「認識する本能」は、
喜びや悲しみ、安らぎや不安、
勇ましさと恐怖、慈しみと無関心、
期待と絶望などのあらゆる感情のその間に存在する。
この「想い(感情)」とは、
特定の場所に存在しつづけるものではなく、
けれども精神世界としては実在の想いである。
この「認識する本能」が
精神を持つ生命体を先導する。
精神世界の欲求は
自己の世界への認知として
生き物たちの衝動なのだ。
自然の多様性に起因する複雑な情報を
「その個体の能力だけで判断しなければならない生物」にとって、
「記憶は失われる(死を含む)」ものであるために
意識として「認識する本能」が必要だったのである。
それは個体と時間を超えて継続する「生命の記憶」であり
そこに欲求(判断力)が生まれる。
感受性、または感情の次元世界とよんでも良いだろう。
「認識する本能」は、
起伏する想い(精神世界)に定点を持たない、
存在するのに存在しない意識の領域である。
これは「あるとない」のはざまの「点」、
過去と未来の間の「今」、
有と無の狭間の「物質」、
生と死のあいだの「命」など
あらゆる「次元世界の起点」と同等の
「実在する無の概念」である。
すなわち「精神世界」も
第6次元「生命世界」によって生まれた、
無限大へとつづくひとつの次元世界なのだ。
これは無の拡大から続く等価原理である。
「命」という6次元の生命概念にささえられて
「精神世界」とその起点「自己の領域」は実在する。
もしくは第6次元が「生態網」として広がる以上、
精神世界をともなわない生命活動も、
やはりこの世界には存在しない。
このように第7次元「精神世界」は、
生命世界という基盤にしたがい
生命世界の広がりそのものを支えている。
これは命の次元を「植物」
精神の次元を「動物」としてとらえると、
より理解しやすいことだろう。
植物しか存在しない世界と、
動物たちと共存する植物世界では、
はたしてどちらの植物世界に
「多様性(広がり)」は多く残されるだろうか。
それはもちろん「後者」である。
生命世界も「次元共有の大原理」によって生まれる以上、
その目的はつねに「拡大すること」である。
もしも環境が一律で、生態系が単純なものであれば
そこにくらす生物たちの優位性も単調となり、
わずかな環境の変化によって
生命世界は全滅するだろう。
つまり「多様性のある世界」を
「次元共有の大原理」は望む。
多様性とは「拡大」であり、
無の先にある「無限大の広がり」である。
つまり多様性こそが
完全無と同一視される「可能性」なのだ。
植物の種子は、果実によって守られることが多い。
本来ならこの果実は、
種子の養分、あるいは種子を周辺の環境から
守る機構である。
けれども実際には、
果実は種子を守るという目的のためだけではなく、
動物に分けあたえるものという事例も、
現実世界では多く見受けられている。
これは動物や昆虫にその種子を渡し
運んでもらうという目的のために、
植物自体が進化した結果である。
そしてその現実は、動物世界の繁栄のためだけでなく、
植物類をもふくめた広い意味での生命世界拡大の為にも
大いに役立つことなのだ。
多様性によって命に加えられる可能性と
可能性が創りだす新たな多様性。
つまり可能性が広がれば広がるほど、
生命世界には更なる強度が生まれる。
このように生命世界はその多様性のひとつとして
精神世界を築き上げてきた。
そして精神世界も
精神世界も含めた全ての生命の「さらなる多様性」の為にある。
これは「生命世界」と「精神世界」の共存を現すものであり、
両者がともに「次元共有の大原理」によって発現し、
同じ目的のために存在するよい事例である。
自然界にはこういった事例は、他にも多く用意されている。
いや共有し共存する世界、それこそが自然界なのだ。
こうしてみれば植物世界は
動物世界をささえるためだけに利用されるわけではなく、
動物世界もまた、生命世界を同時にささえる共有者である。
更に物質世界である第5次元世界も、
その環境の多様性によって生命世界に多様性を育て、
恩恵と試練とを生命に与える。
そして拡大した生命世界の広がりは
今度は物質世界にもさらなる変化を与え
そこでは環境もさらに多様性を増すだろう。
この世界の生みだした複雑な相乗効果が、
世界の持つ無限大へのベクトル、
概念の拡大のひとつである。