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2020年7月28日火曜日

(連載15)15-7モナドの欲求

  





次元世界における物理法則の原則として、
ひとつの次元世界内における力学の働きは
あらゆる次元世界においても例外なく同一である。




これは次元世界の概念は
閉ざされた単一世界であるのと同時に
全ての、あるはひとつの宇宙と同一の同じものだからである。




全宇宙(次元世界)の無限大の広がりは
たった一つの点の内側にある。




従って物理学である重力と、物質の融合や拡大への道筋も
精神生命力学における本能や欲求のベクトルと同じものである。




こうしてそれぞれが孤立した筈の異なる次元世界間においても
次元世界自体は「他の次元世界と相互に支え合い、共に拡大する」
という次元原理を持つ。




全ての次元世界は「共有」によって成立する。
次元概念は完璧な個であり、同時にあらゆる全なのだ。




これが「モナドが欲求を持つ」その所以であり、
モナドが物理学であるその根拠である。








さて、自我世界と精神世界との間にも
この「相互にささえあい、ともに拡大する」
という次元原理が働いている。



これも「相互の次元世界の共有」である。



自我世界と精神世界はそれぞれが個別のものでありながら
全として同一の同じものだからだ。




自我世界は
生命としても生命世界と同じものであり、
物質としても物質世界と同じものであり
空間としても空間世界と同一である。



自我世界をもつ人類にとって精神世界の拡大とは
自我世界の拡大へと直接的につながるものであり、
反対に自我世界の拡大は精神世界の拡大へと
同時に結びついている。




一見結果的には同じ「自我世界の拡大」へと
つながるように見えるかもしれない。
けれどもその方法論としては
この両者は全くことなる立場を取る。



精神世界の拡大、すなわち本能や感情の拡大が
自我世界を育てるということは、
恐らくそれに対する反作用、つまり反発からうまれる。




そこに育つのは間違いなく「否定の心」である。
「世界」にたいする「否定」、「自己」にたいする「否定」、
「他者」にたいする「否定」、そして「死」にたいする「否定」。




けれども自我世界の拡大が精神世界を育てるというのは、
文字通り「豊かな精神世界を育む」ことであり
そこは「否定ではないもの」がうまれている。



したがって「生きていたい」という「自我の本質」を確保、
あるいは強要することよりも、
より人間らしい「自我世界の確立」という方法が
我々には残されるはずである。



しかしこれは蛇足かもしれない。



実際に必要なのはより多くの多様性が集うことである。
そしてそこに生まれる
より多くの可能性があることである。



多様性は受け入れる器であり、
統合は停滞なのだ。



生きることが目的だった世界から、
その仕組みを共有しながら
目的の為に生きることを願える世界へ。




この目的、すなわち希望が優先される世界が
自我である。






従って人間は希望を持つことが喜びであり、
この希望を統合されるという事態には
自我は反感と否定をもって応えることだろう。

 

それは自我世界の可能性を奪われることに対する
潜在的な恐怖、あるいは怒りである。




しかし「自我世界はこの世界によって統合されている」という認識であれば、
それは自我世界の更なる開放へつながる理解であり、
自我に安らぎと安定を与える人間の立つ土台となる。



この理解が我々には必要なのだ。



その理由と原理を
我々は世界から学ばなければならない。
次元理論によって。
この世界の仕組みとして。




それが学問の意義である。




「実在する無として生きる、不確定な人類」にとって、
その確固たる確信は「自我世界の安住の地」、
あるいは自我世界の故郷ともなるべき原点である。




希望はここからうまれる。



ではこの「自我の本質」は拡大する自我世界において、
そこに何を創り出していくのか。
そして「自我世界を確立する方法」とは何か。




次章さらに、自我の向かうべき道を解読する。




2020年7月22日水曜日

(連載15)15-6「つながり」を求めて




自我がより適正に拡大するためには、
まず自我が何かと出会うための環境と
そのシステムの確立が必要である。



この点私には、日本の民主主義や社会、学校などは、
その実用的な運用において
多くの難問を抱えているように思える。




企業が人を評価するのではない。
企業を評価するのが人である。
上役を評価するのは部下の仕事である。
その部下を評価するのは顧客、あるいは取引先かもしれぬ。
その時にはじめて企業は、国政を評価出来るのだ。
この企業の求めは民意である。



資本主義としての企業が成り立つのであれば、
その経営者は株主ではなく社員からの支持を必要とする。
出資者が持つのは経営権ではなく、
人々が満足した結果としての企業の業務や業績を
監査する責任である。



そして国政は
こういった企業の求めには応じなければならない。
これが民主主義である。





学校が生徒を評価するのではない。
学校を評価するのが生徒である。
学校が評価するのはさらに上の組織であり、
役所は評価される立場にある。


学問を保守するのが教育機関の目的ではない。
探究し創造する現場が大学である。
人々の前進の為にシステムはあり、
学校はその器である。


学校はこの目的の為に
選挙権を持つべきである。


それがあって役所もはじめて、
国政を評価しなければならない。





おそらく現状のような選挙制度だけが
民主主義ではないのだろう。



国民はその代表者を選ぶだけではなく、
自らの生活を改善するための「主権」をもつ。
その権利はその方の職場や所属する団体と
直接的に結びつかなければならない。



人間が暮しやすいと感じる社会では
人間には創造力が生まれ、
経済も活発に動きだすはずである。
そこから新たな仕事が生まれることだろう。


民主主義に支配者がいてはならない。
必要なのはリーダーとしての代弁者であり、
受け入れる者である。


その意志は常に民衆にある。


「希望をもつ人々」の総数がその国の国力であり、
それを育てるのが家庭や学校、職場であり、
それを守るのが国家の仕事である。



「国」という概念が必要なのは
国民がそれを求めるからだ。
「国」というルールも、
おそらく完成されたものではなく
我々はともにまだ勉強不足である。



否定をこばむためのルールは必要である。
しかし共有の進行に規制はいらない。
ようはその「共有」の先にある「希望」を、
どれだけ強く、そして数多く示せるか、の問題である。



そしてそれは当事者たちの判断であり、
議論は部屋の中ではなく
外から向かい入れるものである。



多様性のある人々が集まればそこに一般論はなく、
その中で新しい解答は生まれる。
議論とはもちろん「共有すること」であり
「共有」から始まる創造である。



「創造ははじまる」ものであり、
同時に「創造によって新しくはじまる」ものである。






ともあれ「自我の本質」から
自我世界が自由に広がるためには、
衣食住などの生活を維持できるだけの環境は
最低限必要である。


生存権、これが侵害されると人間は、
第7次元以前の感情や本能を
人間の意思として優先させてしまう。


このような状態では、
自我世界はその能力を十分に発揮することはできない。


本質的には
この生存権をあたえることによる「自我の呪縛」、
そこにこそ現代社会のゆがみのほとんどが
集約されてしまうだろう。





人間力を引きだしたいのであれば
「自我の本質」を支えるための安らぎと安心感、
そしてそのつながりと希望を
自我はかならず必要とする。


自我世界はそのつながりを守る為に創造を始めるのだ。



このように「自我の本質の確保」は、
自我の能力を解放するための必要条件であり、
自我世界拡大のための前提である。







2020年7月15日水曜日

(連載15)15-5力学を理解すること





「自我の本質」の確保は、
歴史上の出来事としてや、あるいは発展途上国における問題
という認識だけでは済まされない課題である。




現代の日本においても
政治家の理念が民衆からかけ離れていくことや、
逆に選挙に行かない市民側の問題も
ほとんどがこの点の無理解から生じている。




こういったケースでも「自我の本質」を理解できれば、
我々は自然と異なる論点において
その問題を議論することができるのだ。





この場合論点のずれる政治家と
選挙に行かない市民側のどちらにも、
ほとんどの場合「否」はない。


この一見勘違いや無責任は、
政治家たちの懸命な政治活動と
市民の自らの生活のための
最善の行動の結果である。



つまりこの場合の問題は
「制度」や「システム」にあって、
けっして個人や人間の問題ではない。
状況と理解によって人間は行動する。



選挙が民主主義の前提にあり、
そして投票が市民の権利と義務であれば
問題はこの選挙制度にある。



選挙の制度そのものが市民たちのものになれば、
投票率は向上し、その投票率の改善が
より大局的な見地の政治家の台頭へとつながる筈である。



現状のように投票率半分程度の選挙では、
その半数以下の有権者の意思だけで
全体の政治はつくられてしまう。



そしてこの2割の有権者たちも、
自分自身の生活のためだけに選挙に行くのだとすれば、
この有権者たちのほんのわずかな雇い主の意思こそが
国民全体の総意である。




この民衆に望まれない「国民の総意」の為に
政治家たちは働く。




そして今ある選挙制度も
かつての特権階級の人々のために存在した制度を
そのままに引きついだだけのものであり、
現状全ての国民の生活にまで
寄りそえるものではない。



有権者は自分自身の利益追求の為に選挙にいく。
これはあるいは利己的な個人の意思による
合法的な全体の支配である。



だがおそらく選挙に「行けない」人々、
もしくは候補者の主張を知りえないほどに多忙の人々の方が、
本当はより政治的な革変を必要とする。



さらに悪いことに投票率の低下を
政治家や国民の責任へとすり替えることによって
得をする人種も確かに存在するのだろう。





特定の人間に責任を押し付ける限り、
そこに確変はない。





そもそも民主主義は
独裁者を出現させないための制度である。
それにも関わらず、民衆がカリスマ的政治家の出現を望むのは、
民主主義の運用自体の不備をあらわしている。




シビリアンコントロールが完璧に働いていれば、
国民目線以外の政治家はもともと存在できない。



この根本的な問題が解決されないかぎり、
国民と政治家、両者は
お互いがお互いを批判しあうのみである。





では国民全体の生活に
寄りそう形の選挙制度とは何か。
ここではじめて有意義な議論が生まれるだろう。





このように本質について議論できるのが、
「学問」の本当の価値である。