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2020年5月27日水曜日

(連載14)14-2「内側と外側」とは何か




人間と宇宙の話の続きである。



内側と外側を隔てるものは
「主観」である。
この基準点がなければ
内側と外側に異なる概念はなく、
それは一つの同じ空間である。


この内側と外側の狭間にある
体積を持たない空間、
それが自我世界、即ち「わたし」なのだ。


主観によってベクトルの方向性が異なるように見えるだけの
切り取られた空間として存在する、自我世界。
それは一つの世界の内側であり、
あるいは外側でもある。


ここには全も個もない。


全ての全は個であり、
個はそれだけで全である。



つまり人間は、
この世界にただ生かされていたというだけではなく、
世界と共に生きなければならないし、
そしてこの世界を理解(拡大)しなければならない。


これは同時に
自我世界が生きのびるためには
人間はこの世界を理解しなければならない、
ということである。



宇宙と我々は同じもの。
等価原理の先にある
当然の結末と原因。


原因と結果は必ず同じであり、
これが物理学である。


人間は無であり、
世界と等価原理なのだ。



語弊をおそれずに申し上げれば、
自我には血ぬられた道を歩むことも、
同族どうしでの愚かな殺し合いを経験することも、
全てが最初から許されていた。


ただ一つ、自我世界が理解するためには、
そして理解しあうためには必要なことだったのかもしれない。
その苦しみと虚しさ、悲しみと苦痛、狂気と破壊、
後あとまで癒されることのない遺恨、
痛みがさらなる痛みを呼びよせる負の連鎖、
尽きることのない絶望、
それを知るからこそ我々は、
今は平和であることを強く望む。


意味もなく全てを奪われて虐殺されてきた「わたし」と、
おびえる人間を喜々として殺戮してきた「わたし」。
繰り返し失われつづけた「わたし」と、
今を生きる傷ついたままの「わたし」。
理解した「わたし」でなければ、成しえない世界がある。


意味もなく失われつづけた「わたし」を
尊い「わたし」へと変える唯一の方法は、
「わたし」たちがそれを忘れないことである。


もしも仮にこの世界に「聖なる戦い」があるとすれば、
それは武器も敵も必要とはしない
「負の連鎖を断ち切るための自らの戦い」のみである。


すなわち我々は「自我世界」として、
世界と人間の歴史、
そして万物の理を学びつづけなければならない。


なぜなら次元世界は常に拡大するものであり、
自我世界もその成長を止めた時には同時に
失われるものだからである。


そして我々「個なる自我」にとっての成長とは、
自らのもつ「自我世界の拡大を求める」こと、
すなわち「学び」「理解する」ことのみである。


自我世界は「理解」による
融合と創造の先にしか、
人間の行き場がないことを認識する。
その無限大の創造の為に
我々は今、多様性を抱えて生きるのだ。


全ての人間がそれを理解すること。


それが自我世界の進化である。






第8次元「自我世界」を宿すことは、
生命世界全ての大きな目的であった。
多様性が求め続けた更なる可能性、
生命の個々の能力によって
細部にまで及ぶ適応力。


この適合性によって
生態系の頂点にまで登りつめ、
その個体数を増加させつづけた人類にとって、
本能や感情の先導のみで
「種族拡大の原理」を果たしていくことは不可能である。


これは自我世界が、動物的な本能や感情を
のり越えるために発達した事実なのだ。



第8次元「自我世界」は
その外側に存在する「宇宙」につつまれて、
そして「自我世界」自体も0次元から第8次元までの
あらゆる次元世界の共有が創りだした「宇宙」である。


当然我々の自我世界も、
全ての次元世界と共有しなければ
ここに実在することはできない。


したがって自我世界は
その内側と外側に同じ無限大の宇宙を抱き、
結果おなじ宇宙(モナド)として、
この大宇宙やあらゆる宇宙、そして他人の宇宙とも、
共有しあう唯一の存在である。



点の内側の永遠の奥行きと
線の外側に無限大に拡大する宇宙は
ひとつの同じ宇宙なのだ。


あなたの内側と外側も
ひとつの
同じ世界である。




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