「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2018年6月13日水曜日
その科学、本当に信用できますか?(モナドの声を聞く23)
身勝手な前提から
始まる科学はない。
これは点です。と記憶するよりも、
「点が面積を持たない」その理由を知ることが
科学の本当の視点である。
点の内側には無限大の奥行きがある。
それは点に「存在の概念」がないからだ。
点には体積や面積、長さ
それらのあらゆる概念(存在の部分)がない。
あるのにない、という
点は無限大と等しい実体である。
世界はたったひとつの同じものである。
これが大統一理論である。
それは存在でありながら存在しない、
異なる同一のモナド、つまり実体である。
「点」や「今」など、現実に世界は
この「実体」によって構築されている。
それを我々の科学は
早く認めなければならない。
実体は科学なのだ。
点や今も、
実体が何かを理解できなかった
かつての人々が、
ただそこから始まるものとして
勝手に付けた記号である。
現代の我々の「知識の前提」は
人間によって作られている。
それは科学ではない。
身勝手な前提からは
真理は生まれない。
我々は最初から
答えのないパズルゲームに
振り回されてきただけなのだ。
ビックバンもない。
現在の数学では
点や面、体積が何か、
それ自体を理解することは出来ない。
それでは世界は
絶対に確定できない。
しかしそれを理解するのが
本当の科学である。
あなたは「実体があることなど証明はできない」
と考えるかもしれない。
けれども存在を持たない
(面積も長さの部分も持たない)
点が実体である。
実体は現実にそこにある。
そして面積を持たない線も
同じ実体である。
(面における存在は面積を持たなければならない)
さらに体積を持たない面も
実体である。
(空間における存在は体積を持つたなければならない)
そして長さの部分を持たない
今という時間も実体である。
(時間軸も長さの概念である)
つまり存在の全ては概念として
実在であり、実体なのだ。
これが現実である。
科学はその目を
見開く必要がある。
現実は正しい。
存在する全ての概念を持たないのに
確かに存在する「点」は実体である。
「存在する全ての概念を持たない」存在とは
あるのにない「存在する無の概念」である。
つまり実体は
存在するのに何処にも存在できない
宇宙の真理に位置する「存在する無」なのだ。
宇宙の始まりには何も存在しなかった。
点の連鎖する理由は
それが無の永遠の連鎖だからである。
それが点(無)の拡大する力学(完全無)である。
点(連鎖する力学)と完全無は
全く同じものである。
我々は点が実体であり、
連鎖を重ねる力学である事実を
科学として学ばなければならない。
それが現実なのだ。
「あるのにない」実体でありながら
無限大に存在を重ね、
永遠に広がり続ける「完全無」。
この世界は点である。
宇宙の起源、
「無の永遠の連鎖」が「存在する力学(完全無)」なのだ。
我々が考える存在は存在ではなく、
存在するのはただ力学のみである。
それが同じものとして
時間の流れ(現実)である。
点も、そして完全無も、
確かに「存在するもの」でありながら
その概念は(長さも面積も体積も時間も)
「存在する全ての部分」を持たない。
実体としての「存在する」は
「存在しない」と同一である。
だからこそ世界は現実に存在し、
この宇宙は全てが一瞬の幻(存在しない時間軸)として
「何も存在しない」状態なのだ。
未だに世界には何も存在しない。
宇宙の起源は続く。
この「存在しないもの」の無限大の連鎖によって
「存在する力学」は構築されていく。
世界は存在ではなく力学である。
すなわち存在は力学と等価である。
これが「全と個を同一のもの」とする
世界の根幹にある「無の物理学」である。
世界は拡大するベクトルである。
存在ではなく同じ力学。
この同じ力学が
重力であり、
本能であり、
自我、意志の力なのだ。
全ては同じ「求める力」である。
これがはじめて人類にもたらされた
大統一理論である。
この世界には何も存在しなかった。
この現実は「完全無が存在する宇宙」を意味し、
永遠に何処にもないものが
永久にあり続ける状態を指す(実体の連鎖、力学)。
つまり「存在する」という概念は、
「今という時間」が決してとどまることの出来ないように、
それ自体が力学として
実体の無限大の連鎖なのである。
存在=力学(実体の無限大の連鎖)
無(点)の内側に広がる
「全てにおいて永遠に何も存在しない」無の概念と、
その連鎖として点の外側に同じものとして存在する
「確実にそこに在り続ける」という無限大(完全無)の概念。
最初からそれは「同じひとつのもの」である。
そして点は、
この無を「自らの構成要素」として
その内側に含む(同じもの)為
宇宙に現れた最初の実体(次元世界)である。
世界はその後、
点の無限大の連鎖によって構築される。
あらゆる概念の方向へと連鎖を続け
拡大する点。
それはその全ての世界が
「完全無」であることを示す。
「存在」とはこのように
存在しない実体の永遠の連鎖である。
従って全ての世界は、
正統な理由があって
そこに存在する(存在しない)。
それが大原理が示す「存在の本質」であり、
全ての存在(同じひとつのもの)が
等価として統合される同じ理由である。
存在(概念)=力学(実体の無限大の連鎖)=無の連鎖=完全無
存在は完全無と同一の
たったひとつの同じ世界である。
それは閉じた状態と開いた状態が
同じものである
存在するひとつの宇宙の姿なのだ。
このように
「存在する無を証明すること」において、
世界が存在しないことの証明は
世界が存在することの証明である。
あらゆる概念の方向へと
無限大の連鎖をつづける無。
それ自体がそのままで「存在する点」であり
際限なく拡大をつづける完全無である。
その点の連鎖が、
実際に空間を創り出し
時間を形成し
原子を形づくり
生命として現れる。
我々はこの理解から
新しい科学を
始めなければならない。
我々人間も
同じ「モナド(実体)」である。
あるいは「存在する無(実体の力学)」として、
この世界と等価な
ひとつの同じものである。
無の連鎖が力学であり
その力学が我々人間の意志なのだ。
存在しない世界で
唯一の存在するベクトルが力学であり
それは世界の同じ意志(自我)である。
この理解なしに
人類の革新はありえない。
我々の一人ひとりが
その使命と安心感を持ち、
自立した個性として
人間であることに満足した状態で
この宇宙を同一のものとみなす。
この認識を生みだす確信が
世界が我々に示した正しさであり、
科学という知識のもたらす正規の価値である。
科学は間違ってはならない。
そして宇宙を統括するこの科学は
「全てを同一のもの」とする統一理論であり、
それがアインシュタインの繋げようとした
等価原理である。
人間には存在する理由がある。
全ての存在もそこに存在する理由を持つ。
そのために我々人間は
個性(多様性と広がり)と、
希望(重力)と、
全てを許された自由(可能性の拡大)と
その責任(原理)を持つ。
2017年12月12日火曜日
点と線 5
では次に
0以外の他の点にはどんな意味があるのか、
あるいは他の点はどんな概念を持つのか、
それを見ていきます。
まず1番に
考えてみたいのは無理数です。
無理数の代表格は円周率ですね。
これはπです。
およそ3です。
3.145926535897‥
無理数は小数点以下に
予測のつかない数字が延々と続く点です。
まさに終わりの来ない、
決してたどりつくことの出来ない点、
それが無理数です。
けれども無理数もきちんと
「そこにある点」なんですね。
たどり着けないからといって、
円周率が「存在しない」訳ではありません。
簡潔に表すことが出来ないから記号で、
もしくは数式のままで、
そこに「存在すること」を表しているだけなのです。
でも数字であらわすと、
無理数には本当にどこまで行っても
決してたどりつくことが出来ません。
というか、無理数は
絶対にたどり着くことのできない点です。
「そこに確かにあるのに、
どこまで行っても確定することのできない」点、
それが無理数です。
だから「存在する円周率」は
記号で表記するしかないのです。
ここで大事なことは
円周率に代表される無理数は
「存在しない」訳ではないということです。
単に数字で表記出来ないだけであり
ちゃんとそこに「存在する点」だという認識です。
この「存在する点」を理解するために
今度は循環小数を考えてみましょう。
0.333…と小数点以下に
同じ数字がエンドレスに続く点、循環小数。
循環小数も
確かにそこにあるのに
「少数点以下の表記」では
やっぱりたどりつくことは出来ません。
けれどもこの循環小数は
1/3と分数表記にすると正確に確定することが出来ます。
これは3倍すると1となる数字で
キチンと安定してますよね。
0.333…と1/3は「同じ点」です。
このように少数表記では
決してたどり着けない点「循環小数」も、
分数表記でならちゃんと確定する事ができました。
これは循環小数も
円周率と同じように、
たしかにそこにある「存在する点」だからです。
しかし、どこまで行っても続く
「終わらない一つの数字」が、
確定された状態で「存在する」とは
一体どう言うことなのでしょうか?
1/3と確定できる点と
0.333…と表記しきれない点が、
同じ点である、とは、
一体どういう理屈なのでしょうか?
片方では確かに存在する点が、
基準を変えることによって存在出来ない点になる、
ということですかね?
いやいや、どちらも同じ点であり、
それは存在する点ではあるけれど、
数列が対応できてないだけでしょうか?
そこでいま一度、
我々が最も安心して確定することの出来る点、
「普通の整数(自然数)」の性質を確認しておきましょう。
数列上のいたるところに均等に配置され
確かに存在する信頼できる点、
それが普通の整数(ここでは自然数のこと)です。
あるのかないのかわからない前者たち
終わりの見えない無理数などと比べると、
ややこしくもなく、潔ぎのよい普通の数字です。
わたし達も
整数はどこにありますか?と聞かれても
ここです!と
自信を持って示せることでしょう。
えっ、どこですか?
あなたの指の先に!?
よくわかりません!
よくわからないのでその点を
1000倍ほどの大きさに拡大してみるとしましょう。
先ほどあなたが示した小さな点は、
結構大きな円であったことがわかります。
これは点ではありません。
おそらくその拡大された黒丸の中心に、
点の本体はあるのでしょう。
ではその円の中心をもっともっと、ずっと、
出来る限り拡大してみましょう。
「整数の場所」にあった確かな点は、
果たしてその中にもありますか?
いえ、何度くりかえしても、
幾らくりかえして見ても、
点の本体は見えて来ません。
1.0000…
2.0000…
3.0000…
つまりわたし達が
確かに存在すると思っていた普通の整数も、
実は決してたどりつくことの出来ない、
「循環小数の仲間」だったのです。
「確かに存在するのに、
何処にも見つからない点」
決して言葉のあやなどではありません。
全ての点が探せないことが事実です。
円周率が記号で表わすことしか出来ない点だったように、
あるいは分数で表せる点がエンドレスな循環小数だったように、
実は全ての整数も
記号で表わすことしか出来ない点だったのです。
例えば、1や2や3といった「記号」でしか‥
「確かに存在するのに
何処にも存在しない点」
それが数列上の「全ての点」に与えられた
本来の性質です。
それは例え
わたし達に何と名付けられようと、
変わることのない「事実」として存在します。
無理数や循環小数だけが特別な「存在しない点」
ではなかったのです。
整数を含む全ての点が
決して確定することのできない
「存在するのに存在しない点」です。
円周率は何処にあるのか?
終わりのない数字に向けられてきた
わたし達の疑問は、
本来は全ての数字、あらゆる点へと
向けられるべきものだったのです。
点と線 4
0を使うことによって
先に導かれてしまう結論。
マイナスの世界がある!
という概念は、
計算の結果ではなく
実は0を使用した時点で
「最初から決められている」
約束事です。
全ての数字の合計値は0!
これも0を起点とする数列によって生まれた
前提としての決まり事(哲学)です。
本来数列ではないものの「全て」に
0を使っても、
本当に良かったのでしょうか。
マイナス2個のリンゴが
「足りないことを表す表現」ならまだ良いでしょう。
しかし2個のマイナス属性のリンゴが現実に存在する、
などという解釈になれば
目も当てることはできません。
けれどもまず
最初に理解して頂きたいことは
「ないものが存在する点」が0です。
0の概念の正体は
「ないものがある」
これで正解です。
このようにあまりにも特別過ぎる点0は、
明らかに他の点とは違います。
しかし0は
この宇宙に最初から存在した起点などではなく、
後付けにその意味を考え出された道具であることを
覚えておいて下さい。
それは真理を発掘した結果
発見されたものでもなく、
どこにでも存在する「何かの模造品」であることも
すぐに証明します。
2017年12月11日月曜日
点と線 3
では数字の0に
話を戻しましょう。
0は最も特別な点であり、
科学と同じ距離に哲学的な意味も漂う
不思議な数字です。
まずはこの「0という数字」の持つ意味から
探っていきたいと思います。
0は「あるのか、ないのか」と
よく疑問視されています。
けれども0を置くことによって
数列全体を始めることも出来る、
全てのものの基準点が0です。
0を境に正反対の異なる世界が表記されます。
正にあらゆる数字の中庸にあり、
世界のど真ん中に位置する点が0です。
「数列が存在する」こと自体が0に由来し、
0は全ての点の支配者ともいうべき
圧倒的な概念を持ちます。
全ての始まりが0なのです。
「0を置くこと」自体に、
基準を決める人間の意志が反映されています。
では0は、
どこに定めることが正しいのでしょうか。
ただこの「0に付けられた意味」、
つまり「0はあるのか、ないのか」議論には
けっこう簡単に結論が出せます。
0の概念は「ないものがある」で正解です。
何故なら0を置かなければ「全てがない」からです。
「0がある」ということは
数列もある、ということです。
そして「0という言葉」自体は
「あるのにないもの」ですよね。
まあ、これらのレトリックには
特に重要な意味はありません。
しかしこの0は、くせものです。
0は「あれば便利だから」という理由で
人間が勝手に創り出しました。
そして0は、
数学的には大変役に立ちます。
けれどもその圧倒的な支配力は、
0を使用した途端に
世界を半分に折り曲げて、
正負の概念を強制的に作り上げてしまうほどの
強烈なものです。
数字の0は道具ですよ?
昔の頭の良いインドの方が考え出しただけの人工物です。
しかし数列に0を置くだけで
既にその世界観だけで、
数列世界全体に先に
同じ結論を与えてしまうのです。
では0は、
一体どこにあるべきものだったのでしょうか?
2017年12月10日日曜日
点と線 2
例えばこれから
数字の0についてのお話をします。
0は特別な点として用いられ、
数列の基準ともなる特別な数字です。
しかしこれさえも人間の発明品であり、
「数字や数列」と、「点と線」の概念は、
重なりさえすれ
それは決して同じものではありません。
まずその事実を確認するために
この特別な点である0と、
その他の点との違い、
例えば無理数や他の整数などとの違いを
調べていきましょう。
そこに数列に隠された真実があります。
それが点と線の持つ「本来の自然科学」です。
では本題に入る前に
そのことについて少し語らせて下さい。
わたし達の先祖の数学者達は
「点が何かを知らなかった」ために、
点にその呼び名となる記号を与えました。
それ以来わたし達は
やはり「点が何か」を考える前に
「存在する記号」として
数列を理解するようになりました。
わたし達のおかした大きな間違いは、
点に記号を与え
「存在するもの」
として理解したことです。
「前提のある科学」は
最後まで前提を残したままになります。
「0は無いもので、点は存在する」
その前提に疑問を感じることもなく
そこから始めることによって、
わたし達人間は
大きな弊害を(もちろん利益もですが)受け取ってきました。
これは「この世界は神様がつくった」と、
そこから始まる疑似科学と
何ら変わることがありません。
その事実を理解できた時、
道具としての数列の問題点も
数字を科学の基盤として活用することの課題も、
おのずから分かってくることでしょう。
正しい理解がなく、
わたし達がただ「それが正しいから」と
覚えこんできただけの知識に、
きっと驚かれるに違いありません。
だって誰も本当のことを知らずに、
これまではただ勝手につじつまを
合わせてきただけのことだったのですから。
結論から申しますと、
わたし達の科学は
まだ始まっていません。
「本当の科学」を始めるためには、
わたし達には
正しい知識が必要です。
これはそれを理解するための学習です。
2017年12月8日金曜日
点と線 1
わたし達の科学は
人間が点と線とを覚えて
それを利用し始めてから、
大きく進歩しました。
それは人間が
数字を活用する技術
「数学」の誕生です。
わたし達はこの数列の上を
行ったり来たりしながら、
公式を見つけ出したり、
解を探したり
まさに正しさの基準として
数学を利用して来ました。
線は無数の点のつながりであること、
点は二本の直線の交わった一点であること、
線はその長さによって範囲を表すことができることなど、
点と線の運用は
わたし達の科学の出発点にあります。
そんな数学の基本でありながら、
数列と公式によって
わたし達の世界の全てが理解できると、
ほとんどの物理学者達は考えています。
それは正しくもあり、
けれども大きな間違いです。
点と線の概念は確かにあります。
そしてそれを活用することは
決して間違ったことではありません。
けれども我々が数学で利用する数字や数列は、
計算の前提として作り出された「道具」であり、
これは0という数字にしても同じことです。
わたし達には科学に対する信頼として、
数学が知識の前提になるという認識や、
その理解があります。
しかし数字や数列は、
人間の文化や歴史としての側面も色濃く、
それは理論的な哲学のひとつに
過ぎないということを
わたし達はまず理解しなければなりません。
つまり普遍の真理を表すと
考えられている方程式でさえ、
その根底には人間の考え方や捉え方といった
思い込みが先立っているのです。
2017年7月21日金曜日
ライプニッツのモナドについて
ライプニッツは17世紀ドイツの哲学者であり、
微分積分方を発明した数学者でもあるなど
後世に数多くの業績を残した万能の科学者です。
彼の単子論(モナドロジー)によると
世界はモナドという単子によって構成されており、
その中には我々人間のココロの部分も
含まれることになります。
世界と人間のあり方、その捉え方の提唱として
モナドは現在、哲学として有名ですが、
実際の彼は数学的見地による科学として
「モナド理論」を導き出しました。
一般的にモナドの概念は、
「全体を構築する、けれども全体の部分を持たない最小の単子である」
と理解されています。
それは素粒子のように小さな形状を持つ「もの」ではなく、
数式による0へと限りなく近付く値(無限小)として
理解して頂いた方が
より正しい認識でしょう。
このあたりの発想は、さすが微積の創始者
といったところです。
さて、これ以上の細分化ができない最小値であるからこそ
「モナドにはあらゆるものの部分がない」
とされています。
更にモナドは、それ自体で力学であるとも言われ、
これもモナドを数式として捉えると(常に最小へと向かう値)
十分に納得の出来る結末です。
ライプニッツは力学の結晶であるモナドを
世界の中心へと置くことによって、
この世界の正しい形を描こうとしました。
つまり彼が目指したのは大統一理論であり、
世界の存在証明、
あるいは神の存在証明だったのです。
ではこのブログの話に戻ります。
これまで当方のブログでは
この「モナドの正体」と向き合って参りました。
モナドの概念が
点の概念と同一のものであること、
更にその概念(実体)の根源には
宇宙に存在を続ける「無」があること、
その同一性と等価性を
私は主張します。
そう考えることによって
「存在する全てのもの」の本質が
明らかになるからです。
我々の宇宙には正解があり、
いえ、正しいからこそ
今ここに宇宙は存在します。
我々の未来の世界では、
哲学ではなく科学として
「存在するものでありながら、存在しないモナド」を
理解していく必要があります。
何故ならモナドによる「世界の存在証明」は、
そのままで「人間の存在証明」、つまり
「人間がそれによってこの世界で自立する為の知識」
と成り得るからです。
ライプニッツ自身の目指したように
モナドは科学として
我々に理解されなければなりません。
ではこの「モナドによる世界の存在証明」を
少しまとめておきます。
体積も面積も時間や空間も
その一切の部分を持たないのに
確かに「存在する概念」がモナドです。
このモナドの「何かの部分を持たない性質」とは、
例えば
「モナドには体積(の部分)がない、
面積(の部分)がない、
長さがない、
時間としての長さの概念がない」
という意味になります。
従って「存在する全ての部分を持たないモナド」は、
それだけで「存在する無」と同じものです。
(「無が持つもの」は、
全く何も存在しないものが「存在する」という概念です。
そして「全く何も存在しない」とは
「全ての部分を持たない」ということです。)
これが「実体」とよばれる世界の起点です。
そして「存在しないものが存在する」
この世界の原因となるのです。
全てを持たないのに
確かに存在する概念「実体」、
これがモナドです。
つまり
「この世界には何も存在しなかった」
という存在する「無の概念」は、
そのままで存在を持たない確かな実体(モナド)であり、
それが存在する「「点の概念」」なのです。
この為に「点の概念」には、
その集合体としての「線の部分」である
「長さ」がありません。
では「点にあるもの」とは
一体何でしょうか。
点に長さはなく、
面積も体積も時間も
存在する全ての「部分はありません」。
つまり点は「存在するもの」ではないのです。
それは
「存在しないのに確かにそこに存在する」
実体です。
これが「モナド」です。
そしてこれこそが
「「存在する無」」と同じものなのです。
点は小さな円ではありません。
点には「面積を含めた全ての部分がない」からです。
いくら拡大しても点は永久に点でありつづけ
そこに本体が現れない理由、
それが点と「存在する無」は同じものだからです。
「あるのにない、ないのにある」
その外側にある概念と内側にある概念が
正反対の「存在と非存在」でありながら、
同一のひとつのものとして確定された状態。
点の概念の外側には「存在する」が、
点の概念の内側には「存在しない」が、
「同じものとして」共有されているのです。
無を外側から見ればそれは「確かに存在する」ものであり、
無の内側には「完全に何も存在しない世界」があります。
これがひとつの同じ「存在する無」です。
このように「無と点」は同じ実体として、
ひとつの同一の「モナド」です。
つまり「存在する点」に与えられた唯一の原因は、
「存在しないのに確かに存在する」という
「無の概念」なのです。
この事実から始まらなければなりません。
「点の存在理由」についての理解は
物理学や数学の知識に先立ちます。
それを知らずに、
ただ数式だけに解答を求めてはいけないのです。
全ての点がモナドです。
0や無理数だけが「存在しない点」ではありません。
有理数および全ての整数、存在する全ての点が
確定された場所を持たない「存在しない点」なのです。
いくら拡大しても点が「実体以外の存在」を持たない理由、
それは点が「存在するモナド」だからです。
そして点の集合体である線にも「面積はなく(面積の部分を持たない)」、
線の集合体である面にも「体積はなく(体積の部分を持たない」、
全ての存在は「全体の部分を持たない同じモナド(実体)」として
この世界を確定させていきます。
あなたの存在がその想いにあるのならば、
その想いに「命はありますか」。
あなたの存在がその命にあるのならば、
その命は「物質(あるいは精神)にその部分を持ちますか」。
どの部分が、我々人間であるのか、
「存在しないのに確かに存在する」わたしも実体です。
部分を持たないということは、
言いかえれば
モナドであれば全てが同一である、
ということです。
ひとつの同じものであるモナド。
我々はこの世界を正しく
理解しなければなりません。
無=実体=モナド=点=線=‥
我々人間が最初に
その「存在しないこと」を認識出来る
「存在するもの」は、
それが「点」というはじまりの実体です。
この点と等価なものとして
「今という時間」も同じ
「あるのにない、ないのにある」実体です。
我々の世界では、点の概念の延長線上に
空間や時間も「同じもの」として
存在するのです(第5章 時間と空間)。
「あるのにない、ないのにある」
その確定した不確定に、
誰もが一度は
疑問を抱いたことがあるはずです。
何故そんなことが起きるのか、
全ての疑問の根底に
「存在する無」があったのです。
0という概念も人間の発明品です。
真実は全ての点が
「あるのにない」実体だということなのです。
我々が理解しなければならないのは
「存在しない実体が世界を構築する」その理由です。
このように我々の宇宙、そして我々も、
全てをモナドとして、あるいはモナドの集合体として
存在します。
そしてモナドが無と「同じもの」であるのならば、
この世界は未だに「永遠の無と等しい」と
解答することが出来るのです。
これが世界の「事実」です。
無は「存在する」という概念を
永久に持ちつづけます。
その結果世界には
「存在しないものが存在します」。
「未だ世界の根源に存在する無」
「存在を生み出す存在のない実体」
「全ての世界を構築する、
世界の部分を持たないモナド」
そうです。
「存在しないのに存在するもの」が
この世界であり、我々人間なのです。
世界の本当の始まりは「点」です。
点は実体であり、
モナドであり、
無と等価なものです。
この認識から本当の知識、
科学は始まります。
これはもう本当に単純なことですので
是非皆さんにも理解して頂きたいのですが、
宇宙が生まれた理由がひとつしかなければ
世界にも原理はひとつしか存在しません。
この世界は純粋です。
「世界には何も存在しなかった」
この現実から宇宙が出発すれば、
世界の全ては未だに「完全無」(存在する無)です。
この「完全無」がモナドであり、
実体であり、
あらゆるものを構築する点であり、
全ての我々です。
そこに「全てが同じもの」として
等価原理が成り立つのです。
これが大統一理論(超統一理論)であり、
「世界が存在するただひとつの理由」です。
等価として繋がる、
全てが異なる「同じもの」。
それは存在を続ける無、モナドです。
この世界が永久に無であり続ける理由、
そして無の真実の姿が
宇宙で唯一の「存在するもの」である理解。
逆に言えば
存在するものの全てが「存在する無」です。
だからこそ世界の時間は
「今という瞬間」の中に収束されて、
この「今」という時間は
「どこにも存在することのない時間」となるのです。
全てが実体(モナド)です。
宇宙も我々人間も「同じ力学」です。
そしてそれは「あらゆるものの同じ願い」として
ひとつの概念なのです。
ところが現代物理学では
宇宙の存在する理由は4つもあり、
時間や空間はそれとはまた別のものとして
考えなければなりません。
その結果、まだ見つかっていないものを
宇宙の9割以上の質量、
エネルギーとして必要とします(まだ見つかっていませんよ!)。
それにも関わらず「無から生まれた」から
無理やりに宇宙を創造する。
これはもう単純におかしいですよね。
そろそろ次の段階に進みましょう。
ビックバン理論はその科学的役割を
終えました。
宇宙に未だ多くの謎が残されたままなのは、
明確な理論の登場によって統合されて、
我々が答え合わせを行える為なのです。
宇宙は拡大を続ける点です。
この点は「無と同じもの」だから
永久に存在を続け、あらゆるものとして存在します。
「点」が拡大して「線と同じもの」である理由、
それも
「全にして個、個にして全」
というモナドの力学です。
これは
「存在する無(個)の概念」と
「完全無という世界の概念(全)」が
「同じもの」であることに由来します。
「「無が存在すれば(個)、この世界は完全無(全)である」」
この「個と全がひとつの同じもの」であるという事実、
それがこの世界にある、もうひとつの秘密です。
これが「存在が力学と等しい」その始まりの原因であり、
異なる概念の間に等価原理が成り立つ理由です。
従って大統一理論は
「無が存在する」のであれば(原因)
世界の全ては無である(完全無・結果)
という単純な理論です。
この理解から
存在する点(個)と線という世界(全)が
同じものだとする、
物理学の新しい理論が誕生します。
全にして個、個にして全であること、
全てを持たない存在が全てのものを持つこと。
これがモナド理論です。
宗教家たちはそこに生まれる真理だけを求めて
世界に対する理解を深めてきました。
それは未熟な科学には、
まだ開くことのできない扉だったのです。
けれども「全ては物理学」です。
このように世界の存在の全てには
「存在する正しい理由」があります。
そしてこの「同じもの」であることが
アインシュタインの発見した等価原理であり、
質量がエネルギーと等価である
その理由なのです。
我々の宇宙では、
存在する全てのものは等価であり、
無の集合体として成り立ちます。
これがモナドの本質であり、
モナドが力学として理解されたその所以です。
このようにモナドは「何かの考え方」というような
哲学や宗教などではありません。
今という「個の(時間の)モナド」が
「全のモナド」として
時間軸と同じものであること、
これも科学です。
このように全ての事象を理解することを
我々は諦めてはなりません。
存在の全てには答えがあります。
世界が「ただひとつの無から生まれた」のであれば、
本当の科学もひとつです。
原理(理由)がひとつであれば
世界もひとつです。
その事実が理解できたとき、
物質が持つ重力も
生命がもつ本能も
我々人間が持つ希望も
同じ原理から生まれた同じ構造を持つ
同じ力学であることが
わかります。
人間が広大な宇宙と同じ(等価な)存在であること、
「宇宙の力学」が我々人間の創り出す希望と同じであること、
その確かな認識が
我々を正しい方向へと導きます。
この理解を学問として成立させることが
現時点で科学のもつ、最大の可能性です。
ここに宗教では成し得ない、
全ての人間に対する正しい理解が
生まれることでしょう。
モナドは科学です。
等価原理はひとつのものとして
全ての存在をつなぎ、
窓のない世界を証明します。
物理学者の皆さん、
哲学者の皆さん、
生物学者の皆さん、
数学者の皆さん、
全ての学問の同胞たち、
そして未来で手を取りあうはずの全ての仲間たちへ、
本当の科学はひとつです。
そうですよね。
現代科学は間違っています。
我々が細分化されたのは
各々が個々にその優劣を競いあう為だけではありません。
そのそれぞれの瞳で
ひとつのことを見つめる為だったのです。
大統一理論を完成させることは
人類共通の悲願であり、
人間の躍進、
そして我々の共同の仕事です。
今こそ共に進みませんか!
全ての我々が
あなたの(わたしの)異なる視点です。
ありがとうございました。
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