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2020年6月17日水曜日

(連載15)15-1我々は何処へ向かうのか(1)

15章 

我々は何処へ向かうのか(1)





15-1自我の本質




生物としての人間の命を直接的に位置づけたのは、
第6次元「生命世界」である。


「次元共有の大原理」によって
生命世界で命へとあたえられた原理や法則は、
そのままで第8次元「自我世界」にも
多大な影響を与えている。


そしてこれまでも述べてきたように、
次元世界は広がるものであり
時間は流れつづけ、
そして生命世界は拡大するものであった。


その全てが世界原理として
無の完全無へと向かうベクトル、
すなわち無があらゆる概念の方向へと連鎖する
「存在する無」の拡大である。


世界も命も自我も無の同じ連鎖であり、
力学としてのみ現れる事象なのだ。


この「世界原理」において
生命世界の種族拡大の法則は生存本能を生みだし、
生存本能もまた生命世界のさらなる拡大のために
精神構造を創りだしている。


そして精神世界もさらなる生命概念の飛躍をもとめた結果、
我々人間(広義的な命)は自我世界(人間的な命)を宿す。




つまり「自我世界」にとっての命題は、
ほかの多種多様な生物たちと同様に
「拡大し創造する為の生存」という目的である。
それは力学エネルギーの正しい流動として
自然そのものである。
そのことが生命世界全体の繁栄であり、
生態系の拡大の原因、または結果となる。




第6次元「命の世界」や第7次元「精神世界」、
これら「生命の次元世界」が
その存在意義としてもつ「拡大」の概念。



その「世界原理」が昇華した結果、
人間は第8次元世界として「自我」を持つ。
したがって自我は、
生きのこるという「生態系の命題」のために、
第6次元生命世界や第7次元精神世界からも開放された
「さらなる宇宙の空間(無の広がり)」である。



この「開放された自我世界」によって、
人間はその生存本能すらも
自らの手でたち切るという判断ができてしまう。
けれども本来の「自我世界」は
生命世界と精神世界の限界をこえて広がり、
「生態系の多様性」としての可能性を担うものであり、
同時にその責任を背負う。


つまり自我世界は、精神世界の一部分であり、
生命世界や物質世界の一部分でもあるということなのだ。



そのために「自我の本質」には
「生きていたい」という根本的な意志が、
支配力(本能)を伴って働く。



したがって自我がもつ全ての空間の根底には、
必ず「生きのこるための本能的な意志」がある。
それは単に自己の意志ではなく
無の連鎖から引き継がれた
宇宙のベクトルである。






次元原理においての「時間軸」は、
止まることなく永遠に流れる
空間概念である。


そしてその概念の実在が、
物質世界にも「永遠に広がる」という構造
(次元世界の命題)をもたらした。


この「移りゆく時間」という概念は
全ての次元世界に「失われる概念」と、
同時に「新たに生まれる概念」を創りだす。


これが無の連鎖の
新しい概念方向へ向けての拡大である。


この連鎖が「(永遠に)存在する無」という
世界が現実に継続するための力学(原理)なのだ。






したがって物質世界を共有する生命世界に
「生命世界拡大の法則」があるのも、
精神世界が死を恐れ遠ざけようとする「本能」をもつことも、
自我世界が「生きることを強く望む」のも、
全てはこの「時間軸が実在する」ためである。




「時間」がもち去るものは、
空間であり、物質であり、
命、感情、記憶であり、全ての世界である。



だからこそ空間は
存在するために新たに連鎖をつづけ、
物質は何度も創りだされ、新しい生命は誕生し、
記憶を引きつぐための文化や文明も創りだされたのである。



自我世界の意志(希望)も、
失われるものだからこそ
そこに新たに生まれるものなのだ。





そしてこの「時間」という概念を
共有という形で創りだしたのが「空間」であり、
空間はもともと「無」が生みだした概念世界である。



「完全無」が「無限大」と同義であることは
何度も言及してきたが、
極論としての「完全無」とは
「あらゆるものが存在できる唯一の状態」を指す。



ということは当然、我々の自我世界も
この「完全無」にささえられた次元世界であり、
「実在する無の概念」の連鎖によって
この世界に新たに発現した無限大の空間の一部分である。




ゆえに自我世界も「無(モナド)」であり、
あらゆる概念が存在できる「次元世界」である。






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