第21章 窓のない世界
21-1
全ての次元世界の階層には
「同じ力学」が働いている。
それは「満たされることのない空間」が
同質の同じ空間を引き寄せる力である。
この力学を物質が持てば重力であり、
生命が持てば本能と呼ばれ
これが人間における自我の欲求である。
いや本当は違うのだ。
この世界には力学しか存在しない。
重力が生まれたから物質は現れ、
本能によって生命は誕生し、
自我世界が人間を創り出した。
重力は物質を選ばない。
本能も生物を選ばない。
自我も人間を選ばない。
つまりこの世界は存在しないのだ。
何故なら物理学の最初の約束が
「この世界には何も存在しない」だからである。
その為に
点は存在を示す面積がなく、
「長さ」しか持てない線は存在ではなく、
存在するはずの世界は
存在しない長さ「今」の中に閉じこもり、
生命は死であり、
自我は消える。
だがこれによって
点は永遠の奥行き(広がり)を持ち
「長さ」は体積となり、
時間は無限大に連鎖を続け、
生命は無限の可能性であり、
自我世界は永遠である。
無が永遠に無であり続ける状態、
これが力学なのだ。
あなたの、我々の今感じるこの世界が
永遠の無の世界である。
もちろんあなたや私も
同じ無の一部分である。
この世界は祝福されている。
最初から最後まで統合されて、
そして永遠に完成へと近づく。
我々は常に
希望へと手を伸ばし続ける喜び、
そのものなのだ。
今「次元理論」を理解することのできた私には、
次元世界の階層を吹きぬける一種の風を
感じとることができる。
それは私がまだ幼少のころ
今は過疎化のすすむ故郷で、
緑の草はらに寝そべり
大地の匂いを感じながら空を見あげた時、
私を包みこんだ優しい風と似ている。
そして天文少年であったころ、
あまりにも圧倒的な星々の存在に
押しつぶされそうになった私を、
しっかりと支えてくれた大地の力強さと安心感を
思いださせてくれる。
さらにそれは広がりはじめた私の自我を、
温かくささえてくれた両親や恩師たちに重なる。
そのころから私は自発的に
「宇宙と自我の探究」をはじめたように思う。
それは一つの同じ世界であった。
おそらく太古の人類も
この宇宙を見あげた時
はじめて己の中の世界に気づき、
大宇宙の中に自身の存在を探しはじめたのではないだろうか。
大都会で暮らす多くの方々には理解し難いことかもしれない。
だが実際の「大宇宙」は、
我々の目前に迫りくる世界である。
人間は宇宙にいる。
宇宙飛行士のように空に登らなくとも、
圧倒的な輝きと空間は
我々のすぐそばにある。
天空を斜めに切り裂く天の川は
銀河系の断面図である。
視界には収まらないそのスケールに
人間は永遠を感じるはずだ。
この視界を覆うほどの天の川が
砂浜の砂のわずか一粒だという。
透き通って最果ての奥まで見渡せるはずなのに、
何も見えない、何も聞こえない、
あまりにも深淵で静寂の世界。
それは止まった時間と空間が自覚できる瞬間である。
けれども「ここ」にはすぎゆく時間があり、
去りゆく者たちがいる。
だがあらゆるものが移りゆくその中で
「わたし」だけが変わらない。
けれども「わたし」の中の「かれら」も、
決して変わることはないのだろう。
「わたし」の求めに応じ、
わたしの自我世界を自由に行き来する「かれら」。
「わたし」はいつでも、
「かれら」を求めることができる。
「わたし」の中で新たに生きる「かれら」。
そして「彼ら」の感じてきた疑問を
「私」も今、一緒に感じている。
無数の星々にかこまれて迷子になる体験は、
知識としての理解をこえて
実際に体感した者にしか解らない。
地球に存在する「わたし」が
宇宙に漂う「わたし」となる瞬間、
我々は宇宙を知覚する自我である。
けれどもその環境を失いかけた今、
我々は親として、あるいは人として、
次なる世代にもこの環境を
手渡していく必要がある。
人間はいつだってこの宇宙の中でしか
生きていくことはできない。
宇宙や自然を体験するということは、
その事実を理解することである。
我々はこの宇宙の中に
人間の「自我世界」を見つけだすことができる。
あなたの見る世界と
あなたの中にある世界は等しい。
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