この世界の全てが「無」である以上、
あらゆる存在もまた「無と同一の概念」である。
どこにも存在しない「無の概念」が
現実に「実在をつづける」為に、
あらゆる次元世界は共に「存在する」。
つまり現実の世界はベクトルしかもたず、
存在として形付けられた
無の形式の一部分でしかないのだ。
「存在ではなくベクトル」
これが世界の真理である。
その事実を理解できた時、
はじめて我々は知ることができる。
この宇宙が生まれた訳と、
この世界が存在する理由を。
けれども「存在に対する解答」を下すには
まだまだ時期尚早かもしれない。
我々はこれから次元理論を学ばなければならない。
「この世界に対する正しい認識」が
我々を「さらなる知識」へと導くのだ。
そしてこれは
真に世界を理解する科学でなければならない。
科学は人間の身勝手な定義から始まるのではなく、
無への理解から始まるものである。
その科学は時間、空間、
宇宙、命、人間の全てを統括し
我々の領域とその世界を広げるだろう。
「無」は永遠に
そして永久に「無」である。
それと同時に「存在する」という概念は
永遠である。
その「完全無の概念」と同時に
あらゆる次元世界は発現したのだ。
その瞬間から我々の宇宙は永遠であり、
永久に実在を続けるベクトルだけが繋がる世界である。
しかし現代人は
この宇宙にも限界があるという誤った認識を生みだしている。
たとえ130億年、150億年という枠組みの中でも
それは人類にとっては途方もない時間であり、
人間が宇宙を永遠と考えるには
十分だったのかもしれない。
けれども「世界はさらに成長する」という現実を、
我々は知らなければならないのだ。
成長をつづける世界を、
人間は理解し学ばなければならないのである。
人間が認識する時間や空間をはるかにこえて、
この宇宙は果てしなく
そして永遠である。
それがあらゆる可能性を肯定する世界である。
唯ひとつ、永遠の拡大という目的を宿した宇宙の。
我々がこれまで知覚してきた宇宙とは、
実際の大宇宙のわずかな一部分にすぎない。
人間は例え、いかなる方法を用いても、
この世界の全貌にせまることは出来ない。
つまり我々が宇宙に対する認識を何十倍、
何百倍に広げたところで、それでもやはり
「大宇宙のわずかな一部分」という制限からは
永久にぬけだす事ができないのだ。
はじまりや終わりのない次元世界とは、
こういった無限大の広がりの中に存在する。
だからこそ我々人間も、
その「全て」を始めることができたのである。
その中の「ほんのわずかな一部分」として。
あまりにも尊すぎる希少な奇跡として。
これほど広大な宇宙という認識の中では、
我々人間はなんと小さく、
なんとか弱い存在であることか。
そしてなんという短い命なのか。
そのことに気づいた時、
人間は必要とするのである。
この宇宙と我々人間を結びつける
「絆」の存在を。
人間は地球上の生き物という視点からすれば、
あるいは暴君かもしれない。
生き物たちにとっての奇跡の星「地球」を、
自ら汚すことのできる唯一の生命体であるために。
そして「大宇宙」という視点からすれば、
あまりにも小さく、
そして幼すぎる存在なのかもしれない。
500万年というわずかな歴史しかもたず、
その知識や技術もいまだ限定的なものであるために。
だがそれは理解が足りないからだ。
かつて人間を、自らの明確な目的も知らず
ただ自由だけを与えられた存在ではないかと、
そう評した哲学者がいる。
人間はまるで、
一人で生きろと捨てられた
子供だというのである。
たとえ子供ではないにしろ、
我々は誰もが生きつづけること以外に
明確なビジョンを持てないでいることも事実だろう。
その自由を持てあまし気味の現状では、
我々は人間の存在が何であるのか、
あるいは我々はなぜ存在するのかと、
その存在についての「解」をつい探し求めてしまう。
そしてその解答としては、
人間が存在することは正しい、
もしくは人間は存在してもよいのだという、
人類にとっては良心的な答えを期待するのだろう。
これもまた人間の「甘え」だと思う。
けれどもその甘えん坊も、
正しい知識を手に入れることで
いつかは立派に自立できるのである。
これは一人ひとりの人間が
「生きることへの確信を手に入れる」ということである。
そしてその正しい知識へと我々を導けるものは、
この宇宙や自然といった「正しい存在」のみである。
それが科学である。
その時に次元理論は、
世界のもつ正しさを証明する
「唯一の科学」となるだろう。
それは我々が求める、
人間が必要とする知識である。
『そのために我々には
「求める力」があったのだ。』
これも存在ではなく
ベクトルである筈の
我々人間の正体である。
それを理解する為に、いまは探究を続けよう。
知識を得る為である。
「この世界のほんのわずかな一部分」であるはずの我々が
どれほど世界に渇望されて存在するのか、
どれほど大きな希望と可能性であったのか、
我々はその事実を理解しなければならない。
次章「次元理論」は、
いよいよ命の起源とその生命世界へとせまる。
それは人間のもつ「自我」へ近づく作業である。
それは人間とこの宇宙を結びつける、
確かな「きずな」が存在する証である。
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