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2021年1月6日水曜日

(連載19)19-6宇宙と私の中心に

 

 

 

 

点は存在するものと我々は信じている。

点には面積があり、

体積があると我々は信じている。

 


だが点の本体はその中心である。



点に勝手に大きさの概念を与えたのは

人間なのだ。

 


点に範囲や大きさはない。


 

だがそこに「存在する」を持ち込み

領域を与えたのが人間の科学である。


 

こうして宇宙は範囲や大きさを押し付けられて

「存在する」の概念を与えられた。

 

 

すなわち本当の点は

実体しか持たない非存在であり、

これが宇宙なのだ。



そしてこれが長さを持たない存在しない時間、

「今」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

学問と信仰、あるいは芸術などの

創作活動における究極のテーマは

この「次元共有の大原理」にある。

 

 

それは宇宙と力学、

すなわち「存在することの仕組み」である。

 

 

その原理において我々の自我は、

過去、現代、未来と変わることなく

同じポジションにある。

 

 

そのために自我世界は

「次元共有の大原理」を目の当たりにするにつれて、

それだけで時間をこえても共有することができる。

 

 

果たして「彼ら」はどのような立場で、

どの場所からそれを見つめていたのか。

 

 

その視点を共有することが重要であり、

その体験が「我々」の自我世界をさらに拡大する。

 

 


これもまた人間の持つ「数多の目」の成果である。

 

 

 

これまで「科学」が「芸術」からは離れた場所にいたのも、

そのことが理解できなかったためだろう。

 

 

だがしかし、「科学」と「芸術」の双方も

おなじ場所から出発した、

人間の同じ「求める心」である。

 

 

 

この「求める心」が自我である。

 

 

 

命が命を求める本能、

物質が物質を求める重力、

存在が持ち続ける求める為の力学が

宇宙の実体なのだ。

 

 



 

 

自我世界は目覚めた瞬間から

「我々はどこから来たのか、

我々は何者なのか、そして我々はどこへ向かうのか」

という人類共通の苦悩を背負う。

 

 

この「彷徨う心」は、

自我世界における「虚空」であり、

その結果人間には力学的「求める心」が発現する。

 

 

それを模索した結果宗教は生まれ、

科学や芸術は誕生する。

 

 

したがって人間は

たとえ特定の宗教に属さなくとも、

宇宙に対しては絶えることのない信仰心と探究心をもつ。

 

 

だからこそ人間の持つ

「苦しみ」と「信仰心」は同一なのである。

 



 

このように宇宙や自然、

生命の神秘にふれるにつれ我々は、

宇宙を統合する不変の原理を認識するだろう。

 


 

そしてその時にこそ我々は、

自分たちもその一部分であるという現実を

自覚することができるのだ。

 

 

 

この「次元世界をささえる」という意味においては、

宇宙や人間、全ての生命体、命をもたないあらゆる存在が

全て「等価」であり「同一」である。

 



 

「私」という境界線も

もともとこの世界には存在しない。

 


 

全ては面積を持たない「点」の

同じ領域の中にある。

 

 

 

点は存在すると

我々はみんな信じているだろう。


 

点には面積があり、

体積があると我々は信じているのだ。


 

だが点の本体はその中心である。

そして点の中心はどこにも存在しない。


 

点に勝手に大きさの概念を与え

存在すると認識するのは人間だったのだ。

 

 

点に範囲や大きさはない。


 

そこに「存在するの概念」を持ち込み

領域を与えたのが人間のこれまでの科学である。

 

 

こうして宇宙は範囲や大きさを押し付けられて

「存在するもの」とされた。

 

 


だが実際の宇宙は

本当は実体しか持たない非存在であり、

これが存在する点である。


そしてこれが長さを持たない存在しない時間、

「今」の正体である。

 

 

我々の知る現実の宇宙が

世界の原始にあるとされる「存在する無」なのだ。

 

 

 

 

 

結果として次元理論は、

世界宗教のキリスト教やイスラム教を

理解することもできるだろう。

 

 

力学は意志であり、

それは愛であり、

世界の全ては等価である。

 

 

あるいは次元世界の構造を表図すれば、

それは仏教でいう曼荼羅である。


 

次々と姿を変える統一神も

次元理論では同じ力学であり等価なものである。


 

次元理論が「世界理論」として存在する以上、

あらゆる「科学」のみならず、

ほとんどの「宗教」を理解していけるのは

当然である。

 

 

けれども逆に

それが次元理論の「危うさ」でもある。

 

 

次元理論によって自分たちの「聖域」が侵されたと感じる人々は、

科学界にも、宗教界にも、多数存在することだろう。

 

 

だが誤解しないでいただきたい。


 

次元理論は科学や宗教を否定するものではなく、

科学や宗教の「正しさ」を証明する学問である。

 

 


 

いかなる時も

人間の探究心は正しい。

 



世界の「正しい姿」が

人間の知識を磨くからだ。

 

 

それが自我世界が

宇宙や自然に共有されるその所以である。


 

 

そして貴方々のもつ科学や宗教が「正しい」ものであれば、

「次元理論」はその探究を深めるための

「手引書」ともなれるはずである。

 

 

 

そして近い将来、

さらに発展した科学と宗教は、

それぞれが共に同じことを物語るのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間はだれもが皆、さまよい悩み苦んだ分だけ、

強くなれる可能性を秘めている。

 

人間がもつ「虚空」、これが大きければ大きいほど、

人間が引きよせる「空間」もまた同時に広がる。

 

したがって憎しみは愛と等しく、

臆病は勇気である。

心にある闇は光を求め、

痛みは人間に優しさを与える。

傷ついた人たちは皆、我々の希望である。

 

さらに愛は憎しみであり、

勇気は無謀に変わる。

光ある人間は闇を覚え、

優しい人間は冷酷になれる。

 

求める人々よ、

あなた方は決して否定してはならない。

 

あなたが探究をつづけるのであれば、

全てを背負う以外に方法はない。

 

しかしあなた方を導くのも、

またあなたが背負った「彼ら」である。

あなたもまた、人類の希望である。

 

 

 

人間は「空間穴」と「重力」をあわせ持つ、

一つの「原子」なのだ。

 

 

「存在する無」という世界は、

その内側に完全無という永遠の奥行きを創り出し

その外側には無限大という悠久の拡大を創造する。

そこに同時に誕生したのが一人の「あなた」である。

 

 

 

我々はそのひとりとして

自らの奥行きを求めなければならない。

もしかしたら宗教によって。

 

そして我々は世界として

世界の拡大を求めなければならない。

あるいは科学によって。

 

 

全ては同じ

「求める希望」

なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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