科学とは何だったのか、
そして宗教とは何か。
これも我々が知るべき「知識」であり
その知識が我々を「さらなる信仰」へと誘う。
あるいは「さらなる科学」へと
人間を導くことになるだろう。
我々が追い求め、
ずっと見つめ続けてきた「同じもの」の正体。
その「同じもの」が創造した
現実に存在するこの宇宙。
世界は我々全ての人間に求める力を与えて、
同時に世界はその期待に応えることが出来る。
それはこの世界が
人々のまことの内面を映し出す鏡として
そこにあるからだ。
物質的なものを世界として捉えるならば
宇宙は存在しても、あなたは存在しない。
精神的なあなたを唯一の世界と捉えるならば
あなたは存在するが、この世界は存在しない。
だが物質と生命、そして物質と空間の同一性に
「科学」が気付いたとき、
いよいよ世界とあなたの関係は修復されることだろう。
もともと世界に区分は必要なかったのだと。
内側と外側に境界線などなかったのだと。
世界が存在するのであれば
あなたは存在する。
あなたが存在するのであれば
世界もまた同時に存在する。
我々は同じ空間の一部分として
同じ時間を歩んで来た。
存在するのに存在しない「長さ」を持つ
今という時間の中で。
存在しない点の
決して存在しない空間の中で。
そこに永遠がある。
我々はこの世界が存在する理由を正確に理解し、
科学と宗教を同時に肯定するものでなければならない。
だからこそ科学も宗教も共に
間違ってはならないのだ。
ではこの「科学と宗教」の本質を理解するために、
次元理論における植物世界の問題にまで、
再び 話をもどすことにする。
これは先ほどとおなじく
「植物は意志をもつのか、あるいは意志はもたないのか」
という問題である。
次元理論においても、
植物はその器官に精神をやどすという構造は持たない。
したがって「植物は意志をもたない」。
これがひとつ目の「事実」である。
けれども植物世界も、
概念的には「生きていたい、存在したい」という
ゆるぎない意志を保持することは、
次元理論における重要な認識であった。
空間を持つこと、
時間を持つこと、
物質であること、
遺伝子をもつこと、
そして命を持つこと、
それ自体が「生命世界」の意志である。
ベクトルは意志であり、
我々の意志はまた同じベクトルなのだ。
だからこそそこに
法則や原理、本能などと
我々が偶然ではない摂理を見出してしまう。
命や精神世界に先行するのは
物質世界における力学であり、
すなわちこの「生命の形」も既に世界の意志である。
したがって「植物世界は意志をもつ」、
これが二つ目の「事実」である。
無はあるのか、ないのか。
ゆえに次元理論でのこの議論は、
最終的に「無は0次元に存在するのか」、
あるいは「0次元は無ゆえに存在しないのか」という問題に発展し、
持ちこされることになるだろう。
つまり「学術的」な見識による次元理論では、
「植物は生命の生き残るための形態であり、
生きていたいという意志、想いは持たない。
あらゆる可能性の中で生き残ることに成功した遺伝子だけが、
今もなお存在をつづけている。これは生命世界の力学であり、
脳をもたない植物世界にとっては当然の認識である。」
と結論づけることになるだろう。
この認識は、
「0次元は存在しない。
0次元が存在しないからこそ1次元世界が生まれ、
2次元世界、3次元世界へと次元世界は昇華する。
最終的に5次元世界は存在する。
したがってそれ以前の次元世界は、
現実世界としては存在するものではない。
次元原理はこの現実世界の中にこそ、共有されている。」
という解釈を成りたたせている。
そしてこの科学的思考は、正しくあり現実的でもある。
けれども科学者たちがいくら否定しようとも、
次元世界の概念的な存在までを
否定することはできない。
なぜなら「0次元」の概念が実在しなければ、
この宇宙もまた次元世界として
現実に誕生することはなかったからである。
科学は実在に依存する。
したがって「次元共有の大原理」は、
「宇宙、あるいは科学の真理」であるが、
これを神々の奇跡とよぶ人々がいれば、
科学に神を否定することはできなくなる。
一方たとえ概念世界でも、
物理的な実証が成されればそれは存在するものとして、
我々のこの現実世界の存在を
異なる次元世界の存在の証しとするものが、
宗教的、思想的な見地の次元理論である。
こちらの次元理論では、
「次元共有の大原理は、植物世界に種族拡大の法則をあたえた。
これは生きていたいという生命の願いであり、意志である。
0次元世界が存在するからこそ世界は誕生し、
植物世界の力学も
同じ世界の力学としてそこから生まれる。
当然ながら我々(自我の力学)も、彼らの願いや想いにふれ、
共感することはできる。」
という立場を明確にする。
この認識は、
「0次元は存在する。0次元が現実世界として存在するからこそ、
全ての次元世界も同様に存在する。
人間の存在についてもそれは同様であり、
あらゆる次元世界は0次元によって統括されている。
つまり次元原理の中にこそ、この世界は共有されている。」
という、先程とは異なる視点の現実世界を出現させることだろう。
我々とは異なる次元世界の存在を、
現実世界としても存在すると結論づけたのであるが、
こちらも決して間違いではない。
けれども宗教家や思想家たちが、
「ある特別な次元世界の存在」をいくら肯定しようとも、
概念世界は異次元世界に「存在するもの」ではない。
概念世界が「現実に存在する」のは「この世界の内がわ」であり、
それが「現実的な世界の構成要素」である。
したがって「次元共有の大原理」は、
確かに神の意志、あるいは神々の奇蹟ではあるが、
それを「宇宙、あるいは科学の真理」として研究し
探究する人々の存在も、
彼らは同様に認めなければならないのだ。
このように次元理論では、
次元世界の概念を追求するものが「宗教」であり、
概念ではなく次元世界の原理を理解しようと努めたものが
「科学」である。
この世界の全ての中に大原理が共有されるのか、
大原理の中にこの世界が存在するのか、
果たしてそこに大きな違いがあるだろうか。
したがって彼らがともに求めたものは
「宇宙の真理」であり、
「我々はどこから来たのか、
我々は何者なのか、
我々はどこへ向かうのか」
という人類にとっての共通の命題であることに、
変わりはないのだ。
存在するものとして無を捉えるのか、
無を存在しないものとして捉えるのか、
無にたいする解釈が異なるだけであり、
それはひとつの同じ理解である。
力学だと捉えるか、
意志として捉えるのか。
「存在する無」の内側に広がる世界と
無が存在する為にその外側へと広がる世界は
同じものである。
存在しないものの、
内側と外側が等しくこの「世界」なのだ。
それは同時に「わたし」と「世界」も
同一である。
人類史において、
あらゆる学問、
そしてあらゆる信仰の原点は
ここに回帰する。
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