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2019年11月26日火曜日

(連載10)10-2「生命世界」という「ひとつの世界」



次元理論によって構築される世界は、
物質で出来た我々の宇宙「第5次元世界」まで来て
いよいよ終結するものだろうか。

いや、そうではない。

この「物質世界」もまた次なる共有を生みだして、
さらなる次元世界へと昇華する。
無の無限大の連鎖は物質世界を貫いて
新たな概念世界を構築している。


そして「物質世界」を土台に広がる新しい概念世界の出現、
これが「第6次元生命世界」の誕生である。



次元理論は
この宇宙が永遠の時間と無限大の空間の中に
存在することを明らかにした。


更に我々の宇宙では、
物質たちは日々「存在する」と「存在しない」とのはざまで
激しくゆれ動いているのだ。


その物質たちの無数のいとなみの中で、
ある特定の条件下におかれた特別な物質が
「生命」へと展開する。


それは新世界の創造であり、
新しい概念宇宙の発現である。


そこでは無の無限大の連鎖と同じものとして
新たな実体の無限大の積み重なりが生じるのだ。

だだひとつの
同じ力学である。


つまり「生命の概念」は、
たとえその世界は小さくとも(物質世界と比べると)
物質世界が生みだした新たな宇宙
「次元世界」として「存在」する。


生命世界が次元世界であれば、
これは今まで通りの
「存在」にたいする、
新しい概念の発現である。 


生命世界には確かに存在するのに、
物質世界のどこにもない「命の概念」。


そして物質世界には確かに存在するのに、
生命世界のどこにもない「物質の概念」。


このように「命」と「物質」では、
それぞれが「存在」する概念世界はあきらかに異なる。


同じ空間と同じ時間に同時に存在するはずなのに、
そこにあらわれた「別次元、別世界」の異なる概念。
すなわち物質世界から構築された
「生命」が織りなす新しい概念宇宙、
それが第6次元「生命世界」である。



そしてその現実は
我々が日々の「思考や経験」を通じては
十分に認識する現象だろう。


けれども我々の「思考や経験」において、
それはあまりにも「当然すぎる日常」であるために
我々がその事実を深く追求する機会は少ない。


あるいはそれを考えても
ただ事実を受け止めることしか出来ず
「なぜそうなるのか」を理解するための「判断基準」を、
我々は持ちえなかったのである。



あえて取りあげるならば、
信仰や宗教、哲学などだろうか。
だがそこに科学的視点はない。
つまり人間の思考の蓄積、すなわち「経験」のみが、
我々の唯一の判断基準であった。
そしてそれは一部の思想家、
宗教家たちだけが求めた現実であり、
推測の域を出るものではない。



「同じ世界」、「ひとつの宇宙」という
次元世界のあり方を理解しなければ、
それは決して我々の知識では捉えきれない現実だろう。
だからこそ宇宙の多重次元構造を学ぶこの学問に
大きな意義があるのだ。


たとえば「死」という現象は、
「物質世界」を起点とすれば「命が失われること」であるし、
「生命世界」を起点とすれば「身体(物質)が失われること」である。
(「命は失われるもの」である。
このくだりは単一の生命の不変性を問うものではない。)


しかしここで我々が認識するべき問題は、
この両者がともに「あるのかないのか」特定することができない
「概念」になりうる点である。


そこには現実世界に存在する
更なる「実体がある」ことを、
我々は理解することができるはずなのだ。

このように生命世界の構造は、
我々がこれまで学んできた「次元世界の多重構造とその力学」が
全く同じように含まれている。


すなわち「命」は
物質世界に出現した新たな「実在する無の概念」であり、
命が「生と死」によって生命世界を紡ぎだすものであれば、
それは点が「あるとないの概念」によって線世界を創りだすことと
同じ現象、力学である。


生命は実体であり、モナドなのだ。


「存在する無」が持つ「あるとない」の正反対の意味を持つ概念が
ひとつの実体であること、
それが「生と死」をもつ「命の概念」が
同じ実体として生命世界を築き上げる
「完全無の原理」である。


「個は全と同一のもの」


この次元世界の力学により
命は無限大の連鎖をつづけ、
その概念世界を拡大することができる。


ここに世界原理は
生命原理とも「同一」だと理解することができる。




2019年11月12日火曜日

(連載10)10-1「いのち」の生まれる世界

10章 生命世界



10-1「いのち」の生まれる世界



有機物は「失われる物質」である。
温度や湿度、環境のわずかな変化によって、
有機物の分子結合はすぐに変形し消失してしまう。


一般的に有機物には
無機物ほどの安定した結合方法がない。
けれども有機物は
そのこわれやすい構造のために、
多くの多様性にもとんだ結合配置をもつものである。


そしてかつての地球上にあらわれた有機物にも、
無限大へとむかう「世界原理」は働いた。
(無は無限大と同一であり
無限大は「広がり」と同じもの、つまりここでは多様性の増加である)


原始海洋の波うちぎわに集められた有機物は、
その波間のかたわらで幾重にもかさなり
より強い分子体を模索する。
それでも失われ続ける有機物は、
次々と運ばれてくる新しい有機物によって
順次補てんされていく。


この「失われる物質」が
「より失われにくい物質」となるために作り出された構造、
そこに「生命の原型」がある。


「自らの失われる有機物のかわりに
外部の有機物を取りこむ」という構造は、
「生きのびようとする有機物」と
「生きさせようとする有機物」との概念を一つに結ぶ。


その有機物の混沌の中で
やがて「生命の核」ともなる形が作り出される。
この特筆すべき現象は
有機物が有機物の中に入り込むという
有機物の2重構造が創り出されたことである。


生命世界は物質世界の「部分」として存在している。
その為に物質世界の原理とその特性は
生命世界にも同じものとして発現する。


すなわち生命の構造が
「物質世界(原子)の存在する構図」を模倣したとすれば、
「重なりあった有機物」と「その有機物の抜け落ちた空間」が
同じ有機物内に同時に生まれたはずである。


重なりあった有機物は「生命の起源」として、
同じ種類の他の有機物をひきよせる力学をもつ。


ここでも「有機物の抜け落ちた空間」が
同じ有機物を求める
「有機物の重力」を生みだしたのだ。


生命世界の重力、それが命の持つ「本能」である。
こうして「同じ有機物への力学」を保持する、
有機物の2重螺旋構造が出現する。


これが最初の「生命」である。


(つまり我々が本能と認識する力学は
物質における重力の構造と同じものであり、
その原理は
有機物の繋がりの中でその内側へと弾き出された有機物の「空間」が
その外側に同じ有機物を求める構造学的力学として発現している。

このように全ての世界(次元世界)が同じ物理法則を持つこと、
これが次元世界のおりなす「一つの世界」の在り方であり
等価によって成り立つ我々の世界の仕組みである。)


2019年11月5日火曜日

(連載9)9-6存在ではなく、ベクトルである理由





この世界の全てが「無」である以上、
あらゆる存在もまた「無と同一の概念」である。

どこにも存在しない「無の概念」が
現実に「実在をつづける」為に、
あらゆる次元世界は共に「存在する」。

つまり現実の世界はベクトルしかもたず、
存在として形付けられた
無の形式の一部分でしかないのだ。


「存在ではなくベクトル」
これが世界の真理である。



その事実を理解できた時、
はじめて我々は知ることができる。


この宇宙が生まれた訳と、
この世界が存在する理由を。


けれども「存在に対する解答」を下すには
まだまだ時期尚早かもしれない。
我々はこれから次元理論を学ばなければならない。


「この世界に対する正しい認識」が
我々を「さらなる知識」へと導くのだ。

そしてこれは
真に世界を理解する科学でなければならない。
科学は人間の身勝手な定義から始まるのではなく、
無への理解から始まるものである。

その科学は時間、空間、
宇宙、命、人間の全てを統括し
我々の領域とその世界を広げるだろう。



「無」は永遠に
そして永久に「無」である。
それと同時に「存在する」という概念は
永遠である。

その「完全無の概念」と同時に
あらゆる次元世界は発現したのだ。


その瞬間から我々の宇宙は永遠であり、
永久に実在を続けるベクトルだけが繋がる世界である。


しかし現代人は
この宇宙にも限界があるという誤った認識を生みだしている。
たとえ130億年、150億年という枠組みの中でも
それは人類にとっては途方もない時間であり、
人間が宇宙を永遠と考えるには
十分だったのかもしれない。


けれども「世界はさらに成長する」という現実を、
我々は知らなければならないのだ。


成長をつづける世界を、
人間は理解し学ばなければならないのである。


人間が認識する時間や空間をはるかにこえて、
この宇宙は果てしなく
そして永遠である。


それがあらゆる可能性を肯定する世界である。
唯ひとつ、永遠の拡大という目的を宿した宇宙の。


我々がこれまで知覚してきた宇宙とは、
実際の大宇宙のわずかな一部分にすぎない。
人間は例え、いかなる方法を用いても、
この世界の全貌にせまることは出来ない。

つまり我々が宇宙に対する認識を何十倍、
何百倍に広げたところで、それでもやはり
「大宇宙のわずかな一部分」という制限からは
永久にぬけだす事ができないのだ。

はじまりや終わりのない次元世界とは、
こういった無限大の広がりの中に存在する。


だからこそ我々人間も、
その「全て」を始めることができたのである。
その中の「ほんのわずかな一部分」として。
あまりにも尊すぎる希少な奇跡として。



これほど広大な宇宙という認識の中では、
我々人間はなんと小さく、
なんとか弱い存在であることか。
そしてなんという短い命なのか。


そのことに気づいた時、
人間は必要とするのである。


この宇宙と我々人間を結びつける
「絆」の存在を。



人間は地球上の生き物という視点からすれば、
あるいは暴君かもしれない。
生き物たちにとっての奇跡の星「地球」を、
自ら汚すことのできる唯一の生命体であるために。
そして「大宇宙」という視点からすれば、
あまりにも小さく、
そして幼すぎる存在なのかもしれない。
500万年というわずかな歴史しかもたず、
その知識や技術もいまだ限定的なものであるために。


だがそれは理解が足りないからだ。



かつて人間を、自らの明確な目的も知らず
ただ自由だけを与えられた存在ではないかと、
そう評した哲学者がいる。
人間はまるで、
一人で生きろと捨てられた
子供だというのである。

たとえ子供ではないにしろ、
我々は誰もが生きつづけること以外に
明確なビジョンを持てないでいることも事実だろう。


その自由を持てあまし気味の現状では、
我々は人間の存在が何であるのか、
あるいは我々はなぜ存在するのかと、
その存在についての「解」をつい探し求めてしまう。


そしてその解答としては、
人間が存在することは正しい、
もしくは人間は存在してもよいのだという、
人類にとっては良心的な答えを期待するのだろう。
これもまた人間の「甘え」だと思う。



けれどもその甘えん坊も、
正しい知識を手に入れることで
いつかは立派に自立できるのである。


これは一人ひとりの人間が
「生きることへの確信を手に入れる」ということである。


そしてその正しい知識へと我々を導けるものは、
この宇宙や自然といった「正しい存在」のみである。

それが科学である。

その時に次元理論は、
世界のもつ正しさを証明する
「唯一の科学」となるだろう。


それは我々が求める、
人間が必要とする知識である。


『そのために我々には
「求める力」があったのだ。』


これも存在ではなく
ベクトルである筈の
我々人間の正体である。

それを理解する為に、いまは探究を続けよう。
知識を得る為である。



「この世界のほんのわずかな一部分」であるはずの我々が
どれほど世界に渇望されて存在するのか、
どれほど大きな希望と可能性であったのか、
我々はその事実を理解しなければならない。




次章「次元理論」は、
いよいよ命の起源とその生命世界へとせまる。
それは人間のもつ「自我」へ近づく作業である。


それは人間とこの宇宙を結びつける、
確かな「きずな」が存在する証である。