「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2019年2月5日火曜日
(連載4)4-11全と個、個と全
数学の基本となる「数列」は、
「0を起点とする
無数の点が存在する線世界がある」
ことを、その「前提」として始まる。
それが我々の「科学のはじまり」であり、
同時に「約束された認識」であった。
人々はその約束事が
あらゆる現象の理解に役立つことを知り、歓喜した。
けれどもそれは人間の「発明」と「道具」であり、
我々は何を「点」と名付け、
何を「数列」とよんだのかは知るよしもなかった。
しかし我々はいま「完全無」を理解して、
「1次元世界」を知る。
「0」や「数列」は、
「知識」の本当のはじまりではなかったのだ。
それらは単に「実在する無の概念世界」を模倣した
人間の作った「ものさし」にすぎない。
数学は0を置く数列を作らなければ、
始めることができない。
これは合理的ではあるが、人間の哲学(考え方)である。
対して現実では、
全ての点が0なのだ。
これが真に科学的な理解である。
「完全無」を理解する「次元理論」だからこそ、
その理解が成りたつのである。
つまりこれまで「点の持つ概念」のなかで、
人間が都合良く理解したのは「ある」という部分だけである。
人間は数列の中に「ない」を探して、
世界のバランスを保とうとしてきた。
けれども「点の概念」の真意は
「体積も面積も持たない(存在を持たない)」という
もう一つの側面にあり、
点はそれ自体で「ある」と「ない」とを共有する
「完全な世界」である。
欠落した部分が存在を生み出すという
これまでの科学的が必要とした哲学。
対して実体は
それ自体が存在でありながら存在しない、
こちら側の視点が本当の科学である。
世界を区分けしようとして失敗したのは
我々なのだ。
そしてこの実体が「存在する無」である。
いかがだろうか。
我々はこれまで「数式が世界を統合する」ことを、
かたくなに信じてきたではないか。
かたくなに信じること、
それを人間は「信仰」として定義する。
けれども、なぜそれがそうなったのかを「理解すること」、
それが「本当の科学」である。
このように我々の知識は
「無を理解すること」によって
初めてそこから始まる。
我々は今後も数式は信頼して良いのだ。
けれどもその信頼を
信仰へと変えてはならない。
我々は先立つものを取り違えてはならない。
「無」が「有」と同一であることは、
数式では理解することができない。
しかし我々がこの現象を理解できれば、
その必要もまたないことである。
これらはまだ「存在する無」という大前提から派生した、
知識の前提部分に過ぎない。
したがって次元理論は、
「この宇宙には何も存在しなかった」
という世界の大前提からつづく、
知識の根幹である。
そしてその結末も
「この宇宙には何も存在しなかった」
以外にはあり得ない。
これが「実体に対する理解」であり、
実体の連鎖として次元世界が分岐する
その理由である。
この数式ではあらわすことのできない次元発生のメカニズムを、
私は以後「次元共有の大原理」(共有される世界原理)として記述する。
これは
「次元世界においては
実体とその実体が創りだした概念世界は同一のものであり、
全ての次元世界は単独では存在できない。
ひとつの次元世界は前の次元世界を土台として
必ず次の次元世界を生みだしながら、
概念を共有する(部分を持つ、部分を与える)ことによって
その共有世界を共に実在させる。」
という、次元世界が存在するための基本原理である。
これは要するに、
例えいくつもの次元世界に分かれても
実際の世界はひとつしかない、という事実確認である。
「全体にして個であり、
個は全体である」
これが世界の現実である。
次元共有の大原理は、
次元世界が実在するための「必要十分条件」のことである。
そしてその全てが「存在する無という同じ世界」であり、
「ただひとつの無」が「全ての概念世界に同時に存在する」状態である。
無が存在する以上、
「完全無」と「無限大に続くあるのにない」の概念は
同時に継続する。
無が存在する以上、
「無限大に続くあるのにない点の概念」は線世界であり(個は全)、
線世界は広さにおける面積を持たない実体である(全は個)。
無が存在する以上、
「無限大に続く線世界」は面積の概念であり(個は全)、
「永遠に存在しない実体」は空間世界における体積を持たない
面世界である(全は個)。
全にして個、個にして全、
全ては同じひとつのものである。
「あるのにない」同じものの
無限大の連鎖、存在は力学。
このことによる等価原理の成立。
後述とさせていただくが「次元共有の大原理」、
これこそが科学者たちが探し求めた科学の真理であり、
宗教家たちのいう神の奇跡である。
次元世界が新しい次元世界をつくりだす節目、節目において、
この「次元共有の大原理」は働く。
ただ一つの同じ「存在する無」の純粋な構造として。
そしてこの大原理が、
あらゆる次元世界に共通する「同じ力学」である。
これも後述とするが、
全ての力学は等しく無の連鎖する同じ状態である。
このように我々の世界は、
ただひとつの次元世界(あるいは宇宙)によってのみ
構成されるものではなく、
いくつもの次元世界が必然的に概念を共有し、
その上で全ての宇宙(ひとつの世界)が成立する「多重次元構造」をもつ。
この世界に絶対的に存在するものとは「存在する無」しかなく、
この「完全無」もまた、
単独ではその存在を保つことができない。
全てを無とする完全無には
「全ての概念」が必要なのである。
そのために「完全無」の概念を支える同じ世界「次元世界」が出現し、
「次元世界」が実在するための必要十分条件として
「次元共有の大原理」は存在する。
この大原理を理解すること、
それが「無から始まる世界を理解する」ことであり、
あらゆる存在を理解する最初の知識である。
『「存在する無」と「完全無」は「同一」である』(個は全)
『「完全無」と「点の概念」は「同一」である』(全は個)
この知識は
世界原理の主軸であり、
内側と外側が同じものである、永遠の広がりを
我々が認識することにつながる。
もしもこの章までにこの現実を理解することが出来なければ、
それは私の伝え方に問題がある為かもしれない。
私は今後、多くの皆さんの手によって次元理論が研磨され、
複数の新たな書き手によって
この科学が磨かれていくことを望む。
だがそれまではどうか
私の拙い文章ではあるが、辛抱強く付き合って頂きたい。
願わくば、これが夜明け前のひとすじの光となることを。
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