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2018年7月31日火曜日

(連載1)1-4 本能・重力・希望 「求める」という同じ物理学



野生動物やより単純な生き物たちは
本能によってその行動を支配されている。



本能に従えばその生き物たちは
生き残る可能性を高め、
命を引き継ぐ生命の営みにも
より貢献する事が出来るのだ。


このように本能は、
命を拡大するという目的を持って
生まれている。



命が同じ命を「求める」力学、
それが本能である。




我々人間のココロも
この同じ物理学を持つ。


自我もその本能によって支配されている。


それが人間の願いや、希望として現われた
「自我の本能」である。



自我を他の世界へと惹きつけて
融合し拡大させるための重力。


人間である限り誰もが必ず持ち続ける
「求める心」。



即ちこれは「希望」である。



その願いを生み出すためにあるもの。
それは決して消すことの出来ない
「心の虚空」である。



自我が願い、希望を生み出すことは
この生命としての人間の構造から生まれている。



つまり「消せない虚空」が同じものとして
「消えない希望」なのである。




それは人間の中心で
我々の思考を支配する
本質的な欲求である。





人間はその自由意思によって
「好きなことを考えることが出来る」と
思う人は多いだろう。


「我思う故に我あり」だ。


けれども我々が持つ自由とは、
実は「選択する自由」だけである。


つまり我々の思考の原点には
「求めるための本能」が
まず働いている。


不満足から生まれる欲求。


人間の感情はその自我の選択を承認し、喜び、納得し、
そしてそこに新たな願いを生み出す、
その為だけにある。



つまり全ての人間の自我の相違は、
ただ「求めるものが異なる」だけである。



このように生命としての自我は
その中心にまず「願い」を持ち、
これは我々の持つ他の感情や想いとは
一線を隔てた特別なものなのである。



自我世界が予め設定する
人間の「目的地」。



それは永遠にたどり着くことのできない、
幻の理想郷である。




そして「求め続けるチカラ」、
それが人間の重力なのだ。





人間の自由意思を創り出すためにある「願い」と、
その願いによって育てられる感情世界。
あるいは感性という想いの渦から生まれた「願い」と
自由意思の集大成としてつくられた「希望」。


双方に行き来する精神世界と自我世界の
同じ動物的な、あるいは理性的な本能。



この物理学を築くための構造が、
人間の中心に位置する「自我の虚空」である。



そしてこれが「自我の本能」として
我々全ての人間を統括する「人間の行動原理」なのだ。





表現を正確にしよう。


人間が願いを持つのではない。
願いのために人間は生まれている。
人間を創ったのは「虚空」であり、
我々はそこから生まれた消えない「願い」である。



これが自我世界である。
我々は存在ではなく力学なのだ。







喜びや悲しみ、憎しみや恐怖、
我々が様々な感情を持つことも、
全ては新たな願いを自我に与える為である。


喜びを求め、恐怖を乗り越え、
満足に幸福を覚え、忘れ求め、苦しさに耐える。
このように願いを創り出す為にこそ
感情は働く。


そして生み出された願いは
人間の気持ちを安定させて、人間自身を強く育むのである。
我々の心は
この「願い」によって展開する。




人間に自我を目覚めさせるべく存在する、
心の虚空。



その空虚を埋めるために生まれる切望。



この願いによって人間は
あらゆる世界とも結び付けられていく。




「融合、そしてそこから始まる創造」




つまり高度に複雑化した我々を取りまく環境の中で、
それに対応した人間を動かす力学、
それが希望とも呼ばれる自我の本能なのだ。



これは決して特別な力学ではない。



ひとつの原子が抱えた「存在する重力」は、
失われた空間が他の空間を求めるための
物質の持つ欲求である。

そして核力は自らの存在を求める
原子の同じ本能である。


重力によって原子は他の原子群と結び付き、
やがてその重力で
核融合反応を起こして更に質量を拡大する。


融合と創造。


更に全ての命が生命として与えられた本能は、
失われる命(死)が他の命を求めるための
生命の重力である。


この本能は自らの命の継続を願う物理学であり
これは核力である。


生命はこの本能によって他の生命と結びつき
やがて融合する。


そこから創造(や進化)は始まる。



これが死が生み出した生命の欲求、
重力なのだ。






我々人間も、
この世界を認識することによって求めるという希望を持ち、
やがてその願いによって世界と融合する。



人間の自我世界という生態系において、
人間がより良く生きる為に与えられた能力、
それが「願いを持つ自我」という物理学なのだ。



では何故人間の(生命の、原子の)中心には
失われた空間があるのか。


その虚空は
何故他の同じ空間を引きつけるのか。



これが原始の「同じ物理学」である。


我々がまだ気付いていない、
宇宙の根底にある統一された同じ物理学である。




あなた自身も
その失われた空間に囚われて
確固たる自我として成立している。


そのココロの虚空がなければ、
あなたもこの世界と変わらない
巨大な空間に過ぎないのだ。





こうして見ると人間は、
“考える葦”などではなく
まさに「願いを生み出す命」そのものである。


あるいは「願いによって生み出された命」である。


すべての我々が所有する世界に共通の力学、
人間とその社会の全てを形成する源泉、
そしてあなた自身も具体的に導く「願い」。


このようにこの世界の正体は
「消えない願い」にある。



つまりこれは「消せない虚空」がそこにある
ことを意味する。



結論を急ぐ気はない。
しかし人間以外の全ての存在も
この世界にある「同じ願い」なのだ。


生命の本質は「存在する死」であり、
物質の本質は「存在する歪み」である。
人間の本質は「存在する虚空」である。


2重に重なった有機物、生命(命に空いた穴)。
2重に重なった空間、物質(空間に開いた穴)。
2重に重なった精神、自我(心にある虚空)。



だからこそ全ての生命は同じ命を求め、
物質は物質に引かれ、
希望とも呼べる人間と世界のつながりは強い。



全ては同じ物理学である。


存在する死は消えない空洞、
すなわち虚空と「同じもの」である。
それを埋めるために
そこにベクトル、すなわち求める欲求として
本能は生まれている。


存在する力学は消えない虚空、
即ち空間に開いた穴である。

それを埋めるためにベクトル、
即ち欲求として重力や核力がある。


つまりそれ以前に
力学は生まれていたのだ。



我々人間も同じものである。




そこに世界の根底に存在する、
我々のまだ知らない物理学、
「等価原理」がある。



2018年7月24日火曜日

(連載1)1-3 「自我」という孤独



「確定的に存在する世界」とは異なった、
揺らぎながら透き通る「わたし」という存在。



それは世界の内側と外側のはざまに位置し、
そのどちらでもない、
抜け落ちた空間である。



あなたの外側には世界があり、
あなたの内側にも同じ世界がある。



ではそれを認識するあなたは
一体何処にいるのか?



外側に無限大の世界を抱え、
内側にも無限大の奥行きがある。



それは点である。

あなたは点なのだ。



点の外側には無限大に広がる空間(スペース)があり、
その内側にも同じ無限大の奥行きがある。


では点は、
一体何処に存在するものなのか?




人と点。


 
そこには世界から切り取られて孤立する、
自己の領域とその孤独な時間がある。



存在するのに
存在しないもの。


存在しないのに
存在するというもの。



だからこそ人間は
求め続けることが出来るのだ。




「わたし」は一体何者なのか?と。




探求へと向かわざるを得ない、
自我に仕組まれた
求めることへの願望、衝動、欲求、
あるいはその構造上に生まれた力学。


「自我の重力」


即ちそれは、
自我が他の世界を求めて繋がるための
力学である。


その力学を生むものが
自我の中心にある虚空なのだ。


埋めることの出来ない、
永遠に引き付け続ける空白、空洞。



人間は自分が人間であると気付いたその瞬間から
探求者として目覚め、
探し求めることで人間へと成長する。



自分自身が
孤独である、
という自覚。


それ故に
何かを求める力学。



その探求の先で我々が出会う現実は、
存在と非存在が同列である理解と、
その認識をつくりだす生と死、
創造と破壊の混在する世界である。



その狭間に立つものが、
生と死の間に位置する同じ自分なのだ。



「ある」とは何か?

「ない」とは何か?



世界の内側と外側、
あるいは生と死、
さらには時間の存在する今と存在しない時間、
その全てのはざまに位置する「わたし」が、
存在を保つ自我である。


存在するのに
何処にも本体のない点。


存在する場所が何処にもない、
けれども「存在するわたし」。


誰でもない「わたし」と
唯一の一人称「わたし」。



やがて消滅するであろう
自分自身に対する懐疑と葛藤。



何故わたしは存在するのか。




今はまだ自我として保つこの歪んだ空間も、
やがてはこの狭間の消失と共に解かれて、
この世界に広がりゆくものである。




あるいは穏やかな時の流れにさえ
あがらうことが出来ない、永遠や悠久という蜃気楼。
全てのものは移り変わる。


ではその時間とは
一体何か。



点と同じ今。
何処にも存在しない「わたし」。



そこで我々は理解する。
完全なる不変とは
その内側に創造と終焉を
調和として含むものである。


それはまさに繁栄とよばれ、決して定常ではない。


永遠に完成されない構造が、
完成した世界である。


世界は永遠に広がる。




自我とて同じである。
柔らかく、勢い良く広がりゆくのか、
あるいは固執し執着し、小さく固まるのか、
そのどちらかしか持たない。


保存の原則のない全ての世界。


消滅するのか、新しく生まれるのか。
それを望むのか、望まないのか、だけの違い。



では何故、全ての人間は探求者なのか。




それは全ての我々が
「願い」を持つためである。


希望や願望、欲求や欲望など、
呼び方はちがえども人間を動かすものは
いつも同じ「願い」である。



我々は「求める者」なのだ。



我々は常に不満足を抱えている。

それが全ての人間が持つ物理学である。



自我は孤独になるために
ここに生まれている。




2018年7月18日水曜日

(連載1)1-2 「人間原理」



我々はどこから来たのか。
我々は何者なのか。
我々はどこへ行くのか?



フランスの画家、ゴーギャンの絵画に
この問いかけはある。



人間はその“考える”という本能によって、
ある日突然に認識して自覚する。
自分が「ここに存在する」という現実を。


この世界にある唯一の不純物
「わたし」。


それは自分だけの視点を持った
ただひとりの「わたし」の発見である。



一言で表わすならば、
「この世界とは違うもの」。


異質であり異物であり
この世界から隔離された空間。




つまり人間は、
その存在する自分自身に対しても戸惑い、
得も知れず不安を覚えるものである。



「何故私はこの世界とは違うのだろうか?」



これはひとえに人間の知識では
“理解することのできない事象”に対する驚きであり、
不確かな存在への怖れ、
あるいはためらいかもしれない。



具体的には一人称が必然的に伴なう孤独と、
不完全さが生む心細さや不安。



「私は一体何者なのか?」



自分が認識する外側の世界とは異なる、
その内側で孤立する「(創り出された)独我の領域」。



「わたし」にしかわからないこと。
「わたし」にさえわからないこと。



そこには問わずには
いられない衝動がある。




つまり疑問を生みだす為に生まれた
「私という存在」。



「わたし」が疑問を持つのか、
疑問を持つものが「わたし」なのか。



その答えが見つからないものだとすれば
諦めるために「わたし」はいるのか。


あるいは人間が決して諦めないものだとすれば
探し続けるものが「わたし」なのか。





これは全ての我々が
人間として生まれてきた以上抱えた
「自我の出発点」である。






人間であれば誰もが逃れることの出来ない、
不満足から始まる際限のない渇望。


その中心に
欠落した空間(うねりを伴う枯渇)がある。


人間の心の中心を構築する
決して埋めることの出来ない空洞、虚空。




この心の虚空が、
人間を突き動かすのだ。




これが自我の中に仕組まれた
人間を支配する力学、
「人間原理」である。




ここから「求める(欲求、衝動、願い、希望など)」という
自我の力学が生まれる。
この願いから人間は始まるのだ。



それは全ての人間が宿した
自我を導くベクトル、
人間の行き先を指し示す方位磁針である。






まず、忘れないで頂きたい。
「底の抜けた永遠の虚空」が
全ての人間の世界を創り出している。


人間はそこから拡大する物理学である。




2018年7月11日水曜日

(連載1)1-1「無を理解する科学」

無を理解する科学






第1章

「世界が無であることを証明する
世界が有であることを証明する
無と有が同一のものであることを証明する」





1-1 無を理解する科学


『これから私は、
「わたし」や「あなた」、
そして「全てのもの」の、
本当の物語を書いていきます。


これは宇宙誕生の物語であり、
全能の哲学書、そして真の科学書です。』






私は科学や学問は全ての人間のものであり、
正しい知識を独占して利益を得ることは
誤りだと考えている。


けれども労働に対してその正当な対価を得ることは、
決して間違ったことではないだろう。
なので商業的に言わせてもらえば、
この本はアカシックレコードの現代語訳版である。


全てのことが書かれた宇宙に一冊だけの本、
それがこの本だ。

この本を理解した先には
人間の行き先が見えてくる。



更に私は、あらゆる宗教を否定しない。
信仰を持つ全ての人々に聞いて頂きたいのは、
この本はあなた方の経典や聖書の現代語訳版であり、
全く同じ本だということだ。


2000年前と現代では
理解するために必要となる言葉は異なる。


この本を最後まで読んでいただければ
あなたの理解と同じ内容が書かれていることに
きっと気付けることだろう。



この本はあなた方の更なる信仰のためのものである。


もちろん、あなた方の宗教が
正しいものであることは前提であるが。





この本の主旨はただひとつ、
「無を理解すること」である。


時間も持たず、体積や面積もなく、
長さも持たない、それなのに確かに存在するもの。


それが「点」である。


そうなのだ。


この「点」が「無と同じもの」であり
モナドと呼ばれる「実体の正体」である。




これまでの科学はこの「点」を起点として
それに「数字という記号」をつけて、
そこから始まる理解を我々に押し付けてきた。


「点」ではなく、
「記号(造られたもの)」から始まる科学。


だから真実が見えなかったのだ。
我々の科学の前提は
人間の手による創作である。


だが本当の「点」は、
たとえどれだけの距離を拡大しようとも
永遠に近づくことの出来ない無限大の奥行きをもつ。


つまり点は、
長さも面積も時間も
あらゆる「存在する概念」を持たないものである。


では点がその本体をもたない理由は何か。


何故点は、
その内側に無限大に広がることができるのか。


点が存在でありながら何処にも存在しない
「実体」である現実の視点、
それを我々は理解しなければならない。





それが理解できれば
現実に世界は無から誕生するのだ。


無と同じものとして。


これが全てを無と同じものとする
「等価原理」である。


それが宇宙の誕生の物語であり、
我々の科学の本当の始まりである。



私たちはこれから
「世界の真実」を理解する。
それは全ての人間の疑問に答える、
この世界と存在するもの解答である。




その全てを理解した時、
あなたの意志は宇宙の意志と重なることだろう。



ライプニッツ(微分積分法の創始者)のいう
「窓のない世界」。
それは初めて理解された
一元論である。

それがアインシュタインの発見した
「等価原理」として
宇宙を統一する大統一理論である。




この本は大統一理論について書かれた科学書であり、
同時に真実の哲学書、
全ての存在を理解するための宇宙の物語である。








2018年6月13日水曜日

その科学、本当に信用できますか?(モナドの声を聞く23)




身勝手な前提から
始まる科学はない。


これは点です。と記憶するよりも、
「点が面積を持たない」その理由を知ることが
科学の本当の視点である。


点の内側には無限大の奥行きがある。


それは点に「存在の概念」がないからだ。
点には体積や面積、長さ
それらのあらゆる概念(存在の部分)がない。


あるのにない、という
点は無限大と等しい実体である。





世界はたったひとつの同じものである。
これが大統一理論である。


それは存在でありながら存在しない、
異なる同一のモナド、つまり実体である。


「点」や「今」など、現実に世界は
この「実体」によって構築されている。
それを我々の科学は
早く認めなければならない。


実体は科学なのだ。


点や今も、
実体が何かを理解できなかった
かつての人々が、
ただそこから始まるものとして
勝手に付けた記号である。


現代の我々の「知識の前提」は
人間によって作られている。


それは科学ではない。


身勝手な前提からは
真理は生まれない。


我々は最初から
答えのないパズルゲームに
振り回されてきただけなのだ。


ビックバンもない。


現在の数学では
点や面、体積が何か、
それ自体を理解することは出来ない。

それでは世界は
絶対に確定できない。



しかしそれを理解するのが
本当の科学である。



あなたは「実体があることなど証明はできない」
と考えるかもしれない。


けれども存在を持たない
(面積も長さの部分も持たない)
点が実体である。

実体は現実にそこにある。


そして面積を持たない線も
同じ実体である。
(面における存在は面積を持たなければならない)


さらに体積を持たない面も
実体である。
(空間における存在は体積を持つたなければならない)


そして長さの部分を持たない
今という時間も実体である。
(時間軸も長さの概念である)


つまり存在の全ては概念として
実在であり、実体なのだ。
これが現実である。


科学はその目を
見開く必要がある。
現実は正しい。




存在する全ての概念を持たないのに
確かに存在する「点」は実体である。


「存在する全ての概念を持たない」存在とは
あるのにない「存在する無の概念」である。


つまり実体は
存在するのに何処にも存在できない
宇宙の真理に位置する「存在する無」なのだ。


宇宙の始まりには何も存在しなかった。






点の連鎖する理由は
それが無の永遠の連鎖だからである。
それが点(無)の拡大する力学(完全無)である。


点(連鎖する力学)と完全無は
全く同じものである。



我々は点が実体であり、
連鎖を重ねる力学である事実を
科学として学ばなければならない。


それが現実なのだ。


「あるのにない」実体でありながら
無限大に存在を重ね、
永遠に広がり続ける「完全無」。



この世界は点である。



宇宙の起源、
「無の永遠の連鎖」が「存在する力学(完全無)」なのだ。

我々が考える存在は存在ではなく、
存在するのはただ力学のみである。


それが同じものとして
時間の流れ(現実)である。




点も、そして完全無も、
確かに「存在するもの」でありながら
その概念は(長さも面積も体積も時間も)
「存在する全ての部分」を持たない。


実体としての「存在する」は
「存在しない」と同一である。



だからこそ世界は現実に存在し、
この宇宙は全てが一瞬の幻(存在しない時間軸)として
「何も存在しない」状態なのだ。



未だに世界には何も存在しない。
宇宙の起源は続く。




この「存在しないもの」の無限大の連鎖によって
「存在する力学」は構築されていく。
世界は存在ではなく力学である。


すなわち存在は力学と等価である。



これが「全と個を同一のもの」とする
世界の根幹にある「無の物理学」である。



世界は拡大するベクトルである。


存在ではなく同じ力学。

この同じ力学が
重力であり、
本能であり、
自我、意志の力なのだ。


全ては同じ「求める力」である。


これがはじめて人類にもたらされた
大統一理論である。





この世界には何も存在しなかった。



この現実は「完全無が存在する宇宙」を意味し、
永遠に何処にもないものが
永久にあり続ける状態を指す(実体の連鎖、力学)。




つまり「存在する」という概念は、
「今という時間」が決してとどまることの出来ないように、
それ自体が力学として
実体の無限大の連鎖なのである。


存在=力学(実体の無限大の連鎖)


無(点)の内側に広がる
「全てにおいて永遠に何も存在しない」無の概念と、
その連鎖として点の外側に同じものとして存在する
「確実にそこに在り続ける」という無限大(完全無)の概念。


最初からそれは「同じひとつのもの」である。


そして点は、
この無を「自らの構成要素」として
その内側に含む(同じもの)為
宇宙に現れた最初の実体(次元世界)である。


世界はその後、
点の無限大の連鎖によって構築される。


あらゆる概念の方向へと連鎖を続け
拡大する点。


それはその全ての世界が
「完全無」であることを示す。



「存在」とはこのように
存在しない実体の永遠の連鎖である。



従って全ての世界は、
正統な理由があって
そこに存在する(存在しない)。



それが大原理が示す「存在の本質」であり、
全ての存在(同じひとつのもの)が
等価として統合される同じ理由である。



存在(概念)=力学(実体の無限大の連鎖)=無の連鎖=完全無


存在は完全無と同一の
たったひとつの同じ世界である。



それは閉じた状態と開いた状態が
同じものである
存在するひとつの宇宙の姿なのだ。



このように
「存在する無を証明すること」において、
世界が存在しないことの証明は
世界が存在することの証明である。



あらゆる概念の方向へと
無限大の連鎖をつづける無。


それ自体がそのままで「存在する点」であり
際限なく拡大をつづける完全無である。




その点の連鎖が、
実際に空間を創り出し
時間を形成し
原子を形づくり
生命として現れる。



我々はこの理解から
新しい科学を
始めなければならない。





我々人間も
同じ「モナド(実体)」である。
あるいは「存在する無(実体の力学)」として、
この世界と等価な
ひとつの同じものである。


無の連鎖が力学であり
その力学が我々人間の意志なのだ。




存在しない世界で
唯一の存在するベクトルが力学であり
それは世界の同じ意志(自我)である。



この理解なしに
人類の革新はありえない。


我々の一人ひとりが
その使命と安心感を持ち、
自立した個性として
人間であることに満足した状態で
この宇宙を同一のものとみなす。


この認識を生みだす確信が
世界が我々に示した正しさであり、
科学という知識のもたらす正規の価値である。


科学は間違ってはならない。


そして宇宙を統括するこの科学は
「全てを同一のもの」とする統一理論であり、
それがアインシュタインの繋げようとした
等価原理である。


人間には存在する理由がある。


全ての存在もそこに存在する理由を持つ。


そのために我々人間は
個性(多様性と広がり)と、
希望(重力)と、
全てを許された自由(可能性の拡大)と
その責任(原理)を持つ。





2017年12月12日火曜日

点と線 5



では次に
0以外の他の点にはどんな意味があるのか、
あるいは他の点はどんな概念を持つのか、
それを見ていきます。


まず1番に
考えてみたいのは無理数です。


無理数の代表格は円周率ですね。
これはπです。
およそ3です。
3.145926535897‥
無理数は小数点以下に
予測のつかない数字が延々と続く点です。
まさに終わりの来ない、
決してたどりつくことの出来ない点、
それが無理数です。


けれども無理数もきちんと
「そこにある点」なんですね。


たどり着けないからといって、
円周率が「存在しない」訳ではありません。
簡潔に表すことが出来ないから記号で、
もしくは数式のままで、
そこに「存在すること」を表しているだけなのです。


でも数字であらわすと、
無理数には本当にどこまで行っても
決してたどりつくことが出来ません。
というか、無理数は
絶対にたどり着くことのできない点です。
「そこに確かにあるのに、
どこまで行っても確定することのできない」点、
それが無理数です。
だから「存在する円周率」は
記号で表記するしかないのです。


ここで大事なことは
円周率に代表される無理数は
「存在しない」訳ではないということです。
単に数字で表記出来ないだけであり
ちゃんとそこに「存在する点」だという認識です。


この「存在する点」を理解するために
今度は循環小数を考えてみましょう。


0.333…と小数点以下に
同じ数字がエンドレスに続く点、循環小数。
循環小数も
確かにそこにあるのに
「少数点以下の表記」では
やっぱりたどりつくことは出来ません。
けれどもこの循環小数は
1/3と分数表記にすると正確に確定することが出来ます。
これは3倍すると1となる数字で
キチンと安定してますよね。


0.333…と1/3は「同じ点」です。


このように少数表記では
決してたどり着けない点「循環小数」も、
分数表記でならちゃんと確定する事ができました。
これは循環小数も
円周率と同じように、
たしかにそこにある「存在する点」だからです。


しかし、どこまで行っても続く
「終わらない一つの数字」が、
確定された状態で「存在する」とは
一体どう言うことなのでしょうか?


1/3と確定できる点と
0.333…と表記しきれない点が、
同じ点である、とは、
一体どういう理屈なのでしょうか?
片方では確かに存在する点が、
基準を変えることによって存在出来ない点になる、
ということですかね?
いやいや、どちらも同じ点であり、
それは存在する点ではあるけれど、
数列が対応できてないだけでしょうか?


そこでいま一度、
我々が最も安心して確定することの出来る点、
「普通の整数(自然数)」の性質を確認しておきましょう。


数列上のいたるところに均等に配置され
確かに存在する信頼できる点、
それが普通の整数(ここでは自然数のこと)です。
あるのかないのかわからない前者たち
終わりの見えない無理数などと比べると、
ややこしくもなく、潔ぎのよい普通の数字です。


わたし達も
整数はどこにありますか?と聞かれても
ここです!と
自信を持って示せることでしょう。


えっ、どこですか?
あなたの指の先に!?


よくわかりません!


よくわからないのでその点を
1000倍ほどの大きさに拡大してみるとしましょう。
先ほどあなたが示した小さな点は、
結構大きな円であったことがわかります。


これは点ではありません。
おそらくその拡大された黒丸の中心に、
点の本体はあるのでしょう。


ではその円の中心をもっともっと、ずっと、
出来る限り拡大してみましょう。
「整数の場所」にあった確かな点は、
果たしてその中にもありますか?


いえ、何度くりかえしても、
幾らくりかえして見ても、
点の本体は見えて来ません。


1.0000…
2.0000…
3.0000…


つまりわたし達が
確かに存在すると思っていた普通の整数も、
実は決してたどりつくことの出来ない、
「循環小数の仲間」だったのです。


「確かに存在するのに、
何処にも見つからない点」


決して言葉のあやなどではありません。
全ての点が探せないことが事実です。


円周率が記号で表わすことしか出来ない点だったように、
あるいは分数で表せる点がエンドレスな循環小数だったように、
実は全ての整数も
記号で表わすことしか出来ない点だったのです。
例えば、1や2や3といった「記号」でしか‥


「確かに存在するのに
何処にも存在しない点」


それが数列上の「全ての点」に与えられた
本来の性質です。


それは例え
わたし達に何と名付けられようと、
変わることのない「事実」として存在します。


無理数や循環小数だけが特別な「存在しない点」
ではなかったのです。
整数を含む全ての点が
決して確定することのできない
「存在するのに存在しない点」です。


円周率は何処にあるのか?


終わりのない数字に向けられてきた
わたし達の疑問は、
本来は全ての数字、あらゆる点へと
向けられるべきものだったのです。




点と線 4



0を使うことによって
先に導かれてしまう結論。


マイナスの世界がある!
という概念は、
計算の結果ではなく
実は0を使用した時点で
「最初から決められている」
約束事です。


全ての数字の合計値は0!
これも0を起点とする数列によって生まれた
前提としての決まり事(哲学)です。


本来数列ではないものの「全て」に
0を使っても、
本当に良かったのでしょうか。


マイナス2個のリンゴが
「足りないことを表す表現」ならまだ良いでしょう。
しかし2個のマイナス属性のリンゴが現実に存在する、
などという解釈になれば
目も当てることはできません。



けれどもまず
最初に理解して頂きたいことは
「ないものが存在する点」が0です。
0の概念の正体は
「ないものがある」
これで正解です。



このようにあまりにも特別過ぎる点0は、
明らかに他の点とは違います。
しかし0は
この宇宙に最初から存在した起点などではなく、
後付けにその意味を考え出された道具であることを
覚えておいて下さい。


それは真理を発掘した結果
発見されたものでもなく、
どこにでも存在する「何かの模造品」であることも
すぐに証明します。