを受け止める
自己の視点を確立することだろう。



こうして自我世界は、
世界の中心へと向かう
「確かな判断基準」を手に入れる。





この様に世界へとむけられた正しい認識は、
我々が「生きる」という現実を
その希望へとつなげる力にも変わっていくはずである。


我々は学びによって
人間を取り囲むあらゆる現実が、
全て納得のできるものへと昇華することに
気がつけるだろう。


我々が時折つき当たる
人間の身勝手さや理不尽、
そして孤独や孤立、停滞と淀み。

それら全ての苦悩をつつみ込む寛容が、
人間自身にも、この世界にも、
もともと備わっているという認識を
我々は理解できるのだ。




人間は日々、
多くの価値観と新しい世界を
生みだしながら生きている。
もともと人間が生きるということは
「創る」ことである。


当然生み出された世界は
守られなければならない。


そしてその為にいま、人々は争う。
けれども我々が勝ち取り、真に守るべき世界とは
その「あらゆる価値観が共存できる世界」である。




我々はこの共有という基準を守り、
全ての「可能性」の芽を育まなければならない。
悪とはその可能性を断ち切る行為である。



「目に見えるもの」は
人間の「知識」によって姿を変える。
これは人間の成長である。

「世界は正しい」

だからこそ人間にも
無限大の可能性が宿るのだ。


せかいを引き継ぎ
その可能性を広げること、
つぎの世界にもそれ以上の可能性を受け渡すこと、
それが我々の責務である。




人間としての傲慢さゆえではなく、
この宇宙がつくりだした我々人間に
その宇宙が理解できないはずはない。


私には「人間がこの宇宙を理解する」ということは
この宇宙も同様に
「自らが待ち望んだことである」と、
そう断言することができるのだ。


そこにあるのは「あらゆるものの希望」であり
人間自身の「本当の願い」である。





あなたが「今を生きる」ということは、
全ての存在が共通して願う
この世界の希望である。


自分自身に引き渡されたものの
空間の巨大さと途方もない時間の長さに
我々は想いを馳せるべきである。


我々は自分自身のために、
そして我々を支えるあらゆる世界のためにも、
この世界から「学ぶ」ことを
始めなければならない。






さて次章からは
この結論にたどりつくための手法を、
文字通り「0」から順番にたどる作業がはじめる。


宇宙の始まりと
空間や時間の出現について。
物質の誕生と重力の発現、
生命の誕生から
人間の自我世界の誕生まで。



私はこの機会に、
この宇宙がもつ本当の魅力とその真実を、
余すことなく皆さまへと伝えられるように
奮闘する所存である。


どうか全ての皆さまに、
最後までお付き合い頂けることを願いたい。





世界の正しさは
人間の正しさである。


だからこそ世界の現実はすべて相対的であり、
人間の価値観もやはり相対的なものである。


あなた自身がこの宇宙であり、
ひとつしかない世界なのだ。
これまでのあなたが必死で繋ぎ
守り続けてきた世界の先に
今のあなたは存在する。


あなたはこの永遠の一部分として
今を重ねていかねばならず、
全ての存在を引き継ぎながら
やがて新しい世界へと受け渡さなければならない。

何度も何度も挫折し
それでも存在をつづけ、
諦めることなく前に向って
あなたは歩み続けなければならないのだ。



そこに希望さえあれば
それは楽しい旅となり、
そこに期待されることがあれば
それは充実した決意である。




さらに全ての宇宙には内側はなく、外側もなく、
それはただひとつの同じ世界である。


点の内側と外側で世界が異なろうとも、
それは点というひとつの世界である。


あなたの内側と外側で世界が異なろうとも、
それがあなたというひとつの同じ世界である。



この世界に存在するあらゆる力学が
全て等価であり、
異なる我々全ての人間とも等しい。


あなた自身もひとつの同じものなのだ。


あなたの内側の「本当のあなた」が
この世界の真実の姿であり、
それは外側の同じ宇宙の現実である。




さあ人間が何から生まれたのか、
その科学を紐解いていこう。


2018年10月2日火曜日

(連載2)2-5「正しさ」と「正義」




この時代
人々は誰もが心に不安をかかえ、
他人の影におびえ、否定をつらぬき、
防衛のための無関心を
常にその身へとまといながら生きている。


あるいは信念をもって生きる人々も、
その大半は確信をもって
「他者を否定できる強さ」をもつ人々である。



信念とはほとんどの場合
その当人だけの「正義」にすぎず、
信念によって失われるものがあることも、
我々は同時に吟味しなければならない。



本来この世界に「正義」などはなく、
あるのは単に価値観のちがいだけである。
そして何より重要な事は、
複数の価値観が共存できる世界を
我々が創れるか否か、という問題なのである。
これが「正しさ」である。


人間の価値観は
決して統合されてはならない。
これは科学からくる人間理解である。


我々はもともと他人とは「異なる為に」
「同じもの」から生まれている。


その事によってお互いが拡大し
世界の面積を広げていく、
その目的があるためである。


世界はその存在自体に
「拡大する」使命を課せられている。



この力学のために
人間原理にも「個性の創造」が含まれている。
これは世界原理から来る
「異なるものが生まれお互いに拡大する仕組み」から
派生したものである。




けれども我々はまだ、
無知による孤独や混沌に取り囲まれている。


人間をとりまく孤立や強要、
排除や争い。
我々の求める「正しさ」はどこにあり、
何を糧に我々は、
これからの時代を生きぬいていけばよいのか。


もはや自らの垣根をまもり、
境界線を引き続けることによってのみ平穏となる現代社会。
その結果、
視野を広げれば広げるほどに増す苦悩と、
上手にあきらめる事だけが生める安らぎ。


多かれ少なかれ我々は、
誰もが「争いと混乱」を
自分の中に押さえ付けながら生きている。




けれども人間とは、
もっと優しく
もっと感じやすいものではなかったか。
あるいはもっと激しく、
もっとたくましいものではなかったのか。





私には「人間が生きる」という意味自体が
希薄へと向かっているように感じられる。
いやそれどころか人間自身が
自らの存在意義についての疑問さえ
抱いているようにすら思われてくるのだ。




人間はその人口が増加した分だけ
薄まっても良いものではない。


けれども我々は既に、
無条件に「神なる存在」に全ての責任をおしつけて
すがりつけるほどには幼くもないだろう。



我々は自らの存在意義を何かに委ねて流されるよりも、
その足で急流に立ち、
その激流でさえ自分自身の一部分として認める強さを
必要とする。




次元理論を用いて
人間が宇宙と自然の「理」を理解することは、
それ自体で我々が
「人間に対する根本的な理解」を手に入れて、
その「正しさ」を認識することへとつながる。



「我々は一人きりではなく
全ての世界に認められて存在する」
そして
「あらゆる存在に支えられた
全ての世界の希望が人類である」
ことを、
人間はその知識によって
理解することができるのだ。



知識は人間がつくりだすものではない。
この世界の正しさが知識である。

その知識が
人間を育てていく。

そしてその知識を我々に与えてくれるのが
科学である。



だからこそ我々は
この世界を理解しなければならない。

だからこそこの世界は
我々を真実へと誘うのだ。