自我世界が
「あらゆる次元世界との融合をのぞむ」以上、
自我は最終的には
「0次元」との同化を求めるということにも、
人間はやがて気がつくのかもしれない。
けれども自我の本質には
「生きていたい」という本質的な意志が存在し、
そして「あなたが存在すること」自体が既に
統合された大きな世界「0次元」の一部分であり
ひとつの世界の同じ孤独と喜びである。
ではなぜ、何のために自我世界は、
生きることを望むのか。
それは最初に「自我の本質」による
「死への否定」があげられた。
生き物たちは皆「死を否定」するために
生きている。
けれども自我世界には
「死を肯定」する意識がある。
これは命ある者はいつか必ず死ぬという
「死に対する理解」である。
つまり自我世界には「ひとつになりたい」という
自我の希望があるために
人間は「生きること」を選択するのだ。
これは人間の融合への意志、
「更なる拡大への欲求」である。
この欲求は「無に宿る力学」というよりも
このベクトルこそが無の本質である。
したがって自我は
「ひとつになりたい」という想いを断たれてはじめて
「無」との融合を望むのだろう。
そこに残されるのはおそらく生への絶望である。
あるいは生きることへの疲弊、
あきらめから生じた無関心、
もしかしたらそれは満足なのかもしれない。
けれどもその絶望でさえ、
本来は自我世界が
新たな希望を生みだす為のプログラムである。
全ては自我世界の本能として
「希望を創りだす為に生きる」
(拡大と融合への欲求)
自我に与えられた力学なのだ。
このように人間は
希望を創り出す生き物である。
そして希望の為に生き、
希望によってつながる、
人間本来の姿である。
世界を拡大するための予定調和。
物質世界においては、
物質の同化や融合へとむかう力学は
原理や法則のみである。
生命世界では
その原理や法則に「生命体がもつ固有の性質」が加わった。
この細分化によって生態系は飛躍する。
そして精神世界や自我世界へと
次元世界が昇華するにつれて、
この「融合への力学」は
その個体がもつ固有の性格や個性へと
選択肢は委任される。
これにより全ての世界の拡大は
天文学的な加速度を与えられるのだ。
自我世界は自由である。
だが自我世界がもつ「自由」とは、
その選択に関する自由のみである。
自我世界は何かと共有し、
そしてつながっていかない限り、
この「生きる」という「自我の本質」を満たすことはできない。
全ては同化と融合をその手段として、
世界の拡大を目的とする原始的な力学である。
これが「個が全と同一とする」次元世界の
実体の力学であり、
無論実体も
モナドとして全てを「同じもの」と理解する。
「自我の本質を強要されること」
それもまた自我の生き方である。
それは同時に「死への否定」を生みだして、
「世界への否定」を生みだすことだろう。
けれども「究極の自我を確立する」ことは
自我世界にしかできない生き方である。
そこに生みだされるものは
「生きることを肯定する意志」である。
そこに生まれた自我は
「世界を肯定する」ことができるのだ。
あるいは「死を肯定(理解)する」意識である。
では人間が自我世界を宿すのはなぜだったか。
それはすでに我々が学び終えたことである。
我々は生きなければならない環境から、
「生きることを喜べる環境を創造する」
新たな次元世界である。
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