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2020年6月24日水曜日

(連載15)15-2自我はモナド






多重次元世界の構造は、
元は全く同一で単独のベクトルの広がりである。


これが「存在する無」の力学であり
世界にひとつしかない「存在する」の理由、
大統一理論の完成形、
すなわち真の科学である。


その点、現代の我々の「科学」はまだ作り物でしかなく、
その根幹は人間による身勝手な定義付け、
もしくは無知である。



我々は定義と原理を同一視によって神聖化し、
疑問や不可解はその中へと押しやっている。
疑問を許さない「前提」として。
その結果、世界は疑問や不可解で溢れてきた。


科学が真に正しければ、
宇宙の始まりと終わりにも
科学は必ず正しく行き着くことができる。


最終的に宇宙物理学は、
我々人間にこの世界が与えた
答え合わせの場なのだ。


本来の原理とは「理由がある故の前提」であり
それは自然、つまり力学の科学的な流れとして
全てに理解をもたらす。
そして定義とは、
ベクトルの方向性によってのみ決められるものであり
十分な理解の基に成り立つものである。








さてこの次元理論では
我々の「自我世界」も無の属性をもつ
「第8次元世界の起点」として位置づけている。

(存在する無)
線、
面、
空間、
時間、
物質、
命、
精神、
これら次元世界の異なる
「存在に対する概念」として
自我世界の力学を理解する。


線の中では長さを持たない点。
点は線世界の存在ではなく
部分しか持てない実体である。
点の連鎖(ベクトル)
線世界なのだ。


つまり線世界自体も存在ではなく
実体である。
そして線の連鎖(ベクトル)
面世界として線にはないはずの面積の概念を
創造し空間を広げていく。


空間の中では体積を持たない面、
時間の中で部分を持たない空間()
物質(閉ざされた時間軸)の中での空間を持たない生命、
命の中で物質を持たない精神世界、
このように全ては
力学の連鎖によってのみ同一なのである。


全であり、完璧な個であり、
あらゆるものと同一で
全ての部分を持たない「自我」世界、
すなわちこれがモナド(力学としての実体)である。


これは全ての概念が
「存在ではなく実体」
だからこそ起こり得る「事実」である。


第8次元を現実に構成する要素、
あるいは第8次元世界の「起点」、
あるいは自我世界の「実在する無の概念」、
それが我々の「自我世界」なのだ。




2020年6月17日水曜日

(連載15)15-1我々は何処へ向かうのか(1)

15章 

我々は何処へ向かうのか(1)





15-1自我の本質




生物としての人間の命を直接的に位置づけたのは、
第6次元「生命世界」である。


「次元共有の大原理」によって
生命世界で命へとあたえられた原理や法則は、
そのままで第8次元「自我世界」にも
多大な影響を与えている。


そしてこれまでも述べてきたように、
次元世界は広がるものであり
時間は流れつづけ、
そして生命世界は拡大するものであった。


その全てが世界原理として
無の完全無へと向かうベクトル、
すなわち無があらゆる概念の方向へと連鎖する
「存在する無」の拡大である。


世界も命も自我も無の同じ連鎖であり、
力学としてのみ現れる事象なのだ。


この「世界原理」において
生命世界の種族拡大の法則は生存本能を生みだし、
生存本能もまた生命世界のさらなる拡大のために
精神構造を創りだしている。


そして精神世界もさらなる生命概念の飛躍をもとめた結果、
我々人間(広義的な命)は自我世界(人間的な命)を宿す。




つまり「自我世界」にとっての命題は、
ほかの多種多様な生物たちと同様に
「拡大し創造する為の生存」という目的である。
それは力学エネルギーの正しい流動として
自然そのものである。
そのことが生命世界全体の繁栄であり、
生態系の拡大の原因、または結果となる。




第6次元「命の世界」や第7次元「精神世界」、
これら「生命の次元世界」が
その存在意義としてもつ「拡大」の概念。



その「世界原理」が昇華した結果、
人間は第8次元世界として「自我」を持つ。
したがって自我は、
生きのこるという「生態系の命題」のために、
第6次元生命世界や第7次元精神世界からも開放された
「さらなる宇宙の空間(無の広がり)」である。



この「開放された自我世界」によって、
人間はその生存本能すらも
自らの手でたち切るという判断ができてしまう。
けれども本来の「自我世界」は
生命世界と精神世界の限界をこえて広がり、
「生態系の多様性」としての可能性を担うものであり、
同時にその責任を背負う。


つまり自我世界は、精神世界の一部分であり、
生命世界や物質世界の一部分でもあるということなのだ。



そのために「自我の本質」には
「生きていたい」という根本的な意志が、
支配力(本能)を伴って働く。



したがって自我がもつ全ての空間の根底には、
必ず「生きのこるための本能的な意志」がある。
それは単に自己の意志ではなく
無の連鎖から引き継がれた
宇宙のベクトルである。






次元原理においての「時間軸」は、
止まることなく永遠に流れる
空間概念である。


そしてその概念の実在が、
物質世界にも「永遠に広がる」という構造
(次元世界の命題)をもたらした。


この「移りゆく時間」という概念は
全ての次元世界に「失われる概念」と、
同時に「新たに生まれる概念」を創りだす。


これが無の連鎖の
新しい概念方向へ向けての拡大である。


この連鎖が「(永遠に)存在する無」という
世界が現実に継続するための力学(原理)なのだ。






したがって物質世界を共有する生命世界に
「生命世界拡大の法則」があるのも、
精神世界が死を恐れ遠ざけようとする「本能」をもつことも、
自我世界が「生きることを強く望む」のも、
全てはこの「時間軸が実在する」ためである。




「時間」がもち去るものは、
空間であり、物質であり、
命、感情、記憶であり、全ての世界である。



だからこそ空間は
存在するために新たに連鎖をつづけ、
物質は何度も創りだされ、新しい生命は誕生し、
記憶を引きつぐための文化や文明も創りだされたのである。



自我世界の意志(希望)も、
失われるものだからこそ
そこに新たに生まれるものなのだ。





そしてこの「時間」という概念を
共有という形で創りだしたのが「空間」であり、
空間はもともと「無」が生みだした概念世界である。



「完全無」が「無限大」と同義であることは
何度も言及してきたが、
極論としての「完全無」とは
「あらゆるものが存在できる唯一の状態」を指す。



ということは当然、我々の自我世界も
この「完全無」にささえられた次元世界であり、
「実在する無の概念」の連鎖によって
この世界に新たに発現した無限大の空間の一部分である。




ゆえに自我世界も「無(モナド)」であり、
あらゆる概念が存在できる「次元世界」である。






2020年6月10日水曜日

(連載14)14-4永遠とは2




自我世界がこの「無限大の時間を生きなければならない」
という命題にたいして、
人類の染色体には寿命が確認されたりもしている。


その他にも人間には
いくつものほころびがある。


けれどもこれは幸いなのだ。


このことは裏を返せば、
人類のさらなる進化を示唆する。



生命世界における「完全体」は
もはや終焉に等しく、
不完全の連続、あるいは永遠の未完成こそが
「完成された次元世界の姿」である。


そのことだけが次元世界に
「さらなる可能性」を育んでいく。


人類によらず、全ての次元世界の「個」の存在は
「全」と同じ比重であり、
それは全と同一であるために強靭で尊い。
逆に「全」もそれだけに儚く弱いものなのだ。



全ての時間の起点である「今」も
「わたし」と同一である。



今という時間の中に生きるのは「わたし」のみであり、
「全てのあなた」が「わたしである」のが事実である。


我々は「一人の次元世界」として、
時間や想い、そして知識を、
後世に、あるいは他の人々へと
つながなければならない。


人間は点であり、
かつ点ではなく線へと向かうベクトルである。



そしてそれらを引きつぐために自我は、
最初に「白紙の状態」で誕生する。


我々は彼らに「成長するための自由」を用意し、
彼らが「つながる先の世界」を
たえず切り開かなければならない。


そして彼らも成長し同じことを成し、
しかし彼らのもつ可能性はいつだって
今の我々に勝るはずである。



自我は「無限大のベクトルである」ことを
自我自らが正しく理解しなければ、
自我世界のもつ可能性は
極端にせばめられてしまうことだろう。


そして人類が「自らを正しく知る」ということは、
第8次元「自我世界」にとっても、
全ての世界にとっても重要である。


自我が「理解する者」でなければ、
世界は疲弊し失われる可能性を強めるのだ。



現代でもすでに「理解した人々」は、
「平和」や「多様性」、
そして「共存」を訴えている。


次元原理のただ一つのつながりから否定されて、
自我世界が失われることへの恐怖、
それを人間は自覚しなければならない。


そしてそれをより深く理解するための手法が
「次元理論」を学ぶこと、
すなわちこの世界を学習することである。






但しここまでの「次元原理」は私の考察にもとづいて
取りあえずに考えだされたものであり、
学問としての真価の検討は不十分である。


私としても「次元理論誕生のため」の叩き台として
この文章の執筆意義をとらえており、
今後数多くの議論や検証が後につづくことを願う。


現代の我々の科学や見聞は
あまりにも未熟なのだ。
それを「学問」として信仰することの危険性を
私は指摘する。



さらに私は、次元理論を「知識の泉」とも考えている。


「世界はなぜ存在するのか」
「人間はどこから来たのか」
「我々は何者なのか」

という難問でさえ、
次元理論があればこのように
ひも解くことができたのである。


次元理論によって「知識の始まりを理解すること」は、
今後の人類のいかなる困難にたいしても、
有効な手段を生みだす手法ともなることに
私は期待する。



さて、けれども本書のテーマには
さらなる「難問」を掲げていた。


それは「我々はどこへ向かうのか」である。




この章に至り「自我世界は無限大へ向かうベクトル」として、
その方向性は打ちだすことができたと思う。


無の無限大の連鎖の
「存在することに対する」方向への拡大が
そのままで自我世界である。


けれどもそれは「人間の解」のまだ前提部分にすぎず、
次元理論のもたらす知識「全て」ではない。



そこで次章からも引きつづき
次元理論を展開させて、
さらなる知識の高みへと
この挑戦を続けていきたい。


それは我々が
人間と世界にたいする「根本的な理解」を手に入れて、
それをさらなる歩みへ生かすための
「必要な知識」である。




さあ、自我世界の探求を続けよう。










2020年6月3日水曜日

(連載14)14-3永遠とは1



永遠とは、
創造と終焉が常に内側に含まれるものであり
それが全としての外側の拡大である。


それは世界の「姿」であり、
これが存在ではないベクトルとしての実体なのだ。


終わりは始まりであり
独我は全ての宇宙である。


内側は外側と変わらず、
あなたも実際には自我の外側にいる。




この真理において、
銀河系が内なる恒星群に
命と寿命とをあたえながら存在するように、
第8次元自我世界は思考と経験を生みだして
且つそれを忘却することによって
連続する「宇宙」を発現させている。


あるいは幾億もの自我の誕生と終焉によって
はるか未来までつながる「宇宙」、
それが自我世界という人間の意志である。


つまり「あなた」の意志である。



何度もくり返すが
我々の自我世界はこの大宇宙とも、
あらゆる全ての生命とも、
全く同質である。



はじまりある物には必ず終わりも訪れる、
これも「時間の概念」としては妥当だろう。
けれどもそれ以前に我々の「自我世界」は、
無の属性が生み出した「次元世界」なのだ。


「命」に死をのり越えるための「創造」が宿るように、
自我にも自我世界を広げつづけるための能力が
「創造」されていく。
自我世界は常に
この世界と共にあるものである。


空間の無いものは世界ではない。
時間の無いものは世界ではない。
命のないものは世界ではない。
自我なきものもまた同様である。


富ナルレキ史ヲ見テ、和ヲ輝ラス。
拡大する自我世界。


これは正しい文明をもち、
世界が正しく拡大するための
「自我世界の有るべき姿」である。


全ては正義ではなく、
物理学的な正しさなのだ。



そしてそのことを知るために、
自我世界には際限のない
無限大へと向かう能力があたえられている。



我々はそれを忘れてはならない。



全ての始まりの時に
我々は既にそこにいたはずなのだ。



つまり生命世界が「次元世界」であり
自我世界もまた「次元世界」であるのならば、
我々はいかなる困難や逆境にも負けることはなく、
これから先も永遠に
自我世界を広げつづけることが可能である。



生命世界の希望、宇宙の夢、星々の願い、
それが自我をもつ人間の「存在意義」である。
そのためにいつか訪れるかもしれない終焉などにとらわれて
虚無へとむかうことなどは、
第8次元である「自我世界」には許されていない。



自我である我々はその事実を正しく理解し、
実行する必要がある。


自我世界を宿した人間には
あらゆる可能性が育つことを、
人間は可能性を生みだすものであることを、
この世界の多様性の一部分であることを、
我々は理解しなければならない。



実際にあなたのもつ「生」は、
誰かの「命」や
この宇宙に出現した数多くの「命」の、
その延長線上に存在する。


その命は点ではなく、
全としての線の概念を持つものである。


つながった命のその中に
部分を持たない、
「あなた」というひとりの存在がある。


それはそれだけで全ての命とも等しい
ひとつの生命世界なのだ。


つまりあなたがもって生まれた「命」も、
それは単にあなただけのものではなく、
あなたからはるか未来へとむけられた
「無限大をささえる次元世界の直線の一部分」である。


そのためにひとりの人間の「生」はかぎりなく尊く、
他人の「生の拡大」に影響をあたえられる人間は気高い。


したがってたとえ何があっても、
あなた自身の「命」を
あなた自身が放棄することは許されない。




一人の人間がつなぐ次なる宇宙の存在は、
「全ての宇宙」とも同等の重さの可能性である。
それはあらゆる全ての宇宙と等しい
同じ次元世界としての宇宙なのだ。


今のあなたがもつ「無限大の可能性」も、
それはあなたの生涯とともに消えるものではなく、
あなたからその先の未来へと向けて
常に引きつがれるべきものである。


同じ命や想いとして。
そして記憶やこの世界の一部として、
ありとあらゆる形で。



自我世界は「生命世界」の持つ
「本能の限界値を越えるため」に
生命が人間に発現させた新たな可能性である。


人類がその自我によって
生命世界の限界点を超えていくためには、
まだまだ時間は必要かもしれない。


けれども現在、
すでに宇宙空間での活動をつづける人々がいるように、
自我世界は生命世界の限界点を超えていける可能性を
十分に持っている。


我々は自我をもつ者の責務として、
自我世界に「終わりなき時間と可能性」を
与えつづけなければならない。


我々が「今を生きる」ということは、
そのままで「命を未来へと繋げる」
「未来のための歴史を創る」
という事である。


ある世代の人類が確かな「今」を生きつづけた証し、
その積み重ねが、今と未来の人類が立つ
確かな起点である。


そしてその中にこそ、次なる可能性は生まれる。


自我世界がつなぐ最も重要な想いとは、
あるいは「時間」なのかもしれない。