「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2018年7月24日火曜日
(連載1)1-3 「自我」という孤独
「確定的に存在する世界」とは異なった、
揺らぎながら透き通る「わたし」という存在。
それは世界の内側と外側のはざまに位置し、
そのどちらでもない、
抜け落ちた空間である。
あなたの外側には世界があり、
あなたの内側にも同じ世界がある。
ではそれを認識するあなたは
一体何処にいるのか?
外側に無限大の世界を抱え、
内側にも無限大の奥行きがある。
それは点である。
あなたは点なのだ。
点の外側には無限大に広がる空間(スペース)があり、
その内側にも同じ無限大の奥行きがある。
では点は、
一体何処に存在するものなのか?
人と点。
そこには世界から切り取られて孤立する、
自己の領域とその孤独な時間がある。
存在するのに
存在しないもの。
存在しないのに
存在するというもの。
だからこそ人間は
求め続けることが出来るのだ。
「わたし」は一体何者なのか?と。
探求へと向かわざるを得ない、
自我に仕組まれた
求めることへの願望、衝動、欲求、
あるいはその構造上に生まれた力学。
「自我の重力」
即ちそれは、
自我が他の世界を求めて繋がるための
力学である。
その力学を生むものが
自我の中心にある虚空なのだ。
埋めることの出来ない、
永遠に引き付け続ける空白、空洞。
人間は自分が人間であると気付いたその瞬間から
探求者として目覚め、
探し求めることで人間へと成長する。
自分自身が
孤独である、
という自覚。
それ故に
何かを求める力学。
その探求の先で我々が出会う現実は、
存在と非存在が同列である理解と、
その認識をつくりだす生と死、
創造と破壊の混在する世界である。
その狭間に立つものが、
生と死の間に位置する同じ自分なのだ。
「ある」とは何か?
「ない」とは何か?
世界の内側と外側、
あるいは生と死、
さらには時間の存在する今と存在しない時間、
その全てのはざまに位置する「わたし」が、
存在を保つ自我である。
存在するのに
何処にも本体のない点。
存在する場所が何処にもない、
けれども「存在するわたし」。
誰でもない「わたし」と
唯一の一人称「わたし」。
やがて消滅するであろう
自分自身に対する懐疑と葛藤。
何故わたしは存在するのか。
今はまだ自我として保つこの歪んだ空間も、
やがてはこの狭間の消失と共に解かれて、
この世界に広がりゆくものである。
あるいは穏やかな時の流れにさえ
あがらうことが出来ない、永遠や悠久という蜃気楼。
全てのものは移り変わる。
ではその時間とは
一体何か。
点と同じ今。
何処にも存在しない「わたし」。
そこで我々は理解する。
完全なる不変とは
その内側に創造と終焉を
調和として含むものである。
それはまさに繁栄とよばれ、決して定常ではない。
永遠に完成されない構造が、
完成した世界である。
世界は永遠に広がる。
自我とて同じである。
柔らかく、勢い良く広がりゆくのか、
あるいは固執し執着し、小さく固まるのか、
そのどちらかしか持たない。
保存の原則のない全ての世界。
消滅するのか、新しく生まれるのか。
それを望むのか、望まないのか、だけの違い。
では何故、全ての人間は探求者なのか。
それは全ての我々が
「願い」を持つためである。
希望や願望、欲求や欲望など、
呼び方はちがえども人間を動かすものは
いつも同じ「願い」である。
我々は「求める者」なのだ。
我々は常に不満足を抱えている。
それが全ての人間が持つ物理学である。
自我は孤独になるために
ここに生まれている。
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