次元理論が検証されるのはこれからである。
是非とも多くの方々に参加していただき、
討論をお願いしたい。
けれども次元理論は
もともと「無」を理解するだけの科学である。
無が次元世界として生みだす「宇宙の多重構造」を
理解する為の科学である。
この単純なはずの理論が
科学のあらゆる領域を凌駕して、
これまで曖昧だった我々の認識を
より確かなものへと変える。
その事は、この文章を読んで頂けるだけで
皆さまにも十分に納得してもらえたのではないだろうか。
結論は単純である。
全ては「同じもの」なのだ。
我々が、この世界が「存在する無」である。
宇宙では原因と結果は同じであり
だからこそ科学は成立する。
現在科学はまだ経験論である。
存在するものは全てが「継続する力学」であり
「存在する概念」に「存在」はない。
最終的には力学としての人間理解へつづく
次元理論の広がりそのものが、
本文を執筆する私の確信である。
「無」と「0」は同一ではない。
0は非科学であり、
人間が世界を認識するために作った道具である。
だが「無」は実体であり、
この世界の全ての概念を支える「連鎖(力学)の原因」である。
我々が考える全ての点が「無」だったのだ。
「実在する無の概念(点)」は「完全無」であり、
それは「無限大」である。
だからこそ点は線と「同じもの」であり
ここに概念の広がりとして次元世界が生まれる。
全ての「存在する実体」は
実在する無の一部分であり、
無と同一である。
たとえ反論や否定をいただくとしても、次元理論だけで
これほどまでに統合された現実世界が出現することは
事実である。
これまでに各方面の科学が個別に主張してきた主義、原理を
同じ区分にまとめる視点を持つ。
「今」も「点」も存在するものでありながら
それぞれが存在する部分を持たない実体であり、
それが現実世界であり、
それが我々である。
おそらく人間は科学について、
ずっと考え続けなければならないのだ。
永遠に。
あるいは無や時間や世界、命や人間の存在について
学び続けなければならないのである。
私は現代科学の勘違いを指摘する。
原理は最初に与えられるべきものである。
世界には無しか存在しない、という
たったひとつの大原理によって。
そして次元理論も、まずは反証されなければならないだろう。
反証には反証が生まれ、最終的にはその議論は、
この宇宙に原初に存在するものは何か、
という所にまで及ぶはずだ。
そしてその時に我々は、
どのような判断を下せるのだろうか。
あるいはよりシンプルで、
より明確なのはどちらなのか。
私はできるかぎり多くの「自我」に、
この次元理論と対峙していただける事を願う。
そしてその先に
真の学問が生まれるだろう。
「次元理論」は「信じるもの」や「信仰の対象」ではない。
次元理論は人間が「生きるため」に必要な科学として、
教育にも必須となる学問である。
人間が宇宙や自然から学ぶ「本当の正しさ」は、
「人間の生き方(理)」なのだ。
実際問題、次元世界の概念について
正しい理解を持つ研究者は皆無である。
次元世界についての正しい知識があれば、
それが即ち
無と宇宙を結びつける本当の科学である。
この「次元理論」は
次元世界という枠組みであらゆる世界をとらえ、
無からはじまる現実の宇宙と
そして我々人間の自我世界までを統合する、
宇宙と人間の新しい「世界理論」である。
次元理論には
「宇宙統一理論」や「大統一理論」としての科学が含まれ、
単一の科学の分野を超越した「世界理論」としての
可能性が秘められている。
けれども2012年(最初の発表の年です)現在の現実は、
物理学を統合する統一論でさえ
完成には程遠い状況がある。
「科学」は単独でそれぞれの正義を主張し、
ほとんどの人々もそれぞれの「信じる正しさ」だけを
その根拠とする。
科学は正しいとする盲信、あるいは教信。
この為に我々は「自らの正しさ」を守るための否定を蓄え、
あるいは無関心を装って生きなければならない。
そこにも「生きる」と「喜び」は見つかるかもしれない。
けれどもそこに本当の「生きる喜び」はない。
自分の中に広がる世界、
世界の中に広がる自分。
そのたったひとつの希望は
世界の力学であり、
喜びであり、意志であり、愛である。
そのことを知るだけでも今回、
私が「次元理論」を執筆した意義はあると思うのだが、
いかがだろうか。
生きる確信は、
前を見つめながら穏やかに
確かな一歩を踏み出すことである。
それはたったひとりの小さな一歩ではない。
我々の一歩は確実に
世界を拡大する正統な前進である。
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