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2020年7月22日水曜日

(連載15)15-6「つながり」を求めて




自我がより適正に拡大するためには、
まず自我が何かと出会うための環境と
そのシステムの確立が必要である。



この点私には、日本の民主主義や社会、学校などは、
その実用的な運用において
多くの難問を抱えているように思える。




企業が人を評価するのではない。
企業を評価するのが人である。
上役を評価するのは部下の仕事である。
その部下を評価するのは顧客、あるいは取引先かもしれぬ。
その時にはじめて企業は、国政を評価出来るのだ。
この企業の求めは民意である。



資本主義としての企業が成り立つのであれば、
その経営者は株主ではなく社員からの支持を必要とする。
出資者が持つのは経営権ではなく、
人々が満足した結果としての企業の業務や業績を
監査する責任である。



そして国政は
こういった企業の求めには応じなければならない。
これが民主主義である。





学校が生徒を評価するのではない。
学校を評価するのが生徒である。
学校が評価するのはさらに上の組織であり、
役所は評価される立場にある。


学問を保守するのが教育機関の目的ではない。
探究し創造する現場が大学である。
人々の前進の為にシステムはあり、
学校はその器である。


学校はこの目的の為に
選挙権を持つべきである。


それがあって役所もはじめて、
国政を評価しなければならない。





おそらく現状のような選挙制度だけが
民主主義ではないのだろう。



国民はその代表者を選ぶだけではなく、
自らの生活を改善するための「主権」をもつ。
その権利はその方の職場や所属する団体と
直接的に結びつかなければならない。



人間が暮しやすいと感じる社会では
人間には創造力が生まれ、
経済も活発に動きだすはずである。
そこから新たな仕事が生まれることだろう。


民主主義に支配者がいてはならない。
必要なのはリーダーとしての代弁者であり、
受け入れる者である。


その意志は常に民衆にある。


「希望をもつ人々」の総数がその国の国力であり、
それを育てるのが家庭や学校、職場であり、
それを守るのが国家の仕事である。



「国」という概念が必要なのは
国民がそれを求めるからだ。
「国」というルールも、
おそらく完成されたものではなく
我々はともにまだ勉強不足である。



否定をこばむためのルールは必要である。
しかし共有の進行に規制はいらない。
ようはその「共有」の先にある「希望」を、
どれだけ強く、そして数多く示せるか、の問題である。



そしてそれは当事者たちの判断であり、
議論は部屋の中ではなく
外から向かい入れるものである。



多様性のある人々が集まればそこに一般論はなく、
その中で新しい解答は生まれる。
議論とはもちろん「共有すること」であり
「共有」から始まる創造である。



「創造ははじまる」ものであり、
同時に「創造によって新しくはじまる」ものである。






ともあれ「自我の本質」から
自我世界が自由に広がるためには、
衣食住などの生活を維持できるだけの環境は
最低限必要である。


生存権、これが侵害されると人間は、
第7次元以前の感情や本能を
人間の意思として優先させてしまう。


このような状態では、
自我世界はその能力を十分に発揮することはできない。


本質的には
この生存権をあたえることによる「自我の呪縛」、
そこにこそ現代社会のゆがみのほとんどが
集約されてしまうだろう。





人間力を引きだしたいのであれば
「自我の本質」を支えるための安らぎと安心感、
そしてそのつながりと希望を
自我はかならず必要とする。


自我世界はそのつながりを守る為に創造を始めるのだ。



このように「自我の本質の確保」は、
自我の能力を解放するための必要条件であり、
自我世界拡大のための前提である。







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