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2018年8月21日火曜日

(連載1)1-7「大統一理論」という絆




人間とは何か。
世界とは何か。



人間は、世界と人間との間に「絆」を探そうとして、
これまでのあいだ科学や宗教を発展させてきた。


人間原理としての希望はその求めに応じ、
いつの時代も変わらず
人間とこの世界との融和を望んだのである。



あえて言わせてもらうが、
ここでは融合したいと願うのも、
融合させたいと願うのも
「同じベクトル」である。



例えば支配したいという願い、
ひとつになりたい、誰かのために生きたいという願い、
その全てが「融合へとむけられた同じ想い」である。


ただひとつの同じ願いが、
人類の無数の歩みとその変化に満ちた営みを創るのだ。



この人類の進歩の中で、
存在に対する人々の探求はあらゆる時代をまたいで
今日まで引き継がれてきた。


デカルトや
ライプニッツ、
アインシュタイン、
夏目漱石や
宮沢賢治に至るまで、
彼らの人間と世界に対する探求心は
存在に対する解答を広く導くことを求めていた。




人間は何者なのか。



無論現代に生きる全ての我々も、
同じ探求者である。



すなわち人間の究極の探求心は
この「存在」に対する疑問、
「何故私は(世界は)存在するのか?」に向けられている。



けれどもその探求心は、
そこに考え方の相違や異なる視点が生まれ
科学と呼ばれるものや一方では宗教を中心に、
あるいは哲学、芸術、さらには文学などとして
その裾野を広げ続けてきた。


そしてそのそれぞれの行く先に
新しい真理が生まれている。




新しい価値観の創造は、
人間としては共に喜ぶべきことである。


けれども元々ひとつしかないはずの真理が、
何故世界には無数に溢れてしまうのか。





ここに世界の決まりごとがある。


ひとつのものから始まる分岐と多様性の創造。
連鎖の先に生まれる新たな融合と更なる拡大。






つまり探求心が消せないものである以上、
ここから生まれる新たな価値観の創造も必然である。



融合を求めるがゆえに引き起こされる
意味のある分岐。


この望みが
可能性に彩られた未来を創造する。






唯一無二の統一神を信じる人々と
あらゆる対象に千差万別の神々の姿を見る人がいる。


実はこれも、全てのものに唯一の力が宿るという
共通の理解である。
全てのものに唯一の力が宿るのか、
唯一の力を全ての存在が宿すのか。


それは突き放した解釈においては
同じ原理である。


探せばどこからでも
同じ真理は見つかるのだ。




これもこの世界に
概念を貫く共通の理解が
あるためである。




「想いは生まれたり消えたりするのに
物質は盤石なものである。
その原理は異なるはずだ。」

これももはや事実ではない。

物質も生まれたり、消えたりをくり返す。
確かな存在は何処にもなく、
あるのはただ力学のみである。


その力学が意志と呼ばれるのである。




中世、科学と教会が対立した背景には
この統一した力学の確立という問題があった。
宗教が定めた神による世界の創造と同じ、
本家の科学でも
最初は統一された同じ力学の構築を求めていた。


その結果、教会と科学との対立は深まる。


だが近年では科学は挫折し、
業を煮やした人々は哲学や信仰へと
その突破口を求めたといわざるを得ない。




科学は本道を外れてしまい、
今やその正しさは信仰という非科学によって
守られているようである。
科学的視点によって
科学から心は取り除かれてしまう。


科学においては
世界から学ぶ、人間を学ぶというというテーマは既に乏しく、
ただ試験や資格、仕事のために作り出された専門知識と、
世界を加工する技術、研究費獲得のための創作と
その迷走ぶりは凄まじい。


国家や与えられた常識によって守られた
権利と利益を独占するための排他的、
支配的な商いが現代の学問である。






だがほんの僅かな昔まで、
人間は知っていたはずなのだ。
あるいは学び、理解していたはずである。



世界にはただ一つの真理が存在し、
それが全ての事象にも等しく宿っていることを。
そして人間もその絆から生まれた
この世界の同じ仲間であることを。



今や科学が無くしてしまった本当の道を
誰もが自由にこの世界に求めていた、
それが学問であり、探求の全てである。


あなたが大人になってしまうまでの
ほんの僅かな前までは。



我々は大切なことを、
自ら切り捨ててしまったのだ。




2018年8月14日火曜日

(連載1)1-6 「外側の世界」と「内側の世界」



話をもどそう。


本能は重力である。


命が生み出した
「生命が同じ生命に引き寄せられる力学」、
その力学が宿る有機物が生命である。


この重力によって命は、
他の数多くの生命と新たに結び付けられていく。


この生命の繋がりの中で、
死が創り出した人間に宿る必然的な探究。


「我々は何処から来たのか。
我々は何者なのか。
我々は何処へ行くのか。」


ゴーギャンのこの問いかけは、
人間の深層でより単純化された
人間の持つ究極の疑問だと言えよう。



人間が疑問を持つのは、
その認識力においてである。



そして人間がその認識力によって疑問を抱くものには
大きく分けて2つの種類がある。


他者と自分。


あるいは何かと自分。
つまり「世界と自分」である。


この世界はどこから来たのか。
この世界は一体何か。
この世界はどこへいくのか?


つまるところこちらの疑問も、
ゴーギャンの同じ問いかけの表と裏である。



ではこのように人間の探求心の向かう先は
“世界と自分”の2種類で
本当によいのだろうか?



「よもや自分の中にも他の世界があったり、
世界の中にも他の自分がいるようなことは
起こり得るはずはないか?」



あなたの心の位置によって
この世界は見え方を変えていく。

この世界の情勢によって、
あなたも存在の仕方を変化させるのだ。



世界と「わたし」の間には
本当に異なった力学、あるいは違った原理が流れているのか。




何故と問う、世界と人間の先に
ぼんやりと見えてくる共通項。



人間は、あるいはこの世界は、
本当に存在するのだろうか?


自分は何者か?
世界は何故存在するのか?




今、考える時だ。



もともと人間は
この世界の一部分として生まれている。


そしてこの世界もまた、
我々人間の一部分である。


人間がそれを認識し、
それらを自らの内側に宿すという意味において。


そしてあなた自身の中にも
この世界の構成要素としての、物質、空間、時間、などの
宇宙の一部分が含まれている。




我々はこの世界を愛し、
かけがえのないものとしてこの世界を想う。

それはあたかも自分自身を愛するように。


そして人間は自分を忌み嫌い、
おのれの影にも怯える。

それはこの世界を憎み、畏怖するのと同じである。



世界と自分。


あなたを映し出して
あなたを投影する鏡。
世界を反映して
世界を映し出すあなたという鏡。





さらに人間の感情は
その全てがこの世界の状態によって
表現する事ができる。


同じ日、澄み渡る青空に
自分自身の心を浮かべて全てを受け入れる人々と
眩しすぎる太陽に目を背け
全てを否定してしまう人々。


そこに見える景色は、
単に自分自身を写した鏡に過ぎない。



詩人たちは理解していた。
この世界は“全てのことが記された書物”だと。
そして哲学者は教える。
この世界には窓がなく、
世界を見るものの全ては同じように世界から見られると。



では何故、この世界は我々の鏡となるのか?
人間がその瞳に写すものとは
一体何処にある世界なのか。



人間とは何か?
世界とは何か?


この世界と人間の繋がりは?





世界を理解して学ぶことは、
そのままで人間理解、
ひいては自分自身を理解することである。



まずはこの世界が先に誕生し、
そのあとに生命が、
そして我々人間が「それを模倣して」生まれたのだから。

模倣?
縮尺?


いや我々は「同じもの」である。


物質でさえ生まれ、消えるものであれば、
それはあなたの命や意志とも同じものである。


違うのは存在する場所だけではないか。


だからこそ人間は
他の生命に依存し、
この世界とも共有して生きている。


単純に地球とそこに生きる全ての生命、
そして我々人間も、
この世界の摂理に従ってここに存在する。



人間だけが特別に
「存在する理由を持つ」訳ではないのだ。



人間は理解することによってそれを共有し、
自身を広げる生き物である。
つまり理解したいという人間の希望や好奇心の行く先には、
必ずその中に「人間が広がること」がその目的としてある。



それは逆に
人間は理解できないことに対しては不安を覚え、
恐怖し拒絶するということである。



従って人間がこの世界を理解しようと努めるのは、
人間がこの世界を共有し、
その先に人間が世界との融合を望むための
正しい姿勢である。


それは自らが存在するという不安を払拭し、
この世界に安堵を求めた結果なのだ。



この願いによって我々は
人間とその歴史を造って来た。



人々を先へ先へと歩ませる願いと、
それを生み出すためにある心の空虚。




この「失われた心の空間」を埋める為の前進で
これまであいだ人間は、
手探りでその行進を続けてきた。


原罪と呼ばれたこの空洞が何を意味するのか、
我々は未だ理解することが出来ないでいる。



けれども全てを求め、
全てを生み出すこの虚空が人間であり、
我々の全てを生み出す希望の本質なのである。




この虚空は物理学によってのみ
理解することが可能だ。



我々が抱き続けた存在そのものに対する疑問、
理解できないでいた漠然とした不安。



そこにあるのは“存在”に対する
人間の無知である。



だからこそ、
我々は知らなければならない。
事実をだ。





2018年8月7日火曜日

(連鎖1)1-5 「生命原理」と「原理を生むもの」


命には何故、
本能が宿るのか。


それ以前に命とは何か?
本能とは何か。




本能は
「命が同じ命を求める力学」である。


この本能をもつ有機物が生命と呼ばれている。


つまり生命は、それ自体は存在ではなく、
物質に「生命を求める」という力学が
「付加された」状態なのである。





「重力」は
失われた空間が
同じ空間を求める力学である。
この力学が物質の求める力として
重力や核力に現れている。



このように本能や重力は、
その根底にはもっと深い部分での同じ因果律がある。



世界の奥底に流れる
「原因が原因であり続けようとする」
より大きな物理学。



つまり本能や重力でさえそれは表面上に現れた
見せかけの力学に過ぎず、
それぞれがそこに存在する理由は
更に深層の別の物理学が受け持っているのだ。


物理原理
生命原理
人間原理


原理には、それが原理たる理由がある。


その原理を人間が勝手に決めてはならない。



そして全ての理由を持たない、
唯一の前提となるのが大原理である。


それは知識の生まれる場所であり、
世界の始まる場所でなければならない。








「生命がある」とは同時に
「死がある」ことを意味する。


「存在する死」という際限のない虚空。


この虚空が引き寄せる、
同種の(あるいは自分自身の)命へと働く
生命の力学。


そこに発現したものが
本能という生命世界の重力である。


更に本能にも
「原因が原因であり続けようとする」
元々の物理学が継承されている。


(科学的には「有機物の抜け落ちた穴」が、
同じ有機物を求める作用として
「本能と呼ばれる力学」は生じる。
この元々の空洞にあった有機物は
中心の有機物の中で2重に重なり、
ここにこの空洞は「同じ種類の有機物を求める」
という力学を宿す。
この空洞から内外の同じ有機物へと向けられた引力が
本能である。)



生きることを願いそれを支える死と、
命を維持し創造する為に死が命へと与えた重力。



死は
「何も存在しないこと」
ではない。


生命にとって死とは
ただ無くなることではなく、
存在しないはずの虚空、
生の抜け落ちた空間(死)が「そこにある」ことである。


0から生命は生まれない。


本来存在するはずのない「死があること」、
それが生命なのだ。



つまり死は生の一部分であり、
生もまた死の側面に過ぎない。


「生きる」ということは、
「死が存在する」状態である。


だからこそ「存在する死」は、
その対価として同じ命を求め、
それは本能として、食物連鎖として
全ての生き物の生命活動を統括する。



これが生命の基本となる
「生命原理」である。



死が求める命は自分自身の命であり(核力)、
自分と同じ命(重力)である。
それ故に生は死の産物であり
死は生を集めるのである。


つまり動物の本能は「存在する死」から生まれる。


決して埋めることの出来ない、
生命世界に開らいた穴。



「自我の本能」も同じ命である以上、
この生命の原型をたどる。
つまり生命世界のもつ「本能」は、
自我世界のもつ「願い」と同じ種類のベクトルなのだ。



本能が進化させた生命体。
その生命体がより優位な状況で
生命を繁栄させる為に生まれた人間の自我。


つまり自我世界は
元々の生命原理を模倣する形で、
あるいはその本能の一部分として、
「人間原理」を発現させている。



生命の中心に存在する死と、
自我の中心に存在する虚空。


死と自我の中心「虚空」は
同じ空洞として
そこに求める力を発現させている。



存在するものが何処にも存在しない状態の「死」と
存在しないものが確かにある状態の「生命」。


あるのにない同じ、命と心。



死が命を求めるのと同様に
心の虚空は融合を求め
願い、そして希望を生む。


存在する死が人間の源であり、
死は人間の探求心を増幅する。



つまり死は無ではなく、
抜け落ちた生命世界の空間である。
その重力によって
生命世界は拡大へと導かれるのだ。




2018年7月31日火曜日

(連載1)1-4 本能・重力・希望 「求める」という同じ物理学



野生動物やより単純な生き物たちは
本能によってその行動を支配されている。



本能に従えばその生き物たちは
生き残る可能性を高め、
命を引き継ぐ生命の営みにも
より貢献する事が出来るのだ。


このように本能は、
命を拡大するという目的を持って
生まれている。



命が同じ命を「求める」力学、
それが本能である。




我々人間のココロも
この同じ物理学を持つ。


自我もその本能によって支配されている。


それが人間の願いや、希望として現われた
「自我の本能」である。



自我を他の世界へと惹きつけて
融合し拡大させるための重力。


人間である限り誰もが必ず持ち続ける
「求める心」。



即ちこれは「希望」である。



その願いを生み出すためにあるもの。
それは決して消すことの出来ない
「心の虚空」である。



自我が願い、希望を生み出すことは
この生命としての人間の構造から生まれている。



つまり「消せない虚空」が同じものとして
「消えない希望」なのである。




それは人間の中心で
我々の思考を支配する
本質的な欲求である。





人間はその自由意思によって
「好きなことを考えることが出来る」と
思う人は多いだろう。


「我思う故に我あり」だ。


けれども我々が持つ自由とは、
実は「選択する自由」だけである。


つまり我々の思考の原点には
「求めるための本能」が
まず働いている。


不満足から生まれる欲求。


人間の感情はその自我の選択を承認し、喜び、納得し、
そしてそこに新たな願いを生み出す、
その為だけにある。



つまり全ての人間の自我の相違は、
ただ「求めるものが異なる」だけである。



このように生命としての自我は
その中心にまず「願い」を持ち、
これは我々の持つ他の感情や想いとは
一線を隔てた特別なものなのである。



自我世界が予め設定する
人間の「目的地」。



それは永遠にたどり着くことのできない、
幻の理想郷である。




そして「求め続けるチカラ」、
それが人間の重力なのだ。





人間の自由意思を創り出すためにある「願い」と、
その願いによって育てられる感情世界。
あるいは感性という想いの渦から生まれた「願い」と
自由意思の集大成としてつくられた「希望」。


双方に行き来する精神世界と自我世界の
同じ動物的な、あるいは理性的な本能。



この物理学を築くための構造が、
人間の中心に位置する「自我の虚空」である。



そしてこれが「自我の本能」として
我々全ての人間を統括する「人間の行動原理」なのだ。





表現を正確にしよう。


人間が願いを持つのではない。
願いのために人間は生まれている。
人間を創ったのは「虚空」であり、
我々はそこから生まれた消えない「願い」である。



これが自我世界である。
我々は存在ではなく力学なのだ。







喜びや悲しみ、憎しみや恐怖、
我々が様々な感情を持つことも、
全ては新たな願いを自我に与える為である。


喜びを求め、恐怖を乗り越え、
満足に幸福を覚え、忘れ求め、苦しさに耐える。
このように願いを創り出す為にこそ
感情は働く。


そして生み出された願いは
人間の気持ちを安定させて、人間自身を強く育むのである。
我々の心は
この「願い」によって展開する。




人間に自我を目覚めさせるべく存在する、
心の虚空。



その空虚を埋めるために生まれる切望。



この願いによって人間は
あらゆる世界とも結び付けられていく。




「融合、そしてそこから始まる創造」




つまり高度に複雑化した我々を取りまく環境の中で、
それに対応した人間を動かす力学、
それが希望とも呼ばれる自我の本能なのだ。



これは決して特別な力学ではない。



ひとつの原子が抱えた「存在する重力」は、
失われた空間が他の空間を求めるための
物質の持つ欲求である。

そして核力は自らの存在を求める
原子の同じ本能である。


重力によって原子は他の原子群と結び付き、
やがてその重力で
核融合反応を起こして更に質量を拡大する。


融合と創造。


更に全ての命が生命として与えられた本能は、
失われる命(死)が他の命を求めるための
生命の重力である。


この本能は自らの命の継続を願う物理学であり
これは核力である。


生命はこの本能によって他の生命と結びつき
やがて融合する。


そこから創造(や進化)は始まる。



これが死が生み出した生命の欲求、
重力なのだ。






我々人間も、
この世界を認識することによって求めるという希望を持ち、
やがてその願いによって世界と融合する。



人間の自我世界という生態系において、
人間がより良く生きる為に与えられた能力、
それが「願いを持つ自我」という物理学なのだ。



では何故人間の(生命の、原子の)中心には
失われた空間があるのか。


その虚空は
何故他の同じ空間を引きつけるのか。



これが原始の「同じ物理学」である。


我々がまだ気付いていない、
宇宙の根底にある統一された同じ物理学である。




あなた自身も
その失われた空間に囚われて
確固たる自我として成立している。


そのココロの虚空がなければ、
あなたもこの世界と変わらない
巨大な空間に過ぎないのだ。





こうして見ると人間は、
“考える葦”などではなく
まさに「願いを生み出す命」そのものである。


あるいは「願いによって生み出された命」である。


すべての我々が所有する世界に共通の力学、
人間とその社会の全てを形成する源泉、
そしてあなた自身も具体的に導く「願い」。


このようにこの世界の正体は
「消えない願い」にある。



つまりこれは「消せない虚空」がそこにある
ことを意味する。



結論を急ぐ気はない。
しかし人間以外の全ての存在も
この世界にある「同じ願い」なのだ。


生命の本質は「存在する死」であり、
物質の本質は「存在する歪み」である。
人間の本質は「存在する虚空」である。


2重に重なった有機物、生命(命に空いた穴)。
2重に重なった空間、物質(空間に開いた穴)。
2重に重なった精神、自我(心にある虚空)。



だからこそ全ての生命は同じ命を求め、
物質は物質に引かれ、
希望とも呼べる人間と世界のつながりは強い。



全ては同じ物理学である。


存在する死は消えない空洞、
すなわち虚空と「同じもの」である。
それを埋めるために
そこにベクトル、すなわち求める欲求として
本能は生まれている。


存在する力学は消えない虚空、
即ち空間に開いた穴である。

それを埋めるためにベクトル、
即ち欲求として重力や核力がある。


つまりそれ以前に
力学は生まれていたのだ。



我々人間も同じものである。




そこに世界の根底に存在する、
我々のまだ知らない物理学、
「等価原理」がある。



2018年7月24日火曜日

(連載1)1-3 「自我」という孤独



「確定的に存在する世界」とは異なった、
揺らぎながら透き通る「わたし」という存在。



それは世界の内側と外側のはざまに位置し、
そのどちらでもない、
抜け落ちた空間である。



あなたの外側には世界があり、
あなたの内側にも同じ世界がある。



ではそれを認識するあなたは
一体何処にいるのか?



外側に無限大の世界を抱え、
内側にも無限大の奥行きがある。



それは点である。

あなたは点なのだ。



点の外側には無限大に広がる空間(スペース)があり、
その内側にも同じ無限大の奥行きがある。


では点は、
一体何処に存在するものなのか?




人と点。


 
そこには世界から切り取られて孤立する、
自己の領域とその孤独な時間がある。



存在するのに
存在しないもの。


存在しないのに
存在するというもの。



だからこそ人間は
求め続けることが出来るのだ。




「わたし」は一体何者なのか?と。




探求へと向かわざるを得ない、
自我に仕組まれた
求めることへの願望、衝動、欲求、
あるいはその構造上に生まれた力学。


「自我の重力」


即ちそれは、
自我が他の世界を求めて繋がるための
力学である。


その力学を生むものが
自我の中心にある虚空なのだ。


埋めることの出来ない、
永遠に引き付け続ける空白、空洞。



人間は自分が人間であると気付いたその瞬間から
探求者として目覚め、
探し求めることで人間へと成長する。



自分自身が
孤独である、
という自覚。


それ故に
何かを求める力学。



その探求の先で我々が出会う現実は、
存在と非存在が同列である理解と、
その認識をつくりだす生と死、
創造と破壊の混在する世界である。



その狭間に立つものが、
生と死の間に位置する同じ自分なのだ。



「ある」とは何か?

「ない」とは何か?



世界の内側と外側、
あるいは生と死、
さらには時間の存在する今と存在しない時間、
その全てのはざまに位置する「わたし」が、
存在を保つ自我である。


存在するのに
何処にも本体のない点。


存在する場所が何処にもない、
けれども「存在するわたし」。


誰でもない「わたし」と
唯一の一人称「わたし」。



やがて消滅するであろう
自分自身に対する懐疑と葛藤。



何故わたしは存在するのか。




今はまだ自我として保つこの歪んだ空間も、
やがてはこの狭間の消失と共に解かれて、
この世界に広がりゆくものである。




あるいは穏やかな時の流れにさえ
あがらうことが出来ない、永遠や悠久という蜃気楼。
全てのものは移り変わる。


ではその時間とは
一体何か。



点と同じ今。
何処にも存在しない「わたし」。



そこで我々は理解する。
完全なる不変とは
その内側に創造と終焉を
調和として含むものである。


それはまさに繁栄とよばれ、決して定常ではない。


永遠に完成されない構造が、
完成した世界である。


世界は永遠に広がる。




自我とて同じである。
柔らかく、勢い良く広がりゆくのか、
あるいは固執し執着し、小さく固まるのか、
そのどちらかしか持たない。


保存の原則のない全ての世界。


消滅するのか、新しく生まれるのか。
それを望むのか、望まないのか、だけの違い。



では何故、全ての人間は探求者なのか。




それは全ての我々が
「願い」を持つためである。


希望や願望、欲求や欲望など、
呼び方はちがえども人間を動かすものは
いつも同じ「願い」である。



我々は「求める者」なのだ。



我々は常に不満足を抱えている。

それが全ての人間が持つ物理学である。



自我は孤独になるために
ここに生まれている。




2018年7月18日水曜日

(連載1)1-2 「人間原理」



我々はどこから来たのか。
我々は何者なのか。
我々はどこへ行くのか?



フランスの画家、ゴーギャンの絵画に
この問いかけはある。



人間はその“考える”という本能によって、
ある日突然に認識して自覚する。
自分が「ここに存在する」という現実を。


この世界にある唯一の不純物
「わたし」。


それは自分だけの視点を持った
ただひとりの「わたし」の発見である。



一言で表わすならば、
「この世界とは違うもの」。


異質であり異物であり
この世界から隔離された空間。




つまり人間は、
その存在する自分自身に対しても戸惑い、
得も知れず不安を覚えるものである。



「何故私はこの世界とは違うのだろうか?」



これはひとえに人間の知識では
“理解することのできない事象”に対する驚きであり、
不確かな存在への怖れ、
あるいはためらいかもしれない。



具体的には一人称が必然的に伴なう孤独と、
不完全さが生む心細さや不安。



「私は一体何者なのか?」



自分が認識する外側の世界とは異なる、
その内側で孤立する「(創り出された)独我の領域」。



「わたし」にしかわからないこと。
「わたし」にさえわからないこと。



そこには問わずには
いられない衝動がある。




つまり疑問を生みだす為に生まれた
「私という存在」。



「わたし」が疑問を持つのか、
疑問を持つものが「わたし」なのか。



その答えが見つからないものだとすれば
諦めるために「わたし」はいるのか。


あるいは人間が決して諦めないものだとすれば
探し続けるものが「わたし」なのか。





これは全ての我々が
人間として生まれてきた以上抱えた
「自我の出発点」である。






人間であれば誰もが逃れることの出来ない、
不満足から始まる際限のない渇望。


その中心に
欠落した空間(うねりを伴う枯渇)がある。


人間の心の中心を構築する
決して埋めることの出来ない空洞、虚空。




この心の虚空が、
人間を突き動かすのだ。




これが自我の中に仕組まれた
人間を支配する力学、
「人間原理」である。




ここから「求める(欲求、衝動、願い、希望など)」という
自我の力学が生まれる。
この願いから人間は始まるのだ。



それは全ての人間が宿した
自我を導くベクトル、
人間の行き先を指し示す方位磁針である。






まず、忘れないで頂きたい。
「底の抜けた永遠の虚空」が
全ての人間の世界を創り出している。


人間はそこから拡大する物理学である。




2018年7月11日水曜日

(連載1)1-1「無を理解する科学」

無を理解する科学






第1章

「世界が無であることを証明する
世界が有であることを証明する
無と有が同一のものであることを証明する」





1-1 無を理解する科学


『これから私は、
「わたし」や「あなた」、
そして「全てのもの」の、
本当の物語を書いていきます。


これは宇宙誕生の物語であり、
全能の哲学書、そして真の科学書です。』






私は科学や学問は全ての人間のものであり、
正しい知識を独占して利益を得ることは
誤りだと考えている。


けれども労働に対してその正当な対価を得ることは、
決して間違ったことではないだろう。
なので商業的に言わせてもらえば、
この本はアカシックレコードの現代語訳版である。


全てのことが書かれた宇宙に一冊だけの本、
それがこの本だ。

この本を理解した先には
人間の行き先が見えてくる。



更に私は、あらゆる宗教を否定しない。
信仰を持つ全ての人々に聞いて頂きたいのは、
この本はあなた方の経典や聖書の現代語訳版であり、
全く同じ本だということだ。


2000年前と現代では
理解するために必要となる言葉は異なる。


この本を最後まで読んでいただければ
あなたの理解と同じ内容が書かれていることに
きっと気付けることだろう。



この本はあなた方の更なる信仰のためのものである。


もちろん、あなた方の宗教が
正しいものであることは前提であるが。





この本の主旨はただひとつ、
「無を理解すること」である。


時間も持たず、体積や面積もなく、
長さも持たない、それなのに確かに存在するもの。


それが「点」である。


そうなのだ。


この「点」が「無と同じもの」であり
モナドと呼ばれる「実体の正体」である。




これまでの科学はこの「点」を起点として
それに「数字という記号」をつけて、
そこから始まる理解を我々に押し付けてきた。


「点」ではなく、
「記号(造られたもの)」から始まる科学。


だから真実が見えなかったのだ。
我々の科学の前提は
人間の手による創作である。


だが本当の「点」は、
たとえどれだけの距離を拡大しようとも
永遠に近づくことの出来ない無限大の奥行きをもつ。


つまり点は、
長さも面積も時間も
あらゆる「存在する概念」を持たないものである。


では点がその本体をもたない理由は何か。


何故点は、
その内側に無限大に広がることができるのか。


点が存在でありながら何処にも存在しない
「実体」である現実の視点、
それを我々は理解しなければならない。





それが理解できれば
現実に世界は無から誕生するのだ。


無と同じものとして。


これが全てを無と同じものとする
「等価原理」である。


それが宇宙の誕生の物語であり、
我々の科学の本当の始まりである。



私たちはこれから
「世界の真実」を理解する。
それは全ての人間の疑問に答える、
この世界と存在するもの解答である。




その全てを理解した時、
あなたの意志は宇宙の意志と重なることだろう。



ライプニッツ(微分積分法の創始者)のいう
「窓のない世界」。
それは初めて理解された
一元論である。

それがアインシュタインの発見した
「等価原理」として
宇宙を統一する大統一理論である。




この本は大統一理論について書かれた科学書であり、
同時に真実の哲学書、
全ての存在を理解するための宇宙の物語である。