「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
にほんブログ村
2018年11月27日火曜日
(連載4)4-1始まりの無
第4章
存在する無
4-1始まりの無
この宇宙には何も存在しなかった。
それが「全て」のはじまりである。
そこには時間も空間も、
「何か」も「誰か」も、
決してあってはならない。
もしも「何か」が存在するのであれば、
その「何か」はなぜ存在するのかを、
我々はまた理解しなければならなくなる。
それは「誰か」の存在についても同様である。
従ってこの宇宙が誰かの所有物でない限り、
そして我々がその存在を理解するためには、
この宇宙に最初に存在するものは
「無」でなければならない。
「この宇宙には何も存在しなかった」
すなわちこれが全ての原始に位置する
「始まりの無」である。
この宇宙のはじまりが「無」であるということ、
それがあらゆる知識のおよぶ限界点であり、
科学の出発点である。
したがってそれ以上の詮索は
我々人間には出来るはずもなく、
ここが宇宙と
その全ての知識の始まりとなる。
つまりこの世界におけるただ一つの真実は、
「この宇宙には何も存在しなかった」
という唯一の現実なのだ。
そしてこの「無」を理解することでしか我々は、
この世界を理解することはできない。
現代宇宙物理学においても「始まりの無」に対する認識は
次元理論(大統一理論)とも一致する。
けれどもその「無」に対する正しい認識が
現代科学ではまだ確立されていないのである。
例えば標準理論とされるビックバン理論では、
物質がない状態だけを始まりの無として認識する。
これは「次元理論(多重次元構造を持つ宇宙理論)」の始まりの
「時間や空間さえ存在しない完全なる無の世界」とは
全く異なる。
私がこれから語るのは大統一理論である。
時間や空間だけが特別では困るのだ。
もともと時間や空間の存在を度外視したビックバン理論では
全てを統括する統一理論など、到底解読出来るはずはない。
ましてや「宇宙の始まりには時間と空間がありました」では
「宇宙の始まりには誰かがいました」理論とも
何ら変わりはないのである。
例え現行の宇宙以前に
虚数宇宙や定常宇宙があったとしても、
その全ての最初の始まりが理解できない限り
世界に対する人間の謎は永久に消えないのである。
現実には、空間や時間もこの宇宙の一部分として
我々と同時に存在する「力学」である。
既に現行の物理学においても
時間や空間が縮む、ゆがむ等の現象は、
十分に確認している。
それらは力学の影響下にある
確実に存在する概念なのだ。
時間や空間は条件によってその形状を変える。
けれども現代物理学のように
時間や空間に理由を持たせず、
最初からそこにありました、では
その先に展開があるはずもない。
(ビックバン理論は物質の始まりだけを
宇宙の原始として考察する)
もはや時間や空間の変化を伴わない物理学は
科学の進歩にたいする弊害ですらある。
我々も本当の知識を見つけだす為には
偏見と無知とをふりはらい、
自分達のあつかう「科学の正体」を見極めなければならない。
その為にも
「この宇宙には何も存在しなかった」
そこから全てを始めなければならない。
ビックバンが始まる「場所」も
始まるという概念が存在する「時間」も
全てがない状態で宇宙は生まれたのだ。
ないものがある、
という「存在する無」として。
これが実体(あるのにないもの)の始まりである。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿