かつてまだ
「科学」が未成熟であったころ、
人間の世界を守ってきたものは「信仰」であった。
信仰によって人間は「知識」へと導かれた。
けれども間もなく
知識が信仰を高めるという時代も
訪れ来ることだろう。
科学と宗教は
この世界が人類をより良く栄えに導くための
双子の先導者である。
そこには常に「同じ信仰心」がある。
もともと我々を導く為に用意された「あらゆる知識」が
「この世界」に共有される以上、
これは当然のことである。
「科学」も「宗教」も
「次元世界」としての枠組みが
人間にもたらした異なる視点であるが、
それはしかし「同じ現実」である。
けれども私はそのことによって
科学と宗教の統合を願うわけではない。
我々が認識すべき現実は
「人類は同じ価値観をもって生まれ、
科学も宗教もその同じ価値観から生まれた
同じ目的であり、我々は常に同一である」
という事実である。
人類はこの一点において、
最初から統合されている。
我々は我々の科学と宗教が正しい限り、
同じ人間を信じて良いのだ。
我々は共に歩む為、同じ目的の為に
道を違えた仲間である。
人類はその「数多の視点(第三の眼)」において、
物事をあらゆる観点から検証する能力をもつ。
そして主観を共有することによって我々は
その事象に対する本質的な理解を
さらに深めることが出来る。
私が期待するのは
この「第三の眼」である。
この「数多の目」が
人類最大の力であり、
人間にやどる最も優れた理解力、
あるいは創造力である。
特殊な個性は
こうして全ての人類に還元される。
次元理論であれば、
本来共有すべき者達が今なお否定し合う現状に、
いつかは和解をもたらす事が出来ると私は期待する。
また次元理論において
「宇宙の永遠性」を人間が理解することは、
「人間の可能性にも限界はない」ということを
我々が理解することである。
これまでの人類が感性によってのみ認識してきた現実を、
今度は「知識」としても理解する。
それは、不安に満たされた存在することへの懐疑を
知識によって確定することである。
この態度は人間が「存在することへの不安」を払拭し、
我々が生きることへの「確信」を手に入れることである。
それが次元理論を学ぶ意義である。
次元理論によって感性に知性が追いつく日は、
必ず訪れくるだろう。
「感性と知性の不調和」
この不安定さが、
我々のかかえた「もろさ」なのだ。
けれども
「相互に高め合う感性と知性の間に存在する自我」
という構図は、
人間の「自我」という次元世界を確立し
その存在を確定することにも繋がるだろう。
それによって「科学」や「宗教」に代表される
我々の「探究心(信仰心)」も、
さらなる発展をとげるだろう。
次元理論が示したように、
人間は意志をもたないあらゆる次元世界に対しても
その「概念としての意志」を感じる。
力学と意志は等しいのだ。
それは認知力というよりも理解力であり、
もはや想像する力という方が正しいかもしれない。
けれども次元理論において
第8次元「自我世界」は、
無からつづく時間や空間、自然、生命、精神という、
第7次元世界までの
全ての次元世界を共有する「宇宙」である。
つまり自我の構成要素には、
全ての存在する宇宙が
最初から全部含まれている。
その結果「次元理論」では、
「宇宙は自我であり、自我もまた宇宙である」という
結論に到達する。
そして我々の自我は、
そのことでさえ最初から知っていたはずなのだ。
この「多重次元構造」という現実があるからこそ、
人間が世界を理解することは
そのままで自我世界の探究へとつながる。
したがって人間は
「この世界を理解する」という必然性をもって
生まれている。
世界を理解することが、
人間が人間を知る唯一の方法であり、
人間もまた「この世界を理解すること」をその希望する。
つまり人間は「分かりあえること」を希望とし、
それが人間の果たすべき本当の義務なのだ。
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