これまではたしかに「科学」によって
人間は神を失ったとされる時代もあったかもしれない。
けれども今、科学は
永遠の存在へとたどりつくための手法とも成りえるのだ。
(私は特定の宗教を支持しない。
だが宇宙を覆う巨大なベクトルがあることは、いつも感じていた。
それを意志と捉えることや、愛と呼ぶこと、
あるいは物理学として理解すること、
そこから学ぶことなど、
それらの全ての認識を私は支持する。)
真の物理学においては、
科学も神も
それぞれが共に同じ概念の異なる評価に過ぎず、
この双方にもともと変わりなどないのである。
長きにわたり人類は
この「次元共有の大原理」のさまざまな様相を断片的にとらえ、
その優劣争いを続けてきた。
もちろんそれぞれが
次元世界として拡大することを目指しながら。
だがこの「ベクトル」があらゆる存在の実体であることを
理解出来たとき、
これまでの我々の育ててきた世界は
ひとつのピースであることを
人間は理解出来るだろう。
この次元理論の出発点となる認識は、
「この宇宙には何も存在しなかった」
というただ一つの現実である。
もしも仮に、この最初の定義がやぶられたとするならば、
その後に展開してきたあらゆる理論は
はからずとも崩れさることだろう。
けれども「この宇宙には何も存在しなかった」という認識は
人間の知識の限界点、そして出発点であり、
これ以上の詮索は
我々にはできるはずもないのだ。
無を理解する科学。
だからこそ人間にとっての宇宙は、
この「次元共有の大原理」に
全てが集約されるはずである。
人類は当初「宇宙統一理論」の完成を純粋に夢みていた。
けれども近年、次元概念を理解できないことによって
「真理は千差万別」、
「真理を決定づけるのは個性」
という認識をもつ人々も現れはじめた。
けれども人類が追いもとめたものも、
そしてたどりついてしまったものも、
どちらも決して間違いではない。
なぜなら「次元共有の大原理」はその全てを創造し、
その全ての内がわにも
同時にふくまれるものだからである。
このように人類は、
これまではその「数多の視点」において、
あらゆる「次元共有の大原理」の見え方の違いを
主張してきた。
それが我々人間の、
探究についやしてきた幾千年の歴史である。
けれども人類の多様性と、
その多くの視点が生みだした「知識の混乱」も、
それは決して悲観されるべきものではない。
我々のもつ「探究心の正しさ」と、
あるいは誰もがもつその「それぞれの正義と信仰心」、
そして決して統合されることのない「全ての個性と価値観」。
これこそがやがて
我々人間の「次元原理」へとつながる
「人類最大の力」である。
解答は間もなく得られるだろう。
次元理論は全ての我々の前と内側に立つ。
それらはたった一つの同じものなのだ。
我々が何かの存在に「宇宙」を感じるとき、
そこには必ず「次元共有の大原理」が働いている。
そして少なくとも今「我々」は
この「次元共有の大原理」を理解する者である。
(科学が正しくなければ
人間にも正しい価値観は生まれない。
それは野生動物の食物連鎖を
人間の生き方として、学ぶ愚かさである。
自然界は原理に従って、奪い合いではなく、
一番効率的な命の受け渡しを模索している。
それは全ての命が
共に未来を目指す生き方である。
個の勝利は全体の勝利に繋がり、
全の勝利によって個はさらに栄える。
全ての世界が
同じひとつの世界である。
ひとつしかない世界故に
個は必死なのだ。
そのことを理解せず、命を語るべきではない。
命を理解せず人間を、物理学を語るべきではない。
我々はそれらの次元世界の拡大にも手を貸して、
同時に人間世界の拡大を学ばなければならない。
我々は動物的な命の受け渡しを行いながら、
次元世界としては共有する生き方を
考えなくてはならない。
それは全ての我々が、未来を共に生きる生き方である。
人間の繁栄は世界の拡大と繁栄と
同じでなければならない。
そして世界の拡大は
人間の精神世界の拡大と充実でなければならない。
私は人間を理解するために
この次元理論をはじめてきた。
人間はどこから来て、どこへいくのか。
この解答を示すのためには、
まずはこの世界の現実から
我々は学ばなければならない。
哲学や思想ではなく、
事実としての科学から
人間は始まるのだ。)
宇宙ホログラム説というのがあるそうです。
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