「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2017年12月12日火曜日
点と線 5
では次に
0以外の他の点にはどんな意味があるのか、
あるいは他の点はどんな概念を持つのか、
それを見ていきます。
まず1番に
考えてみたいのは無理数です。
無理数の代表格は円周率ですね。
これはπです。
およそ3です。
3.145926535897‥
無理数は小数点以下に
予測のつかない数字が延々と続く点です。
まさに終わりの来ない、
決してたどりつくことの出来ない点、
それが無理数です。
けれども無理数もきちんと
「そこにある点」なんですね。
たどり着けないからといって、
円周率が「存在しない」訳ではありません。
簡潔に表すことが出来ないから記号で、
もしくは数式のままで、
そこに「存在すること」を表しているだけなのです。
でも数字であらわすと、
無理数には本当にどこまで行っても
決してたどりつくことが出来ません。
というか、無理数は
絶対にたどり着くことのできない点です。
「そこに確かにあるのに、
どこまで行っても確定することのできない」点、
それが無理数です。
だから「存在する円周率」は
記号で表記するしかないのです。
ここで大事なことは
円周率に代表される無理数は
「存在しない」訳ではないということです。
単に数字で表記出来ないだけであり
ちゃんとそこに「存在する点」だという認識です。
この「存在する点」を理解するために
今度は循環小数を考えてみましょう。
0.333…と小数点以下に
同じ数字がエンドレスに続く点、循環小数。
循環小数も
確かにそこにあるのに
「少数点以下の表記」では
やっぱりたどりつくことは出来ません。
けれどもこの循環小数は
1/3と分数表記にすると正確に確定することが出来ます。
これは3倍すると1となる数字で
キチンと安定してますよね。
0.333…と1/3は「同じ点」です。
このように少数表記では
決してたどり着けない点「循環小数」も、
分数表記でならちゃんと確定する事ができました。
これは循環小数も
円周率と同じように、
たしかにそこにある「存在する点」だからです。
しかし、どこまで行っても続く
「終わらない一つの数字」が、
確定された状態で「存在する」とは
一体どう言うことなのでしょうか?
1/3と確定できる点と
0.333…と表記しきれない点が、
同じ点である、とは、
一体どういう理屈なのでしょうか?
片方では確かに存在する点が、
基準を変えることによって存在出来ない点になる、
ということですかね?
いやいや、どちらも同じ点であり、
それは存在する点ではあるけれど、
数列が対応できてないだけでしょうか?
そこでいま一度、
我々が最も安心して確定することの出来る点、
「普通の整数(自然数)」の性質を確認しておきましょう。
数列上のいたるところに均等に配置され
確かに存在する信頼できる点、
それが普通の整数(ここでは自然数のこと)です。
あるのかないのかわからない前者たち
終わりの見えない無理数などと比べると、
ややこしくもなく、潔ぎのよい普通の数字です。
わたし達も
整数はどこにありますか?と聞かれても
ここです!と
自信を持って示せることでしょう。
えっ、どこですか?
あなたの指の先に!?
よくわかりません!
よくわからないのでその点を
1000倍ほどの大きさに拡大してみるとしましょう。
先ほどあなたが示した小さな点は、
結構大きな円であったことがわかります。
これは点ではありません。
おそらくその拡大された黒丸の中心に、
点の本体はあるのでしょう。
ではその円の中心をもっともっと、ずっと、
出来る限り拡大してみましょう。
「整数の場所」にあった確かな点は、
果たしてその中にもありますか?
いえ、何度くりかえしても、
幾らくりかえして見ても、
点の本体は見えて来ません。
1.0000…
2.0000…
3.0000…
つまりわたし達が
確かに存在すると思っていた普通の整数も、
実は決してたどりつくことの出来ない、
「循環小数の仲間」だったのです。
「確かに存在するのに、
何処にも見つからない点」
決して言葉のあやなどではありません。
全ての点が探せないことが事実です。
円周率が記号で表わすことしか出来ない点だったように、
あるいは分数で表せる点がエンドレスな循環小数だったように、
実は全ての整数も
記号で表わすことしか出来ない点だったのです。
例えば、1や2や3といった「記号」でしか‥
「確かに存在するのに
何処にも存在しない点」
それが数列上の「全ての点」に与えられた
本来の性質です。
それは例え
わたし達に何と名付けられようと、
変わることのない「事実」として存在します。
無理数や循環小数だけが特別な「存在しない点」
ではなかったのです。
整数を含む全ての点が
決して確定することのできない
「存在するのに存在しない点」です。
円周率は何処にあるのか?
終わりのない数字に向けられてきた
わたし達の疑問は、
本来は全ての数字、あらゆる点へと
向けられるべきものだったのです。
点と線 4
0を使うことによって
先に導かれてしまう結論。
マイナスの世界がある!
という概念は、
計算の結果ではなく
実は0を使用した時点で
「最初から決められている」
約束事です。
全ての数字の合計値は0!
これも0を起点とする数列によって生まれた
前提としての決まり事(哲学)です。
本来数列ではないものの「全て」に
0を使っても、
本当に良かったのでしょうか。
マイナス2個のリンゴが
「足りないことを表す表現」ならまだ良いでしょう。
しかし2個のマイナス属性のリンゴが現実に存在する、
などという解釈になれば
目も当てることはできません。
けれどもまず
最初に理解して頂きたいことは
「ないものが存在する点」が0です。
0の概念の正体は
「ないものがある」
これで正解です。
このようにあまりにも特別過ぎる点0は、
明らかに他の点とは違います。
しかし0は
この宇宙に最初から存在した起点などではなく、
後付けにその意味を考え出された道具であることを
覚えておいて下さい。
それは真理を発掘した結果
発見されたものでもなく、
どこにでも存在する「何かの模造品」であることも
すぐに証明します。
2017年12月11日月曜日
点と線 3
では数字の0に
話を戻しましょう。
0は最も特別な点であり、
科学と同じ距離に哲学的な意味も漂う
不思議な数字です。
まずはこの「0という数字」の持つ意味から
探っていきたいと思います。
0は「あるのか、ないのか」と
よく疑問視されています。
けれども0を置くことによって
数列全体を始めることも出来る、
全てのものの基準点が0です。
0を境に正反対の異なる世界が表記されます。
正にあらゆる数字の中庸にあり、
世界のど真ん中に位置する点が0です。
「数列が存在する」こと自体が0に由来し、
0は全ての点の支配者ともいうべき
圧倒的な概念を持ちます。
全ての始まりが0なのです。
「0を置くこと」自体に、
基準を決める人間の意志が反映されています。
では0は、
どこに定めることが正しいのでしょうか。
ただこの「0に付けられた意味」、
つまり「0はあるのか、ないのか」議論には
けっこう簡単に結論が出せます。
0の概念は「ないものがある」で正解です。
何故なら0を置かなければ「全てがない」からです。
「0がある」ということは
数列もある、ということです。
そして「0という言葉」自体は
「あるのにないもの」ですよね。
まあ、これらのレトリックには
特に重要な意味はありません。
しかしこの0は、くせものです。
0は「あれば便利だから」という理由で
人間が勝手に創り出しました。
そして0は、
数学的には大変役に立ちます。
けれどもその圧倒的な支配力は、
0を使用した途端に
世界を半分に折り曲げて、
正負の概念を強制的に作り上げてしまうほどの
強烈なものです。
数字の0は道具ですよ?
昔の頭の良いインドの方が考え出しただけの人工物です。
しかし数列に0を置くだけで
既にその世界観だけで、
数列世界全体に先に
同じ結論を与えてしまうのです。
では0は、
一体どこにあるべきものだったのでしょうか?
2017年12月10日日曜日
点と線 2
例えばこれから
数字の0についてのお話をします。
0は特別な点として用いられ、
数列の基準ともなる特別な数字です。
しかしこれさえも人間の発明品であり、
「数字や数列」と、「点と線」の概念は、
重なりさえすれ
それは決して同じものではありません。
まずその事実を確認するために
この特別な点である0と、
その他の点との違い、
例えば無理数や他の整数などとの違いを
調べていきましょう。
そこに数列に隠された真実があります。
それが点と線の持つ「本来の自然科学」です。
では本題に入る前に
そのことについて少し語らせて下さい。
わたし達の先祖の数学者達は
「点が何かを知らなかった」ために、
点にその呼び名となる記号を与えました。
それ以来わたし達は
やはり「点が何か」を考える前に
「存在する記号」として
数列を理解するようになりました。
わたし達のおかした大きな間違いは、
点に記号を与え
「存在するもの」
として理解したことです。
「前提のある科学」は
最後まで前提を残したままになります。
「0は無いもので、点は存在する」
その前提に疑問を感じることもなく
そこから始めることによって、
わたし達人間は
大きな弊害を(もちろん利益もですが)受け取ってきました。
これは「この世界は神様がつくった」と、
そこから始まる疑似科学と
何ら変わることがありません。
その事実を理解できた時、
道具としての数列の問題点も
数字を科学の基盤として活用することの課題も、
おのずから分かってくることでしょう。
正しい理解がなく、
わたし達がただ「それが正しいから」と
覚えこんできただけの知識に、
きっと驚かれるに違いありません。
だって誰も本当のことを知らずに、
これまではただ勝手につじつまを
合わせてきただけのことだったのですから。
結論から申しますと、
わたし達の科学は
まだ始まっていません。
「本当の科学」を始めるためには、
わたし達には
正しい知識が必要です。
これはそれを理解するための学習です。
2017年12月8日金曜日
点と線 1
わたし達の科学は
人間が点と線とを覚えて
それを利用し始めてから、
大きく進歩しました。
それは人間が
数字を活用する技術
「数学」の誕生です。
わたし達はこの数列の上を
行ったり来たりしながら、
公式を見つけ出したり、
解を探したり
まさに正しさの基準として
数学を利用して来ました。
線は無数の点のつながりであること、
点は二本の直線の交わった一点であること、
線はその長さによって範囲を表すことができることなど、
点と線の運用は
わたし達の科学の出発点にあります。
そんな数学の基本でありながら、
数列と公式によって
わたし達の世界の全てが理解できると、
ほとんどの物理学者達は考えています。
それは正しくもあり、
けれども大きな間違いです。
点と線の概念は確かにあります。
そしてそれを活用することは
決して間違ったことではありません。
けれども我々が数学で利用する数字や数列は、
計算の前提として作り出された「道具」であり、
これは0という数字にしても同じことです。
わたし達には科学に対する信頼として、
数学が知識の前提になるという認識や、
その理解があります。
しかし数字や数列は、
人間の文化や歴史としての側面も色濃く、
それは理論的な哲学のひとつに
過ぎないということを
わたし達はまず理解しなければなりません。
つまり普遍の真理を表すと
考えられている方程式でさえ、
その根底には人間の考え方や捉え方といった
思い込みが先立っているのです。
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