次元理論によって構築される世界は、
物質で出来た我々の宇宙「第5次元世界」まで来て
いよいよ終結するものだろうか。
いや、そうではない。
この「物質世界」もまた次なる共有を生みだして、
さらなる次元世界へと昇華する。
無の無限大の連鎖は物質世界を貫いて
新たな概念世界を構築している。
そして「物質世界」を土台に広がる新しい概念世界の出現、
これが「第6次元生命世界」の誕生である。
次元理論は
この宇宙が永遠の時間と無限大の空間の中に
存在することを明らかにした。
更に我々の宇宙では、
物質たちは日々「存在する」と「存在しない」とのはざまで
激しくゆれ動いているのだ。
その物質たちの無数のいとなみの中で、
ある特定の条件下におかれた特別な物質が
「生命」へと展開する。
それは新世界の創造であり、
新しい概念宇宙の発現である。
そこでは無の無限大の連鎖と同じものとして
新たな実体の無限大の積み重なりが生じるのだ。
だだひとつの
同じ力学である。
つまり「生命の概念」は、
たとえその世界は小さくとも(物質世界と比べると)
物質世界が生みだした新たな宇宙
「次元世界」として「存在」する。
生命世界が次元世界であれば、
これは今まで通りの
「存在」にたいする、
新しい概念の発現である。
生命世界には確かに存在するのに、
物質世界のどこにもない「命の概念」。
そして物質世界には確かに存在するのに、
生命世界のどこにもない「物質の概念」。
このように「命」と「物質」では、
それぞれが「存在」する概念世界はあきらかに異なる。
同じ空間と同じ時間に同時に存在するはずなのに、
そこにあらわれた「別次元、別世界」の異なる概念。
すなわち物質世界から構築された
「生命」が織りなす新しい概念宇宙、
それが第6次元「生命世界」である。
そしてその現実は
我々が日々の「思考や経験」を通じては
十分に認識する現象だろう。
けれども我々の「思考や経験」において、
それはあまりにも「当然すぎる日常」であるために
我々がその事実を深く追求する機会は少ない。
あるいはそれを考えても
ただ事実を受け止めることしか出来ず
「なぜそうなるのか」を理解するための「判断基準」を、
我々は持ちえなかったのである。
あえて取りあげるならば、
信仰や宗教、哲学などだろうか。
だがそこに科学的視点はない。
つまり人間の思考の蓄積、すなわち「経験」のみが、
我々の唯一の判断基準であった。
そしてそれは一部の思想家、
宗教家たちだけが求めた現実であり、
推測の域を出るものではない。
「同じ世界」、「ひとつの宇宙」という
次元世界のあり方を理解しなければ、
それは決して我々の知識では捉えきれない現実だろう。
だからこそ宇宙の多重次元構造を学ぶこの学問に
大きな意義があるのだ。
たとえば「死」という現象は、
「物質世界」を起点とすれば「命が失われること」であるし、
「生命世界」を起点とすれば「身体(物質)が失われること」である。
(「命は失われるもの」である。
このくだりは単一の生命の不変性を問うものではない。)
しかしここで我々が認識するべき問題は、
この両者がともに「あるのかないのか」特定することができない
「概念」になりうる点である。
そこには現実世界に存在する
更なる「実体がある」ことを、
我々は理解することができるはずなのだ。
このように生命世界の構造は、
我々がこれまで学んできた「次元世界の多重構造とその力学」が
全く同じように含まれている。
すなわち「命」は
物質世界に出現した新たな「実在する無の概念」であり、
命が「生と死」によって生命世界を紡ぎだすものであれば、
それは点が「あるとないの概念」によって線世界を創りだすことと
同じ現象、力学である。
生命は実体であり、モナドなのだ。
「存在する無」が持つ「あるとない」の正反対の意味を持つ概念が
ひとつの実体であること、
それが「生と死」をもつ「命の概念」が
同じ実体として生命世界を築き上げる
「完全無の原理」である。
「個は全と同一のもの」
この次元世界の力学により
命は無限大の連鎖をつづけ、
その概念世界を拡大することができる。
ここに世界原理は
生命原理とも「同一」だと理解することができる。
0 件のコメント:
コメントを投稿