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2018年9月25日火曜日

(連載2)2-4「ひとつ」と「全て」





簡単に忘れられてしまう
存在するのかどうかさえ不明瞭な世界と人間、
そしてその絆。


この絆の存在は、
数字や数式が万物の現象をあらわすのと同様に、
これまではごく「当然」のこととして扱われてきた。
自分が想うことと同じ、
自分自身が想われること。


もちろん何かの為に犠牲になるのは間違いである。
世界のための犠牲、
あるいは誰かのための犠牲。


自分自身の拡大と同時に
この世界は広がらなければならない。
この世界の拡大と共に
あなた自身も拡大しなければならない。


これは当然の原則である。


しかしこの「当然」という認識が不完全であり、
危険なのである。


問題は「なぜそれが当然なのか」という根底を
我々が理解できないことにある。





真理はひとつである。
これは納得出来ることかもしれない。

世界中の無数の現実、その全てが真理である。
これも正しいだろう。


しかし我々は
その正しい真理が一体何か、
それを理解していないのだ。


世界が盤石で鉄壁な巨人なのか、
儚くおぼろげな一瞬の幻なのか、
それを我々は理解していないのである。


信じる者だけで成りたつ世界ではない。


知識は覚えるよりも
理解することのほうが重要である。
何故なら人間の主観は
その理解した知識によって確立されるからだ。



人間を創るのは
理解によって生まれた知識である。
それは人間の適応力であり、
人間は「現実世界」に対応する。



だからこそ、
人間は世界の本当の姿を
理解しなければならない。



このために科学の原点に
信仰があってはならない。!
人間が信仰心を持つのは何故か、
それを理解できるものが科学である。




つまり大統一理論では、
信仰や思想に頼らない「科学的な結論」として、
数列や時間、そして宇宙や自然、そして我々人間、
その全てが「同じもの」であり、
一つにつながっているのだということを
証明できるのである。



ひとつしかない真理が
全ての現実に宿ること。

「同一である」こと。


それが理解できた時にはじめて、
人間は宇宙や自然から更なる恩恵として
人類が進むべき道の「指標」を
受け取ることも出来るのだ。



その理解が、
我々の持つ信仰心の正しさを証明する。
科学と信仰心を統合するのである。
(学問と宗教ではない。
全ての人間は最初から信仰心を持っている。)


それは理性と感性の融合である。




これまでの人類は
根本的な「なぜ」や「どうして」を
完全には解決することが出来ないままに、
「それが前提である」と決めつけて
あらゆる科学をすすめてきた。


もちろんそれは仕方のないことであった。
知識の前提となる「当然という認識」に
残されたままの疑問。


それでも科学は
ほとんどの場合、正しくあり続けた。
なぜなら科学は
仮説を生みだして、
その後多くの検証を通じ
最終的な結論を導きだすものだからである。


けれども科学者たちは
その「それぞれの科学」の「それぞれの正しさ」が、
根本的な部分では「あいまい」となり、
必ずしも全てが統合されないことに頭を抱えている。


科学でさえも「信じること」を前提とした宗教と
まるで変わりはないのではないかという疑問にまで、
人類は突き当たってしまったのだ。


極論として、
これまでの仮説と検証のみの科学では
すでに知識は限界である。


そしてそこから抜け出すためには
知識に対する更に「根本的な理解」が必要である。


数学、化学、生物学、物理、天文学、脳科学など、
すべての学問は統合されて初めて
科学は科学足りえるものなのだ。




何故なら、始まりはひとつしかないからだ。
仮に「始まりと終わりがなかった」としても、
何故そうなったかを
科学であれば理解出来るものでなければならない。



我々はこれまで「科学による証明」によって、
この世界にはさまざまな原理や法則が存在することを
明らかにしてきた。

けれども「本当の科学」とは、
それらの原理や法則が
「なぜもたらされたのか」を
我々に理解させるものでなければならない。



そこに前提があってはならないのだ。
現状の科学では
その基本となる数学でさえ、
前提から始まった合理的な哲学に過ぎない。



真理の姿は千差万別か、
それとも統一理論は存在するのか。


その事でさえ判別することのできない現代科学では、
大統一理論の見知からすれば、
多神教と統一神で争う宗教界とも
差ほど変わりはないのである。


科学の正しさは
それが「事実であること」に由来する。



大統一理論はこの世界の成りたちを
「次元世界」という枠組みでとらえ、
そこに現れる「次元世界の法則」を見つけ出すことによって
「新しい科学」を構築する。


その為に大統一理論は「次元理論」と呼ばれる。


この手法によって我々は、
既存の科学では探せだせない深い観点から、
この世界をより的確に捉え直すことができるのだ。


そしてこの統合された学問の中にこそ
我々「人間」もその姿を現わしてくる。



人間は類まれなる偶然の産物であり、
かつこの宇宙における必然の存在である。



最終的に人間原理には傾かず
「0」からの理論のつみ重ねによって、
「人間とは何か」という疑問にも
我々は解答を与えることができるのだ。



つまり「人間が存在する理由」と
「世界が存在する理由」、
「人間原理は何か」を、
我々は理解することが出来るのである。



次元理論によって宇宙と人間の
「ひとつのつながり」を見つけだすことは
この世界がもつ統合を見つけることに他ならない。
次元理論がもたらした根本的な理解は、
我々がこれまで「当然」としてきた認識に対する
新たな証明と、正しい解答である。




2018年9月18日火曜日

(連載2)2-3「ひとりきりの人間」と「ひとつだけの世界」



仮に我々が、
道に迷い帰路を探してさまよう子供だったとしよう。


今はどんなに取り乱して不安に追われても
無事に我が家にたどり着ければ、
その先は安堵して穏やかに暮らすこともできるはずだ。


これと同じである。


人間はまだ自分達が立つ場所がどこかを
理解していない。


ここがどこかも分からずに、
何故ここにいるのかも知らずに、
ただ怯えているだけなのである。


その為に権威や権力に群れて、
その虚像に自らの安心を求めてしまうのだ。


つまり正しさの基準を
他人や社会に合わせて
造られた価値観に自らを当てはめていく。

それが出来ないうちは
安定も安心も満足に得ることは出来ない。




しかし大統一理論は、
そんな人間に正しい居場所と家族とを示し、
我々に強さと安定感を与えることだろう。



これは言い換えれば
人間が「必要とされる勇気」を持つことであり、
「自らの使命(価値)を学ぶ」
自立することである。


世界から人間へと向けられた愛情と期待、
それを自覚する人間の確信。

あなた個人からこの世界へと向けられた愛情と希望、
それを自覚する自分自身の確信。


それは人間と世界の間に存在する絆である。


このようにあなた自身がこの世界を必要とするように、
この世界もあなたを求めている。
(あなたには世界が必要である。
この世界にはあなたが必要である。)



このように大統一理論の知識は、
人間の有り様とその立ち位置を変えていく。



人間に託された自由と
それに伴なう責任への気づき。


いや本当の科学とは
我々に真理を教え
人間に指標を与えるための学問である。


それを成すことの出来ない現状の科学が
未熟なだけなのだ。




ここまでやや説教じみた論説となり申し訳ないが、
もともと世界と人間の結びつきは科学的であり
同時に精神的である。


そして宗教とは
この科学的に未熟な部分を物語りへとつくり替え、
精神的救済のみを主軸としたものである。


このために宗教の歴史的な成熟さに比べ、
より劣っているのは科学である。
元々科学と宗教は
そのどちらがより「正しい」かを
我々が判断する為の材料ではない。


これは人間が同じものを
同じ世界に求めた結果生まれた、
人間の同じ希望である。





科学がもたらす情報は、
たとえ見えないものでも確信へと変わり、
それが人間が生きるための知恵へと変わる。


だからこそ科学は「正しく」なければならず、
そこに未知の領域を残していてはならない。
ここでいう正しさとは
「事実」という意味であり、
それは個人の主張する正義ではない。


けれども現実の科学では
未だに世界と人間を確定することは叶わず、
各々の漠然とした思い込みのみが
現実世界を引きとめて、
真実をさらに不鮮明なものとする。



ここは重要である。


現代科学の
時間や空間が何かも知らず
それは昔から存在し続ける未知の概念だとする認識は、
世界には原始から存在するとてもエライ人がいる、
などという非科学的な思考と
全く同じレベルの主張でしかないのだ。


それの何処が科学なのか?


結局は人類のための科学ではなく、
大学や宗教、権力に近い一部の人間達によって
他の人間の価値観が好き勝手に
統制されているに過ぎない。


これは我々の信仰心や探求心が
利用されている、ということである。


国家と取り巻きと、権力者たち
ルールを振りかざす人間達によって。




人間は、この世界と人間の間には
何かしらの結びつきがあることを
本能的に理解する。

心と繋がる宇宙。

これはあなた自身が
内心で期待することかもしれない。


何か自分が特別なものであって欲しいという願いと、
あるいは世界に認められた(愛された)自分と
そこから生まれる満足。



だがもともとこの世界に育まれた命である以上、
我々が外側の世界に絆を覚えることは
当然のことである。



だが我々は感じているだけで
理解してはいない。



それは「何故」という根本的な疑問が
まだ解決されていないからである。



そして世界に
ひとつだけの原理があるのならば、
一人きりの自分と、ひとつしかない世界の
同じ存在する理由が分かるはずなのだ。




「大統一理論は
全てが無から始まった現実を理解する」




そこにビックバンはない。
宇宙と我々は同じものとして
このひとつの始まりに集約される。


そこに空想や神話を加えてはならない。




2018年9月11日火曜日

(連鎖2)2-2 ひとつの世界



「同一」であること。



大統一理論によって示されるのは
世界と人間との絆である。


これにより我々は
宇宙と人間が「同一のもの」であることを
理解できるだろう。



ひとつの始まりから生まれた同じもの。



アインシュタインの発見した「等価原理」が成り立つ理由も、
ライプニッツの「モナド」が
人間の内側と外側を同一とする理由も、
その根底には大統一理論(超統一理論)がある。



それぞれが異なるために生まれた同じもの。
多様性を創り出すことは
広がる宇宙の一部分、新たな空間である。





人間はいかなる時代においても
宇宙の中に「世界と人間の解」を
求め続けてきた。


我々は何者なのか。
人間はなぜ存在するのか。
そしてこの宇宙はなぜ存在するのか。


自然の大地から離れ
造り変えられた人工物の森で生きる現代人にとっては、
もはや馴染みの薄いことかもしれない。
けれども人間が生きるという事は
本来は「自然を理解すること」であった。


その中で人々は「自然と心を通わす」という行為を
ごく当たり前のように行ってきた。


これは動物や植物などの
生命体ばかりを対象とするものではない。
山や川、海や空といった無機物とさえ人間は
その言葉を交わし、
彼らの感情をくみ取ってきたのである。



一方自然界においても、
人間には試練と恩恵とを与え、
彼らはその命を守り、常に磨き続けてきたのだ。
自我世界を育てたのは自然界である。



母なる大地、母なる海、母なる地球‥
現在も人間による自然賛歌は
歴史、文化、行事、学問、それ以外にも
人々の素直な心情として位置付けられている。


そこにあるのは感謝、崇拝、恐れ、
癒し、恵、信仰、敬愛‥


物理的、そして精神的に考えても、
宇宙と自然、人間と世界とは
決して切りはなすことは出来ない。


そこにある繋がりと結びつき。


我々はこの世界から「学ぶ」ことで成長し
今もなおこの世界への理解を必要とする。


世界は人間を導き、我々を歩ませる。




だが現代、
人間は自らの裁量を超える暴力によって
この世界を荒廃させ、
生命体に課せられた義務からも逸脱しようとしている。

果たして自分の欲望のために
自らの手足を切り捨てる愚かな生き物が
他にあるだろうか。



それでも人間は
決して失敗作ではない。


例え人間が他のどの知的生命体に代わろうとも、
知識の基盤なしでは
同じ過ちをただ繰り返すだけである。
人間はこの与えられた機会を生かして
成長するしかない。



我々がごく一般的に考えても、
人間のためだけにこの世界は存在する訳ではない。
実際に世界は様々な様相、あるいは歴史をもち、
その一部分にのみ我々は
人間の生活環境をあたえられたのである。


人間が自然に対して抱く感謝や恐れ。
同時に宇宙や世界が
人間を育てるために費やした
気の遠くなるほどの時間と愛情。


我々はそこに絆を覚え、
そしてこの世界に誘われ、
これまでの間科学や宗教を発展させてきた。


それは自然を理解し、納得し、
生き残る為の知恵でもあった。


つまり我々は、
自分の中の感性と理性の結合を
同じように望んだのである。


人々の想いが投影される自然世界。


それは感傷ではなく
科学的に確かなものでなければならない。


それは世界を愛するものが
同じように世界からも愛される、
確かな証明である。




人間は弱い。
だからこそ自らの隙間を埋めるために
この世界を必要とする。


そしてこの世界の隙間を自らの存在で補えた時、
人間はこの世界と同等の強靭な輝きを放つ。



そしてそのために
世界を求める人間の探求はある。
その場所へと我々を誘う
確かな重力がある。



今はまだ分からなくてもいい。
だがこれらの理解と探求は、
現代社会においても変わることなく続けられている。


人間はこの世界として生きる希望と、
同時に世界を広げる太陽としての役割を担う。




けれども現代の我々は
お金を求めることに時間を消費する。
人間には本来、お金を求めるという本能はない。
けれども人間の生きる目的が
お金によって差し替えられているのは事実である。


ではお金は、
一体何に変わるはずのものだったのか。
それは今、我々が考えなければならない問題である。

手段が目的となってしまった経緯、
金銭による支配、
これが絆を失った科学に代表される虚構であり、
人間の渇きである。



けれども人間は、
本来は宇宙と人間とのつながりを、
(自分と世界との絆を)
深く求めている。


ただ闇雲に何でも求めるだけの巨大な塊から、
自身を作り変えながら世界中に風を吹かす
新たな輝きの中心へ。




従って我々が求める「大統一理論」とは、
実は世界と人間の「つながり」を
理解するための科学である。


「大統一理論」は
あらゆる存在を統合する「大原理」が
この宇宙には存在することの証明なのだ。




これは夢物語ではない。



直感的に唯一の原理を認識するからこそ、
我々は宗教を認めてしまう。
いや、漠然と感じるのは
世界を巻き込むもっと大きな流れである。


そして科学とは、
事実としてその原因を理解することが
目的だったはずなのだ。


しかし答えを出せないままでいる科学と、
結論しか答えられない宗教。
その対立は人間の葛藤でもある。




我々が求めるのは「本当のこと」だ。


理性も感情も等しく納得できる場所、
それが本物の科学の期待値である。



信仰心には影響されない科学、
逆に信仰心を理解出来る科学を、
我々は必要とする。



世界がひとつの現実から始まったのであれば、
存在と力学は常にひとつである。
全ての世界は同じひとつの現象なのだ。





2018年9月4日火曜日

(連載2)2-1拡大する宇宙


第2章
大統一理論


「科学に前提を持ち込んではならない。
全ての事象に対する理解を諦めてはならない。
人間も宇宙も時間も同じものとして、
ただひとつしかないこの世界の
ほんのわずかな一部分である。」




2-1広がる宇宙



大統一理論があると、
世界はどのように変わるのだろうか。



大統一理論が成立すれば、
この世界にはただひとつの原理(力学)しかなく
その原理に基づいて全ての宇宙が構築されたことになる。


同じ理由を持ち存在する同じ世界、
これはモノとココロに対する理解でも同じである。


これは「一元論」と呼ばれる。





これまで一元論は、
物質は不変だが思考は創造されたり消えたりする、
という認識によって破棄されてきた。


不変のものとそうでないもの。


しかし現代人こそ、
自らの想いの中に宇宙があることや
物質にも誕生と消滅があることを理解している。



この世界に変わらないものはない。



ひとつの事実からこの世界が始まったとすれば、
全てのものに共通の原理が宿ることは必然である。




その当たり前の現実を否定してきたのが
我々の歴史である。
その身勝手な主観と無知によって。




しかし人間の頭脳に、体内に、
その生命に、そして生き物たちの生態系の中に、
あるいは物質である地球上の至るところに、
「宇宙が存在する」ことは
ほとんどの我々が周知する事実である。




科学的な視点だけではなく、
旋律の中に、焼き窯の向こう側に、
言語の調べに、数多の創作の中に「宇宙を見ること」は、
芸術家達の仕事であり
人間の喜びである。



では我々は何を基準に
「宇宙を感じている」
のだろうか。



その広大さか、美しさに並ぶもののないことか、
圧倒的な奥行きか、
あるいはそこに秘められた無限大の可能性と
その中にある唯一の輝きか。



ただ我々が感じる宇宙は
確かにそこにあり、
我々が惹きつけられる理由も
実はあなた自身が「同じ宇宙を持つもの」だからである。



我々は新しい宇宙を見つけた時に、
同時に自分自身の内側にも
同じ宇宙を見つけ出している。


感動は共鳴なのだ。





けれども人間が想う宇宙には
常に「何故ここに宇宙が広がるのか」、
という疑問が付きまとう。



大宇宙と
世界中に溢れる多くの小宇宙、
そして
自分自身の中にも感じるやはり広大な空間。




例えまだ科学に啓示できないとしても、
人間が感覚的に理解する「同じ宇宙」は
モノとココロに共通である。



その感覚的なものを
現実に(科学的に)引き戻すことが出来るもの、
それが一元論、すなわち大統一理論である。



それによって示されるのは
人間と世界との絆である。