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2018年7月31日火曜日

(連載1)1-4 本能・重力・希望 「求める」という同じ物理学



野生動物やより単純な生き物たちは
本能によってその行動を支配されている。



本能に従えばその生き物たちは
生き残る可能性を高め、
命を引き継ぐ生命の営みにも
より貢献する事が出来るのだ。


このように本能は、
命を拡大するという目的を持って
生まれている。



命が同じ命を「求める」力学、
それが本能である。




我々人間のココロも
この同じ物理学を持つ。


自我もその本能によって支配されている。


それが人間の願いや、希望として現われた
「自我の本能」である。



自我を他の世界へと惹きつけて
融合し拡大させるための重力。


人間である限り誰もが必ず持ち続ける
「求める心」。



即ちこれは「希望」である。



その願いを生み出すためにあるもの。
それは決して消すことの出来ない
「心の虚空」である。



自我が願い、希望を生み出すことは
この生命としての人間の構造から生まれている。



つまり「消せない虚空」が同じものとして
「消えない希望」なのである。




それは人間の中心で
我々の思考を支配する
本質的な欲求である。





人間はその自由意思によって
「好きなことを考えることが出来る」と
思う人は多いだろう。


「我思う故に我あり」だ。


けれども我々が持つ自由とは、
実は「選択する自由」だけである。


つまり我々の思考の原点には
「求めるための本能」が
まず働いている。


不満足から生まれる欲求。


人間の感情はその自我の選択を承認し、喜び、納得し、
そしてそこに新たな願いを生み出す、
その為だけにある。



つまり全ての人間の自我の相違は、
ただ「求めるものが異なる」だけである。



このように生命としての自我は
その中心にまず「願い」を持ち、
これは我々の持つ他の感情や想いとは
一線を隔てた特別なものなのである。



自我世界が予め設定する
人間の「目的地」。



それは永遠にたどり着くことのできない、
幻の理想郷である。




そして「求め続けるチカラ」、
それが人間の重力なのだ。





人間の自由意思を創り出すためにある「願い」と、
その願いによって育てられる感情世界。
あるいは感性という想いの渦から生まれた「願い」と
自由意思の集大成としてつくられた「希望」。


双方に行き来する精神世界と自我世界の
同じ動物的な、あるいは理性的な本能。



この物理学を築くための構造が、
人間の中心に位置する「自我の虚空」である。



そしてこれが「自我の本能」として
我々全ての人間を統括する「人間の行動原理」なのだ。





表現を正確にしよう。


人間が願いを持つのではない。
願いのために人間は生まれている。
人間を創ったのは「虚空」であり、
我々はそこから生まれた消えない「願い」である。



これが自我世界である。
我々は存在ではなく力学なのだ。







喜びや悲しみ、憎しみや恐怖、
我々が様々な感情を持つことも、
全ては新たな願いを自我に与える為である。


喜びを求め、恐怖を乗り越え、
満足に幸福を覚え、忘れ求め、苦しさに耐える。
このように願いを創り出す為にこそ
感情は働く。


そして生み出された願いは
人間の気持ちを安定させて、人間自身を強く育むのである。
我々の心は
この「願い」によって展開する。




人間に自我を目覚めさせるべく存在する、
心の虚空。



その空虚を埋めるために生まれる切望。



この願いによって人間は
あらゆる世界とも結び付けられていく。




「融合、そしてそこから始まる創造」




つまり高度に複雑化した我々を取りまく環境の中で、
それに対応した人間を動かす力学、
それが希望とも呼ばれる自我の本能なのだ。



これは決して特別な力学ではない。



ひとつの原子が抱えた「存在する重力」は、
失われた空間が他の空間を求めるための
物質の持つ欲求である。

そして核力は自らの存在を求める
原子の同じ本能である。


重力によって原子は他の原子群と結び付き、
やがてその重力で
核融合反応を起こして更に質量を拡大する。


融合と創造。


更に全ての命が生命として与えられた本能は、
失われる命(死)が他の命を求めるための
生命の重力である。


この本能は自らの命の継続を願う物理学であり
これは核力である。


生命はこの本能によって他の生命と結びつき
やがて融合する。


そこから創造(や進化)は始まる。



これが死が生み出した生命の欲求、
重力なのだ。






我々人間も、
この世界を認識することによって求めるという希望を持ち、
やがてその願いによって世界と融合する。



人間の自我世界という生態系において、
人間がより良く生きる為に与えられた能力、
それが「願いを持つ自我」という物理学なのだ。



では何故人間の(生命の、原子の)中心には
失われた空間があるのか。


その虚空は
何故他の同じ空間を引きつけるのか。



これが原始の「同じ物理学」である。


我々がまだ気付いていない、
宇宙の根底にある統一された同じ物理学である。




あなた自身も
その失われた空間に囚われて
確固たる自我として成立している。


そのココロの虚空がなければ、
あなたもこの世界と変わらない
巨大な空間に過ぎないのだ。





こうして見ると人間は、
“考える葦”などではなく
まさに「願いを生み出す命」そのものである。


あるいは「願いによって生み出された命」である。


すべての我々が所有する世界に共通の力学、
人間とその社会の全てを形成する源泉、
そしてあなた自身も具体的に導く「願い」。


このようにこの世界の正体は
「消えない願い」にある。



つまりこれは「消せない虚空」がそこにある
ことを意味する。



結論を急ぐ気はない。
しかし人間以外の全ての存在も
この世界にある「同じ願い」なのだ。


生命の本質は「存在する死」であり、
物質の本質は「存在する歪み」である。
人間の本質は「存在する虚空」である。


2重に重なった有機物、生命(命に空いた穴)。
2重に重なった空間、物質(空間に開いた穴)。
2重に重なった精神、自我(心にある虚空)。



だからこそ全ての生命は同じ命を求め、
物質は物質に引かれ、
希望とも呼べる人間と世界のつながりは強い。



全ては同じ物理学である。


存在する死は消えない空洞、
すなわち虚空と「同じもの」である。
それを埋めるために
そこにベクトル、すなわち求める欲求として
本能は生まれている。


存在する力学は消えない虚空、
即ち空間に開いた穴である。

それを埋めるためにベクトル、
即ち欲求として重力や核力がある。


つまりそれ以前に
力学は生まれていたのだ。



我々人間も同じものである。




そこに世界の根底に存在する、
我々のまだ知らない物理学、
「等価原理」がある。



2018年7月24日火曜日

(連載1)1-3 「自我」という孤独



「確定的に存在する世界」とは異なった、
揺らぎながら透き通る「わたし」という存在。



それは世界の内側と外側のはざまに位置し、
そのどちらでもない、
抜け落ちた空間である。



あなたの外側には世界があり、
あなたの内側にも同じ世界がある。



ではそれを認識するあなたは
一体何処にいるのか?



外側に無限大の世界を抱え、
内側にも無限大の奥行きがある。



それは点である。

あなたは点なのだ。



点の外側には無限大に広がる空間(スペース)があり、
その内側にも同じ無限大の奥行きがある。


では点は、
一体何処に存在するものなのか?




人と点。


 
そこには世界から切り取られて孤立する、
自己の領域とその孤独な時間がある。



存在するのに
存在しないもの。


存在しないのに
存在するというもの。



だからこそ人間は
求め続けることが出来るのだ。




「わたし」は一体何者なのか?と。




探求へと向かわざるを得ない、
自我に仕組まれた
求めることへの願望、衝動、欲求、
あるいはその構造上に生まれた力学。


「自我の重力」


即ちそれは、
自我が他の世界を求めて繋がるための
力学である。


その力学を生むものが
自我の中心にある虚空なのだ。


埋めることの出来ない、
永遠に引き付け続ける空白、空洞。



人間は自分が人間であると気付いたその瞬間から
探求者として目覚め、
探し求めることで人間へと成長する。



自分自身が
孤独である、
という自覚。


それ故に
何かを求める力学。



その探求の先で我々が出会う現実は、
存在と非存在が同列である理解と、
その認識をつくりだす生と死、
創造と破壊の混在する世界である。



その狭間に立つものが、
生と死の間に位置する同じ自分なのだ。



「ある」とは何か?

「ない」とは何か?



世界の内側と外側、
あるいは生と死、
さらには時間の存在する今と存在しない時間、
その全てのはざまに位置する「わたし」が、
存在を保つ自我である。


存在するのに
何処にも本体のない点。


存在する場所が何処にもない、
けれども「存在するわたし」。


誰でもない「わたし」と
唯一の一人称「わたし」。



やがて消滅するであろう
自分自身に対する懐疑と葛藤。



何故わたしは存在するのか。




今はまだ自我として保つこの歪んだ空間も、
やがてはこの狭間の消失と共に解かれて、
この世界に広がりゆくものである。




あるいは穏やかな時の流れにさえ
あがらうことが出来ない、永遠や悠久という蜃気楼。
全てのものは移り変わる。


ではその時間とは
一体何か。



点と同じ今。
何処にも存在しない「わたし」。



そこで我々は理解する。
完全なる不変とは
その内側に創造と終焉を
調和として含むものである。


それはまさに繁栄とよばれ、決して定常ではない。


永遠に完成されない構造が、
完成した世界である。


世界は永遠に広がる。




自我とて同じである。
柔らかく、勢い良く広がりゆくのか、
あるいは固執し執着し、小さく固まるのか、
そのどちらかしか持たない。


保存の原則のない全ての世界。


消滅するのか、新しく生まれるのか。
それを望むのか、望まないのか、だけの違い。



では何故、全ての人間は探求者なのか。




それは全ての我々が
「願い」を持つためである。


希望や願望、欲求や欲望など、
呼び方はちがえども人間を動かすものは
いつも同じ「願い」である。



我々は「求める者」なのだ。



我々は常に不満足を抱えている。

それが全ての人間が持つ物理学である。



自我は孤独になるために
ここに生まれている。




2018年7月18日水曜日

(連載1)1-2 「人間原理」



我々はどこから来たのか。
我々は何者なのか。
我々はどこへ行くのか?



フランスの画家、ゴーギャンの絵画に
この問いかけはある。



人間はその“考える”という本能によって、
ある日突然に認識して自覚する。
自分が「ここに存在する」という現実を。


この世界にある唯一の不純物
「わたし」。


それは自分だけの視点を持った
ただひとりの「わたし」の発見である。



一言で表わすならば、
「この世界とは違うもの」。


異質であり異物であり
この世界から隔離された空間。




つまり人間は、
その存在する自分自身に対しても戸惑い、
得も知れず不安を覚えるものである。



「何故私はこの世界とは違うのだろうか?」



これはひとえに人間の知識では
“理解することのできない事象”に対する驚きであり、
不確かな存在への怖れ、
あるいはためらいかもしれない。



具体的には一人称が必然的に伴なう孤独と、
不完全さが生む心細さや不安。



「私は一体何者なのか?」



自分が認識する外側の世界とは異なる、
その内側で孤立する「(創り出された)独我の領域」。



「わたし」にしかわからないこと。
「わたし」にさえわからないこと。



そこには問わずには
いられない衝動がある。




つまり疑問を生みだす為に生まれた
「私という存在」。



「わたし」が疑問を持つのか、
疑問を持つものが「わたし」なのか。



その答えが見つからないものだとすれば
諦めるために「わたし」はいるのか。


あるいは人間が決して諦めないものだとすれば
探し続けるものが「わたし」なのか。





これは全ての我々が
人間として生まれてきた以上抱えた
「自我の出発点」である。






人間であれば誰もが逃れることの出来ない、
不満足から始まる際限のない渇望。


その中心に
欠落した空間(うねりを伴う枯渇)がある。


人間の心の中心を構築する
決して埋めることの出来ない空洞、虚空。




この心の虚空が、
人間を突き動かすのだ。




これが自我の中に仕組まれた
人間を支配する力学、
「人間原理」である。




ここから「求める(欲求、衝動、願い、希望など)」という
自我の力学が生まれる。
この願いから人間は始まるのだ。



それは全ての人間が宿した
自我を導くベクトル、
人間の行き先を指し示す方位磁針である。






まず、忘れないで頂きたい。
「底の抜けた永遠の虚空」が
全ての人間の世界を創り出している。


人間はそこから拡大する物理学である。




2018年7月11日水曜日

(連載1)1-1「無を理解する科学」

無を理解する科学






第1章

「世界が無であることを証明する
世界が有であることを証明する
無と有が同一のものであることを証明する」





1-1 無を理解する科学


『これから私は、
「わたし」や「あなた」、
そして「全てのもの」の、
本当の物語を書いていきます。


これは宇宙誕生の物語であり、
全能の哲学書、そして真の科学書です。』






私は科学や学問は全ての人間のものであり、
正しい知識を独占して利益を得ることは
誤りだと考えている。


けれども労働に対してその正当な対価を得ることは、
決して間違ったことではないだろう。
なので商業的に言わせてもらえば、
この本はアカシックレコードの現代語訳版である。


全てのことが書かれた宇宙に一冊だけの本、
それがこの本だ。

この本を理解した先には
人間の行き先が見えてくる。



更に私は、あらゆる宗教を否定しない。
信仰を持つ全ての人々に聞いて頂きたいのは、
この本はあなた方の経典や聖書の現代語訳版であり、
全く同じ本だということだ。


2000年前と現代では
理解するために必要となる言葉は異なる。


この本を最後まで読んでいただければ
あなたの理解と同じ内容が書かれていることに
きっと気付けることだろう。



この本はあなた方の更なる信仰のためのものである。


もちろん、あなた方の宗教が
正しいものであることは前提であるが。





この本の主旨はただひとつ、
「無を理解すること」である。


時間も持たず、体積や面積もなく、
長さも持たない、それなのに確かに存在するもの。


それが「点」である。


そうなのだ。


この「点」が「無と同じもの」であり
モナドと呼ばれる「実体の正体」である。




これまでの科学はこの「点」を起点として
それに「数字という記号」をつけて、
そこから始まる理解を我々に押し付けてきた。


「点」ではなく、
「記号(造られたもの)」から始まる科学。


だから真実が見えなかったのだ。
我々の科学の前提は
人間の手による創作である。


だが本当の「点」は、
たとえどれだけの距離を拡大しようとも
永遠に近づくことの出来ない無限大の奥行きをもつ。


つまり点は、
長さも面積も時間も
あらゆる「存在する概念」を持たないものである。


では点がその本体をもたない理由は何か。


何故点は、
その内側に無限大に広がることができるのか。


点が存在でありながら何処にも存在しない
「実体」である現実の視点、
それを我々は理解しなければならない。





それが理解できれば
現実に世界は無から誕生するのだ。


無と同じものとして。


これが全てを無と同じものとする
「等価原理」である。


それが宇宙の誕生の物語であり、
我々の科学の本当の始まりである。



私たちはこれから
「世界の真実」を理解する。
それは全ての人間の疑問に答える、
この世界と存在するもの解答である。




その全てを理解した時、
あなたの意志は宇宙の意志と重なることだろう。



ライプニッツ(微分積分法の創始者)のいう
「窓のない世界」。
それは初めて理解された
一元論である。

それがアインシュタインの発見した
「等価原理」として
宇宙を統一する大統一理論である。




この本は大統一理論について書かれた科学書であり、
同時に真実の哲学書、
全ての存在を理解するための宇宙の物語である。