「重力」は、
「原子と原子」を融合する力学である。
それは「失われた空間」が、全ての空間を引きつける力なのだ。
原子は「物質」ではなく
「空間の構造」である。
物質はどこにも存在しない。
そして「生命のもつ本能」は、
「命と命」を融合する重力である。
それは「存在しないはずの命」が
無限大の広がり(完全無)を生むための連鎖である。
生命は存在しないものであり、
それはただ、物質の物質を引きつける力学である。
このように次元世界の概念はちがっても、
「原子」や「命」などの「次元世界の起点」に共有される力学には、
共通の世界原理が発現する。
同じ概念と同じ構造をもつ、異なる次元世界。
だが全ての次元世界も
ひとつの大きな世界の同じ部分であることに変わりはない。
ここに異なる力学はないのだ。
それが「存在する無」によって生みだされた、
あらゆる次元世界の根本的原理である。
そのために「原子の誕生から宇宙の構造」までを理解することは、
そのままで「生命の誕生から生態系の構造」を理解することへ
つながる。
これは驚くべきことではない。
全ての次元世界は「世界原理」と共有するために、
あらゆる次元世界も「世界原理」によって統括されている。
それが「ひとつの世界」であることの仕組みなのだ。
だからこそ現実世界には、
これまでの我々には理解できなかった「偶然の一致」が、
必然のごとくあふれ出したのである。
我々はそこに出現した統合性に気づき、
ある者は大(超)統一理論の存在を予感し、
ある者は神による世界の創造を確信した。
そしてここで行われた定義づけだけが、
「次元世界」の全てではない。
この世界には、他にも幾つもの次元概念が混在する。
世界のもつ「多重次元構造」の意味を知れば、
この「世界原理」の正しさも
同様に理解することができるだろう。
完全無を知ることによって宇宙を理解する。
宇宙を知ることによって生命世界を理解する。
生命世界を知ることによって人間の存在を理解する。
それが次元理論という科学である。
だからこそ「無を理解すること」は、
「あらゆる存在の理解」へとつながる。
全ては「世界原理」の中に含まれた世界であり、
「この世界は力学の中心に存在する、存在しない世界」である。
そしてその全てが
「この世界は存在する無」
というただひとつの現実である。
我々の認識からすると「命」は
短くもはかない。
けれどもたくましく、可能性に満ちた存在である。
これは「命」が「無(個)」であるのと同時に
「無限大の概念(全、完全無)」を持つからである。
つまり「生命」は
「あるのにない」という「無の概念」をやどし、
その拡大によってゆるぎない生命世界を構築する
生命世界の力学である。
このようにある次元世界の全てを構成する要素が、
世界の起点「実体」である。
したがって現実における全ての「次元世界の起点」も、
次元世界では同様の「実在する無の概念」でなければならない。
「無」、「点」、「線」、「面」、「空間」、「今」、「物質」、「生命」。
これらの全てが同じ、
それぞれの次元世界における「無」であり、
「次元世界の起点」実体である。
全て同じひとつの無だったのだ。
存在する概念世界が異なるだけの
同じ「存在する無」である。
そしてその全てが「単独で存在する宇宙」であり
「無の無限大の連鎖として完全無と等しい次元世界」である。
この力学の等価性が
等価原理の成立する仕組みであり、物理学である。
「存在する無」は、
永遠に続く無の連鎖として「完全無」と等しい。
それは「無限大」である。
だからこそ生命世界の起点「命」にも、
環境へと適応し、無限大へと向かうための
あらゆる能力が発現(力学の発現)する。
このように「生命世界」が
物質世界に「命」という構成要素が付加されて誕生した
別次元の宇宙であることに、疑う余地はない。
我々の宇宙は、「次元世界」の概念のみで成りたつ、
「多重次元構造」によって成立する。
つまりその始まりは常に「無」(実体)であり、
全てが無である以上、
世界には未だ「完全無」しか存在しない。
我々が認識する「自然」は、
生命世界と物質世界の両方が重なり合った世界である。
この両者は我々にとって常に
「正しい宇宙の姿」をしめす模範でもあった。
そして人間がまだ大自然にかこまれて暮らしていた時代、
人類が生きるために必要な知識は、
この自然を「学ぶ」ことであった。
当時、彼らの創りだした思想や哲学が「正しかった」のは、
彼らにとっての知識が「自然への探究」から生まれた為である。
世界に実在する真実と、それをやどす自然世界。
そのことにも人類は、最初から気がついていたのだろう。
だからこそ我々は
これまでの長い歴史において、
この宇宙や自然をたえず見つめつづけてきたのだ。
我々の拡大のための力学として、
必然的に世界に真実を求め続けてきた。
自分たちが何者なのか、
その答えを探すのと同様に、
この世界はなぜ存在するのか、
その解答をつねに探しながら。
そして我々の全ての疑問にも答えうる
「完全なる知識」が、
この世界には描かれていることを
人々は確信をもって信じていた。
世界賛歌、人間賛歌、世界信仰、世界原理、
あるいはそれは芸術とよばれたかもしれない。
我々はいつの日かそれが、
ひとつに結びつくことを夢見ていたはずである。
人々が自然から離れ、
部屋の中で数式とのみ向きあうようになったのも、
もとはこの「自然」を理解するためである。
学問もいつしか自然から離れ、
やがて数字や数式を基盤とするものへ変わった。
けれどもそれも、決して間違った歩みではないのだろう。
世界を理解するというひとつの目的の為に
我々はただ分岐したのである。
そこで生まれた知識と
その共有があるからこそ、
この「次元理論」も
あらゆる知識の原点へともどることが出来たのだ。
自然を「知る」ための科学を、
自然を「理解する」ための科学へと変える、
それが次元理論の視点である。
科学は理解するものである。
この「次元理論」は「彼ら」の長きにわたる探究にも、
十分に答えられる内容となっただろうか。
あるいは彼らを満足させられる理論として、
今後も成長することが出来るのだろうか。
いま私は切に、「彼ら」に問いかけたいと願う。
次元理論の真偽を決定づけられるのは、
やはり同じ「人間」でしかないのだから。
そしてその同じ思いから、
私はより多くの「あなた」へと、
この「次元理論」を届けたいのである。
我々が理解しなければ
世界は閉ざされたままなのだ。
人間が人間を孤独なものと捉えるのか、それとも
この世界を自らと同じものとして認識できるのか、
それは知識によってのみ
導かれる現実である。
孤独のまま死ぬか、
世界の希望として生きるのか、
その選択肢は我々にある。
私は無知でいることが恐ろしい。
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