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2020年7月15日水曜日

(連載15)15-5力学を理解すること





「自我の本質」の確保は、
歴史上の出来事としてや、あるいは発展途上国における問題
という認識だけでは済まされない課題である。




現代の日本においても
政治家の理念が民衆からかけ離れていくことや、
逆に選挙に行かない市民側の問題も
ほとんどがこの点の無理解から生じている。




こういったケースでも「自我の本質」を理解できれば、
我々は自然と異なる論点において
その問題を議論することができるのだ。





この場合論点のずれる政治家と
選挙に行かない市民側のどちらにも、
ほとんどの場合「否」はない。


この一見勘違いや無責任は、
政治家たちの懸命な政治活動と
市民の自らの生活のための
最善の行動の結果である。



つまりこの場合の問題は
「制度」や「システム」にあって、
けっして個人や人間の問題ではない。
状況と理解によって人間は行動する。



選挙が民主主義の前提にあり、
そして投票が市民の権利と義務であれば
問題はこの選挙制度にある。



選挙の制度そのものが市民たちのものになれば、
投票率は向上し、その投票率の改善が
より大局的な見地の政治家の台頭へとつながる筈である。



現状のように投票率半分程度の選挙では、
その半数以下の有権者の意思だけで
全体の政治はつくられてしまう。



そしてこの2割の有権者たちも、
自分自身の生活のためだけに選挙に行くのだとすれば、
この有権者たちのほんのわずかな雇い主の意思こそが
国民全体の総意である。




この民衆に望まれない「国民の総意」の為に
政治家たちは働く。




そして今ある選挙制度も
かつての特権階級の人々のために存在した制度を
そのままに引きついだだけのものであり、
現状全ての国民の生活にまで
寄りそえるものではない。



有権者は自分自身の利益追求の為に選挙にいく。
これはあるいは利己的な個人の意思による
合法的な全体の支配である。



だがおそらく選挙に「行けない」人々、
もしくは候補者の主張を知りえないほどに多忙の人々の方が、
本当はより政治的な革変を必要とする。



さらに悪いことに投票率の低下を
政治家や国民の責任へとすり替えることによって
得をする人種も確かに存在するのだろう。





特定の人間に責任を押し付ける限り、
そこに確変はない。





そもそも民主主義は
独裁者を出現させないための制度である。
それにも関わらず、民衆がカリスマ的政治家の出現を望むのは、
民主主義の運用自体の不備をあらわしている。




シビリアンコントロールが完璧に働いていれば、
国民目線以外の政治家はもともと存在できない。



この根本的な問題が解決されないかぎり、
国民と政治家、両者は
お互いがお互いを批判しあうのみである。





では国民全体の生活に
寄りそう形の選挙制度とは何か。
ここではじめて有意義な議論が生まれるだろう。





このように本質について議論できるのが、
「学問」の本当の価値である。





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