第19章
科学と宗教
19-1 科学という名の宗教
私は科学の重要性を語るにおいて
「人類は無条件に神に頼れるほど幼くはない」と書いた。
しかしそれは何割かの人々にとっては
許されざる冒涜として非難されるべき内容である。
そしてその非難は正当なものだろう。
私は彼らのいう「神々の理論」についても理解を深めるべく
もっと努力するべきかもしれない。
また次元理論では、
標準宇宙理論とは相反する内容もとりあげて
それを新たに展開することもしてきた。
これも物理学者たちにいわせれば、
無知な空想家として嘲笑される内容であり
私はもっと現代物理学の基礎からを勉強し、
理解しなおす必要もあるのかもしれない。
けれども私にも「次元理論の著者」として、
彼らと同様にこの「次元理論」を理解していただけるように
努める義務がある。
それは私の希望である。
これまでの私に数多くの人々が
「新しい視点」を与えてくれたように、
私も自らの視点が多くの方の
「第3の瞳」となれることを望む。
このように「正当な見地」とは
それを育む「知識」に由来する。
知識は理解されることによって
そこに人間の自我世界を構築する。
そしてその理解は文化としても育まれる。
つまり自我世界は知識によって創造される。
そして人間が「求め続ける力学」である以上は、
我々の世界に対する探求心は尽きることがない。
こうして人類に蓄積された
世界に対する探求心の結果、
科学や宗教は生まれる。
そしてこの「科学と宗教」は
歴史上幾度となく対立を繰り返し、
あるいは融合している。
これは自我世界が理解によって広がるものである以上、
科学や宗教という「与えられた知識」によって
自我世界のベクトルは決まるからである。
つまり科学と宗教は、
人々が求める真理という側面と同時に
知識を与える側にとっての
自我の統率という洗脳手段でもあった。
そこにある、本当の正しさ、という幻惑。
人間は確かに「ひとつにつながること」を望む。
そしてそれと同じ想いとして
「ひとつにすること」を望む。
つまり人間自体が求めるベクトルなのだ。
だが人間が探究心を持つことの真意は
「つながる先が無限大に存在する世界を構築する為」である。
全ての人々が持つ「統合」への希望は
「さらなる多様性を生みだすためのもの」なのだ。
この「多様性の創造」のために、
我々には豊かな個性と
統合されてはならない無数の希望がある。
世界の可能性を広げること。
世界に個性を与えること。
それが宇宙の持つ力学の目的であり、
それは多様性の創造として
「宇宙」と「宇宙と同じものとして存在する全ての我々」の、
同じ構造である。
つまり現代に至るまで、
必ずしも科学が優勢で
宗教に勝利したというわけではない。
そこが現代科学は「信じること」を前提に構築されたという、
次元理論の指摘である。
宇宙は科学的に構築されたに違いない、
という信仰を科学と呼ぶのであれば、
人間を取り巻くほとんどの現実は
いまだ未知の領域である。
そしてその無理解を「未知」と認め
けれども真理はここにありと奢るものが科学であり、
一方で全ての責任を「未知なるもの」に押し付けて
人間の責任を転嫁するのが宗教だとすれば、
我々の「信仰心(求める心)」は全てにおいて
行き場を失うことだろう。
この全てが合理的な宇宙で、
あるいは全てにおいて万能の神様が、
そんな無駄な欲求を
我々人間に与えるはずがない。
現実世界では、
現象が定義を生みだしたのではない。
まず原理が先にあり、
定義や法則はその後に創りだされたのである。
そして現象が続く。
つまり本当の科学とは
「原理や法則をみつけだすための手段」ではなく、
なぜ原理や法則がそこにもたらされたのかを、
我々に理解させるものでなければならない。
そしてそのために科学は
その全てが「理解できるもの」でなくてはならず、
たとえ消えない疑問を記号に置き換えたところで
我々はその解答にたどりつけるはずもないのである。
記号によるパズルゲームは科学ではない。
我々は根本的な理由を知らなければならない。
(数字さえも都合の良い記号である)
それが為せない限り、
現代科学も「科学であることを目標とする」
信仰の枠からは抜け出すことができないだろう。
科学とは真実であり、
事実であり、現実でなければならず、
故に知識の根幹であり、
「サイコロを振らない」この世界における
予定調和を示すものでなければならない。
科学は人間が作るものではない。
科学とは世界の現実によって
我々人間が学ぶものである。
そして宗教における「信仰心」も
それは全ての人間が「はじめからもつ」求める心である。
それは決して神によって用意された、
人間の特別な精神の枠組みではない。
「信仰心」とは
人々が世界から理解されることを願い、
あるいはその孤独を満たす願望として、
この宇宙や他の対象へと向けられた
愛情や畏敬の念である。
その背景には、
人間が世界の広がりの一部分であり
その一部分の領域が
全てと同一であることを理解するために
この世界に対して同化や融合を求める科学がある。
つまり「信仰心」は
神様のための感情ではなく、
全ての人間に備わった「求める心」として、
自我世界全体が持つ希望である。
もちろん「この世界」を「神」として
認識する事は間違いではない。
けれどもその前提として
この世界と神が「同じひとつの概念」であることを
我々はまず「理解しなければならない」。
この永遠に存在する世界に対して、
その力学を引き継ぎながら
永遠の時間を追いかける人間。
それは次元世界としての人間に
発現した力学なのであり、
その力学の中心には「自我の持つ虚空」がある。
人間の持つ
決して満たされることのない消せない空洞。
その空白を埋めるために本能が生まれ、
「信仰心」や「求める心」、
そして理解することによって満たされる「満足」が生まれる。
この現象が人間原理なのだ。
我々は求める心であり、
世界と自分が同一だと気付いた者ならば
分与える心もまた同じものである。
これが愛の法則である。
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