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2017年7月21日金曜日

ライプニッツのモナドについて



ライプニッツは17世紀ドイツの哲学者であり、
微分積分方を発明した数学者でもあるなど
後世に数多くの業績を残した万能の科学者です。


彼の単子論(モナドロジー)によると
世界はモナドという単子によって構成されており、
その中には我々人間のココロの部分も
含まれることになります。


世界と人間のあり方、その捉え方の提唱として
モナドは現在、哲学として有名ですが、
実際の彼は数学的見地による科学として
「モナド理論」を導き出しました。


一般的にモナドの概念は、
「全体を構築する、けれども全体の部分を持たない最小の単子である」
と理解されています。


それは素粒子のように小さな形状を持つ「もの」ではなく、
数式による0へと限りなく近付く値(無限小)として
理解して頂いた方が
より正しい認識でしょう。


このあたりの発想は、さすが微積の創始者
といったところです。


さて、これ以上の細分化ができない最小値であるからこそ
「モナドにはあらゆるものの部分がない」
とされています。


更にモナドは、それ自体で力学であるとも言われ、
これもモナドを数式として捉えると(常に最小へと向かう値)
十分に納得の出来る結末です。


ライプニッツは力学の結晶であるモナドを
世界の中心へと置くことによって、
この世界の正しい形を描こうとしました。


つまり彼が目指したのは大統一理論であり、
世界の存在証明、
あるいは神の存在証明だったのです。




ではこのブログの話に戻ります。

これまで当方のブログでは
この「モナドの正体」と向き合って参りました。


モナドの概念が
点の概念と同一のものであること、
更にその概念(実体)の根源には
宇宙に存在を続ける「無」があること、
その同一性と等価性を
私は主張します。


そう考えることによって
「存在する全てのもの」の本質が
明らかになるからです。


我々の宇宙には正解があり、
いえ、正しいからこそ
今ここに宇宙は存在します。


我々の未来の世界では、
哲学ではなく科学として
「存在するものでありながら、存在しないモナド」を
理解していく必要があります。


何故ならモナドによる「世界の存在証明」は、
そのままで「人間の存在証明」、つまり
「人間がそれによってこの世界で自立する為の知識」
と成り得るからです。


ライプニッツ自身の目指したように
モナドは科学として
我々に理解されなければなりません。



ではこの「モナドによる世界の存在証明」を
少しまとめておきます。


体積も面積も時間や空間も
その一切の部分を持たないのに
確かに「存在する概念」がモナドです。


このモナドの「何かの部分を持たない性質」とは、
例えば
「モナドには体積(の部分)がない、
面積(の部分)がない、
長さがない、
時間としての長さの概念がない」
という意味になります。


従って「存在する全ての部分を持たないモナド」は、
それだけで「存在する無」と同じものです。

(「無が持つもの」は、
全く何も存在しないものが「存在する」という概念です。
そして「全く何も存在しない」とは
「全ての部分を持たない」ということです。)


これが「実体」とよばれる世界の起点です。


そして「存在しないものが存在する」
この世界の原因となるのです。


全てを持たないのに
確かに存在する概念「実体」、
これがモナドです。



つまり
「この世界には何も存在しなかった」
という存在する「無の概念」は、
そのままで存在を持たない確かな実体(モナド)であり、
それが存在する「「点の概念」」なのです。


この為に「点の概念」には、
その集合体としての「線の部分」である
「長さ」がありません。

では「点にあるもの」とは
一体何でしょうか。


点に長さはなく、
面積も体積も時間も
存在する全ての「部分はありません」。

つまり点は「存在するもの」ではないのです。


それは
「存在しないのに確かにそこに存在する」
実体です。


これが「モナド」です。


そしてこれこそが
「「存在する無」」と同じものなのです。



点は小さな円ではありません。
点には「面積を含めた全ての部分がない」からです。


いくら拡大しても点は永久に点でありつづけ
そこに本体が現れない理由、
それが点と「存在する無」は同じものだからです。

「あるのにない、ないのにある」

その外側にある概念と内側にある概念が
正反対の「存在と非存在」でありながら、
同一のひとつのものとして確定された状態。


点の概念の外側には「存在する」が、
点の概念の内側には「存在しない」が、
「同じものとして」共有されているのです。


無を外側から見ればそれは「確かに存在する」ものであり、
無の内側には「完全に何も存在しない世界」があります。
これがひとつの同じ「存在する無」です。


このように「無と点」は同じ実体として、
ひとつの同一の「モナド」です。


つまり「存在する点」に与えられた唯一の原因は、
「存在しないのに確かに存在する」という
「無の概念」なのです。


この事実から始まらなければなりません。


「点の存在理由」についての理解は
物理学や数学の知識に先立ちます。
それを知らずに、
ただ数式だけに解答を求めてはいけないのです。


全ての点がモナドです。
0や無理数だけが「存在しない点」ではありません。
有理数および全ての整数、存在する全ての点が
確定された場所を持たない「存在しない点」なのです。


いくら拡大しても点が「実体以外の存在」を持たない理由、
それは点が「存在するモナド」だからです。


そして点の集合体である線にも「面積はなく(面積の部分を持たない)」、
線の集合体である面にも「体積はなく(体積の部分を持たない」、
全ての存在は「全体の部分を持たない同じモナド(実体)」として
この世界を確定させていきます。


あなたの存在がその想いにあるのならば、
その想いに「命はありますか」。
あなたの存在がその命にあるのならば、
その命は「物質(あるいは精神)にその部分を持ちますか」。

どの部分が、我々人間であるのか、
 「存在しないのに確かに存在する」わたしも実体です。

部分を持たないということは、
言いかえれば
モナドであれば全てが同一である、
ということです。
ひとつの同じものであるモナド。


我々はこの世界を正しく
理解しなければなりません。


無=実体=モナド=点=線=‥



我々人間が最初に
その「存在しないこと」を認識出来る
「存在するもの」は、
それが「点」というはじまりの実体です。


この点と等価なものとして
「今という時間」も同じ
「あるのにない、ないのにある」実体です。


我々の世界では、点の概念の延長線上に
空間や時間も「同じもの」として
存在するのです(第5章 時間と空間)。


「あるのにない、ないのにある」
その確定した不確定に、
誰もが一度は
疑問を抱いたことがあるはずです。
何故そんなことが起きるのか、
全ての疑問の根底に
「存在する無」があったのです。


0という概念も人間の発明品です。
真実は全ての点が
「あるのにない」実体だということなのです。


我々が理解しなければならないのは
「存在しない実体が世界を構築する」その理由です。


このように我々の宇宙、そして我々も、
全てをモナドとして、あるいはモナドの集合体として
存在します。


そしてモナドが無と「同じもの」であるのならば、
この世界は未だに「永遠の無と等しい」と
解答することが出来るのです。


これが世界の「事実」です。


無は「存在する」という概念を
永久に持ちつづけます。
その結果世界には
「存在しないものが存在します」。


「未だ世界の根源に存在する無」
「存在を生み出す存在のない実体」
「全ての世界を構築する、
世界の部分を持たないモナド」


そうです。


「存在しないのに存在するもの」が
この世界であり、我々人間なのです。


世界の本当の始まりは「点」です。


点は実体であり、
モナドであり、
無と等価なものです。


この認識から本当の知識、
科学は始まります。



これはもう本当に単純なことですので
是非皆さんにも理解して頂きたいのですが、
宇宙が生まれた理由がひとつしかなければ
世界にも原理はひとつしか存在しません。


この世界は純粋です。


「世界には何も存在しなかった」


この現実から宇宙が出発すれば、
世界の全ては未だに「完全無」(存在する無)です。


この「完全無」がモナドであり、
実体であり、
あらゆるものを構築する点であり、
全ての我々です。


そこに「全てが同じもの」として
等価原理が成り立つのです。



これが大統一理論(超統一理論)であり、
「世界が存在するただひとつの理由」です。



等価として繋がる、
全てが異なる「同じもの」。


それは存在を続ける無、モナドです。


この世界が永久に無であり続ける理由、
そして無の真実の姿が
宇宙で唯一の「存在するもの」である理解。

逆に言えば
存在するものの全てが「存在する無」です。


だからこそ世界の時間は
「今という瞬間」の中に収束されて、
この「今」という時間は
「どこにも存在することのない時間」となるのです。


全てが実体(モナド)です。


宇宙も我々人間も「同じ力学」です。


そしてそれは「あらゆるものの同じ願い」として
ひとつの概念なのです。



ところが現代物理学では
宇宙の存在する理由は4つもあり、
時間や空間はそれとはまた別のものとして
考えなければなりません。

その結果、まだ見つかっていないものを
宇宙の9割以上の質量、
エネルギーとして必要とします(まだ見つかっていませんよ!)。

それにも関わらず「無から生まれた」から
無理やりに宇宙を創造する。


これはもう単純におかしいですよね。
そろそろ次の段階に進みましょう。


ビックバン理論はその科学的役割を
終えました。

宇宙に未だ多くの謎が残されたままなのは、
明確な理論の登場によって統合されて、
我々が答え合わせを行える為なのです。


宇宙は拡大を続ける点です。


この点は「無と同じもの」だから
永久に存在を続け、あらゆるものとして存在します。


「点」が拡大して「線と同じもの」である理由、
それも
「全にして個、個にして全」
というモナドの力学です。

これは
「存在する無(個)の概念」と
「完全無という世界の概念(全)」が
「同じもの」であることに由来します。

「「無が存在すれば(個)、この世界は完全無(全)である」」


この「個と全がひとつの同じもの」であるという事実、
それがこの世界にある、もうひとつの秘密です。


これが「存在が力学と等しい」その始まりの原因であり、
異なる概念の間に等価原理が成り立つ理由です。


従って大統一理論は
「無が存在する」のであれば(原因)
世界の全ては無である(完全無・結果)
という単純な理論です。


この理解から
存在する点(個)と線という世界(全)が
同じものだとする、
物理学の新しい理論が誕生します。


全にして個、個にして全であること、
全てを持たない存在が全てのものを持つこと。


これがモナド理論です。
宗教家たちはそこに生まれる真理だけを求めて
世界に対する理解を深めてきました。
それは未熟な科学には、
まだ開くことのできない扉だったのです。
けれども「全ては物理学」です。


このように世界の存在の全てには
「存在する正しい理由」があります。


そしてこの「同じもの」であることが
アインシュタインの発見した等価原理であり、
質量がエネルギーと等価である
その理由なのです。


我々の宇宙では、
存在する全てのものは等価であり、
無の集合体として成り立ちます。


これがモナドの本質であり、
モナドが力学として理解されたその所以です。


このようにモナドは「何かの考え方」というような
哲学や宗教などではありません。


今という「個の(時間の)モナド」が
「全のモナド」として
時間軸と同じものであること、
これも科学です。


このように全ての事象を理解することを
我々は諦めてはなりません。


存在の全てには答えがあります。


世界が「ただひとつの無から生まれた」のであれば、
本当の科学もひとつです。


原理(理由)がひとつであれば
世界もひとつです。


その事実が理解できたとき、
物質が持つ重力も
生命がもつ本能も
我々人間が持つ希望も
同じ原理から生まれた同じ構造を持つ
同じ力学であることが
わかります。


人間が広大な宇宙と同じ(等価な)存在であること、
「宇宙の力学」が我々人間の創り出す希望と同じであること、
その確かな認識が
我々を正しい方向へと導きます。


この理解を学問として成立させることが
現時点で科学のもつ、最大の可能性です。


ここに宗教では成し得ない、
全ての人間に対する正しい理解が
生まれることでしょう。


モナドは科学です。


等価原理はひとつのものとして
全ての存在をつなぎ、
窓のない世界を証明します。


物理学者の皆さん、
哲学者の皆さん、
生物学者の皆さん、
数学者の皆さん、
全ての学問の同胞たち、
そして未来で手を取りあうはずの全ての仲間たちへ、
本当の科学はひとつです。


そうですよね。


現代科学は間違っています。


我々が細分化されたのは
各々が個々にその優劣を競いあう為だけではありません。
そのそれぞれの瞳で
ひとつのことを見つめる為だったのです。


大統一理論を完成させることは
人類共通の悲願であり、
人間の躍進、
そして我々の共同の仕事です。


今こそ共に進みませんか!


全ての我々が
あなたの(わたしの)異なる視点です。




ありがとうございました。






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