「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2018年8月7日火曜日
(連鎖1)1-5 「生命原理」と「原理を生むもの」
命には何故、
本能が宿るのか。
それ以前に命とは何か?
本能とは何か。
本能は
「命が同じ命を求める力学」である。
この本能をもつ有機物が生命と呼ばれている。
つまり生命は、それ自体は存在ではなく、
物質に「生命を求める」という力学が
「付加された」状態なのである。
「重力」は
失われた空間が
同じ空間を求める力学である。
この力学が物質の求める力として
重力や核力に現れている。
このように本能や重力は、
その根底にはもっと深い部分での同じ因果律がある。
世界の奥底に流れる
「原因が原因であり続けようとする」
より大きな物理学。
つまり本能や重力でさえそれは表面上に現れた
見せかけの力学に過ぎず、
それぞれがそこに存在する理由は
更に深層の別の物理学が受け持っているのだ。
物理原理
生命原理
人間原理
原理には、それが原理たる理由がある。
その原理を人間が勝手に決めてはならない。
そして全ての理由を持たない、
唯一の前提となるのが大原理である。
それは知識の生まれる場所であり、
世界の始まる場所でなければならない。
「生命がある」とは同時に
「死がある」ことを意味する。
「存在する死」という際限のない虚空。
この虚空が引き寄せる、
同種の(あるいは自分自身の)命へと働く
生命の力学。
そこに発現したものが
本能という生命世界の重力である。
更に本能にも
「原因が原因であり続けようとする」
元々の物理学が継承されている。
(科学的には「有機物の抜け落ちた穴」が、
同じ有機物を求める作用として
「本能と呼ばれる力学」は生じる。
この元々の空洞にあった有機物は
中心の有機物の中で2重に重なり、
ここにこの空洞は「同じ種類の有機物を求める」
という力学を宿す。
この空洞から内外の同じ有機物へと向けられた引力が
本能である。)
生きることを願いそれを支える死と、
命を維持し創造する為に死が命へと与えた重力。
死は
「何も存在しないこと」
ではない。
生命にとって死とは
ただ無くなることではなく、
存在しないはずの虚空、
生の抜け落ちた空間(死)が「そこにある」ことである。
0から生命は生まれない。
本来存在するはずのない「死があること」、
それが生命なのだ。
つまり死は生の一部分であり、
生もまた死の側面に過ぎない。
「生きる」ということは、
「死が存在する」状態である。
だからこそ「存在する死」は、
その対価として同じ命を求め、
それは本能として、食物連鎖として
全ての生き物の生命活動を統括する。
これが生命の基本となる
「生命原理」である。
死が求める命は自分自身の命であり(核力)、
自分と同じ命(重力)である。
それ故に生は死の産物であり
死は生を集めるのである。
つまり動物の本能は「存在する死」から生まれる。
決して埋めることの出来ない、
生命世界に開らいた穴。
「自我の本能」も同じ命である以上、
この生命の原型をたどる。
つまり生命世界のもつ「本能」は、
自我世界のもつ「願い」と同じ種類のベクトルなのだ。
本能が進化させた生命体。
その生命体がより優位な状況で
生命を繁栄させる為に生まれた人間の自我。
つまり自我世界は
元々の生命原理を模倣する形で、
あるいはその本能の一部分として、
「人間原理」を発現させている。
生命の中心に存在する死と、
自我の中心に存在する虚空。
死と自我の中心「虚空」は
同じ空洞として
そこに求める力を発現させている。
存在するものが何処にも存在しない状態の「死」と
存在しないものが確かにある状態の「生命」。
あるのにない同じ、命と心。
死が命を求めるのと同様に
心の虚空は融合を求め
願い、そして希望を生む。
存在する死が人間の源であり、
死は人間の探求心を増幅する。
つまり死は無ではなく、
抜け落ちた生命世界の空間である。
その重力によって
生命世界は拡大へと導かれるのだ。
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