豊かな精神世界をコントロールするための存在として、
初期の自我世界は発現した。
世界原理としての拡大の力学、
生命原理としての拡大の力学、
その同じ拡大のベクトルに乗って命を更に飛躍させる為に
自我世界は生まれたのである。
自我世界も根本は同じ
拡大する宇宙の空間、力学なのだ。
ではこうして命に広がった自我世界は、
その後どのように発展し
現代の我々の自我世界へと成長したのだろうか。
考察を続けよう。
自我世界の発現は、
まちがいなく人類を生態系の頂点へと
押し上げる事へつながった。
それは種としての適応力を遥かに凌駕する
個々の多様性による
生命の急速な拡大の可能性であった。
感情は本能を拡大させて、
自我は感情世界を拡大させるという
生命力の加速的拡大が起きたのだ。
その結果人類は地球上のあらゆる場所で、
あらゆる環境へと適応し、
その個体数を爆発的に増加させることに成功する。
この事態がまねく結末は、
人間の集団における優劣争い、
あるいは同族でのはげしい縄張り争いという、
人類内における苛烈な闘争を生みだすことであった。
このように人類の初期の自我世界は、
精神世界や本能世界の拡大のためにこそ
存在したのである。
しかしこの混乱は、
当時の人類にとっても大きな痛手であった。
それまでの外敵にもまさる新しい脅威として、
同じ人間である「自我世界」が
人びとの前に立ちはだかったのだ。
その結果、本能世界の拡大だけでは、
もはや個体維持の原理、
あるいは種族拡大の法則は果たしきれない状態となり、
ふたたび「自我世界」は本能世界を乗りこえるべく
さらなる進化をとげる。
けれども悲しむべきか、
拡大した「自我世界」は
精神世界や本能世界の重力も同時に肥大化させる。
このことは「次元原理」において、
「相互の次元世界の共有」という現実があるかぎり
当然の結末として用意されている。
つまり自我世界の高度な発達は、
より強い本能的欲求と精神世界の願望の拡大を
うながすことに繋がる。
人間がもつ「飽くことなき挑戦」と
「足りることを知らず」という態度は、
自我が次元世界であるために
決して失われることのない「次元世界の性質」として
我々に発現したものである。
現代に至り、はたして人間の自我世界は十分に飛躍し、
安定期をむかえることが出来たのだろうか。
私はまだだ、と思う。
自我はその「安住の地」を見つけるまでは、
決して満たされることはないのだ。
そしてそのためにこそ著者は
この次元理論を役立てていただきたい
と願うのである。
全ての解答は「宇宙の姿」にある。
次元理論では、
第5次元「物質世界」までが
生命に生存するための環境をあたえた。
そして第6次元「生命世界」が
命の繁栄のための法則、本能である。
さらに生命世界の飛躍をめざしたのは
第7次元「精神世界」である。
精神世界は本能を増大する。
そして精神世界の拡大だけでは
生命世界のさらなる飛躍は果たされないとなった時、
「自我世界」は発現する。
だからこそ「自我世界」には、
感情や欲望を乗り越えるだけの力がある。
そのことは同時に
自我世界が生命原理や精神世界における
いくつかの原則からは自由を得て
「開放された次元世界」として存在することを意味する。
このことからいえるのは
自我世界を宿すということは、
第6次元「生命世界」や第7次元「精神世界」の望む
一つの目的でもあったということである。
なぜなら命や精神が「自我世界を宿す」という事は、
そのままで第6次元や第7次元世界にも飛躍的な広がりを
生みだすことにつながるからだ。
自我世界とは世界の規制にさえぎられることなく
その「自由意志」で、
自己の存在を拡大する能力である。
その状態を求めてこそ、
生命世界や精神世界は「自我」という状態を
望んだのである。
そしてこれは生命世界を生みだした物質世界、
物質世界を創りだした時間世界、
それ以前のあらゆる次元世界にたいしても
同様に言えることなのである。
結論は
「無は自我であることを望む」。
ともすれば人間をこの世界の中心へとおく、
人間原理にもかたむきそうな認識であるが、
全ての存在が「共有すること」によって
実在する現実を
我々は忘れてはならない。
同じものの無限大に連鎖した姿が自我世界なのだ。
この世界の構造を否定することは
そのままで自己に対する否定であり、
存在への疑念である。
たとえ自我世界が
生命世界の弱肉強食の原理から解きはなたれ、
肉体的な不備をその技術と知識とで乗りこえたとしても、
人間は決して「次元共有の大原理」の外がわでは
生きていくことは出来ない。
存在しつづけること、
広がること、
そして新しい世界を生みだしつづけること。
次元原理はもともと「完全無」によって生みだされた、
あらゆる次元世界のもつ共通の「力学」である。
そしてこの次元原理を
「無のもつ概念的な願い」として認識することは
可能なのだ。
そしてこの世界の存在の全ては
「完全無」によって生みだされた次元世界である。
だとすれば「完全無」とは極論
あらゆるものが実在できる唯一の状態である。
では時間であることを望み、
宇宙であることを望み、
自我であることを望む「完全無」とは、
一体何か。
なぜ「彼ら」は「望む」という概念を持ちえるのだろうか。
もちろんそれを
神という言葉で理解する人々もいるだろう。
けれどもここでは、もう少し考察をつづける。
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