人とのつながり、
世界とのつながり、
それを知ることは私たち自我世界にとっての
数少ない安らぎです。
もしもこの一文が正しいものであれば、
人間が世界とのつながりを蓄えるということは、
この世界を私たち人間の安らぎの場所へと
変えていくということです。
このように理解するのは人間であり、
けれどもそれが世界から理解される人間の在り方です。
本当は、今ここに居ることが一番の幸せなのです。
次元理論を考えはじめたころの
私にあったものは
ただこの宇宙にたいする「好奇心」だけでした。
宇宙が何故生まれたのか、
何故私はここにいるのか、
それを純粋に知りたかったのです。
私も最初はビックバン神話を信じ、
そこに疑問が生まれ、
結果、実体から始まる宇宙の形にたどり着きました。
無への理解が人間理解につながることも、
次元理論が私に教えてくれました。
少し奇妙な話になりますが
この次元理論における旅では、
私は一人の画家として、
そこで見てきた風景を出来るかぎり正確に
描写してきたに過ぎません。
よって私も単なる次元理論の
「最初の読者」です。
「わたし」が問いかける「わたし」は
いつも「わたし」でした。
ですからもし皆さまに
この文章を読んでいただき、
共感や理解して頂けたとしても、
それは私の力ではなく、
皆さま自身の能力によるものです。
「わたしの視点」によって、
あらゆる次元世界を共に旅して来られた、
私の大切な友人である「あなた」。
「わたし」には見つけ出すことが出来なかった世界も、
「あなた」であれば見つけることが
出来るかもしれません。
そしてこの本も「わたし」が書いたものだということを、
どうか忘れないで下さい。
もしも「あなた」が
無を理解した最初の「わたし」であったならば、
「あなた」も同じようにこの「次元理論」を執筆したはずです。
努力や才能は、
それを本当に必要とする人間に与えられるのです。
人間は誰もが
この宇宙の中心にいる特別な存在です。
そして特別な人間など、
誰一人としてこの宇宙には存在しません。
おそらく私も
「一人の宇宙として存在する」とは
「全ての宇宙として存在する」ことと同じという
次元理論の示した結末に、
大変満足しております。
過去も未来もなく、
今しか存在しない世界。
宇宙もわたしも。
存在することが出来ないから
始めていることが出来る世界。
「存在しない」と「永遠」は同じ。
私たちは私たち自身の存在を、
この宇宙の夢や希望へと変えていくのか、
あるいは一時の幻とするのか、
自分たち自身で選択する自由があります。
つまり私たちには責任があるのです。
その責任は生きる希望と同じ、私たちの権利です。
迷うことは必要です。
けれども私たちの外がわには宇宙があり、
この宇宙はどんな時でも「正しい解答」を
私たち内側の宇宙に与えてくれます。
どれだけ広く、あるいは遠くまで、
見渡すことが出来るのか。
私たちは求め続けなければなりません。
私たちはベクトルです。
「彼ら」は強く優しく温かく輝きながら、
そして深遠で冷たく厳しく、
私たち人間に問いかけます。
「人間は何処から来たのか、そして人間は何処へ向かうのか」
その問いかけは、
あるいはこの世界から
我々人間へとむけられたものです。
「人間とは何者なのか」
それは私たち自身が選択することです。
なによりありがたいことは、
彼らは悠久の時間をかけて
私たち人間を見まもることが可能だいうことです。
私たちは着実に、少しずつ
ただ広がっていけばいいと、
私は思います。
「わたしは世界を愛するように、
自分自身を愛しています。
わたしは自分自身を愛するように
この世界を愛します。」
次元理論は「この世界を理解したい」と願う「あなた」を
「理解する」ための論文です。
もしもそれが書き手としての私の力不足によって
皆さまに正確にお伝えする事できなかったら、
私は「新しい書き手」に
この次元理論をゆだねることを否みません。
次元理論は人類の探究の歴史であり、
自我世界の一部分です。
このたび「わたし」が偶然受け取ったこの「バトン」も、
本来は「あなた」にお渡しするためのものです。
「時間は止まらない」ということを、
これからもお互いに証明し続けましょう。
次元理論が私を幸せにしてくれたように、
どうか皆さまの人生も有意義で
豊かなものでありますように。
2016,12,31(初版)
2018,6,26(改訂版)
The third eyes こと 富史見 和輝、
ブログ編集 青木 聡汰
ありがとうございました。
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