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2020年2月25日火曜日

(連載12)12-2認識する本能




「認識する本能」は、
喜びや悲しみ、安らぎや不安、
勇ましさと恐怖、慈しみと無関心、
期待と絶望などのあらゆる感情のその間に存在する。



この「想い(感情)」とは、
特定の場所に存在しつづけるものではなく、
けれども精神世界としては実在の想いである。


この「認識する本能」が
精神を持つ生命体を先導する。


精神世界の欲求は
自己の世界への認知として
生き物たちの衝動なのだ。



自然の多様性に起因する複雑な情報を
「その個体の能力だけで判断しなければならない生物」にとって、
「記憶は失われる(死を含む)」ものであるために
意識として「認識する本能」が必要だったのである。


それは個体と時間を超えて継続する「生命の記憶」であり
そこに欲求(判断力)が生まれる。



感受性、または感情の次元世界とよんでも良いだろう。
「認識する本能」は、
起伏する想い(精神世界)に定点を持たない、
存在するのに存在しない意識の領域である。


これは「あるとない」のはざまの「点」、
過去と未来の間の「今」、
有と無の狭間の「物質」、
生と死のあいだの「命」など
あらゆる「次元世界の起点」と同等の
「実在する無の概念」である。


すなわち「精神世界」も
第6次元「生命世界」によって生まれた、
無限大へとつづくひとつの次元世界なのだ。

これは無の拡大から続く等価原理である。




「命」という6次元の生命概念にささえられて
「精神世界」とその起点「自己の領域」は実在する。



もしくは第6次元が「生態網」として広がる以上、
精神世界をともなわない生命活動も、
やはりこの世界には存在しない。



このように第7次元「精神世界」は、
生命世界という基盤にしたがい
生命世界の広がりそのものを支えている。



これは命の次元を「植物」
精神の次元を「動物」としてとらえると、
より理解しやすいことだろう。


植物しか存在しない世界と、
動物たちと共存する植物世界では、
はたしてどちらの植物世界に
「多様性(広がり)」は多く残されるだろうか。


それはもちろん「後者」である。


生命世界も「次元共有の大原理」によって生まれる以上、
その目的はつねに「拡大すること」である。


もしも環境が一律で、生態系が単純なものであれば
そこにくらす生物たちの優位性も単調となり、
わずかな環境の変化によって
生命世界は全滅するだろう。



つまり「多様性のある世界」を
「次元共有の大原理」は望む。
多様性とは「拡大」であり、
無の先にある「無限大の広がり」である。


つまり多様性こそが
完全無と同一視される「可能性」なのだ。





植物の種子は、果実によって守られることが多い。
本来ならこの果実は、
種子の養分、あるいは種子を周辺の環境から
守る機構である。


けれども実際には、
果実は種子を守るという目的のためだけではなく、
動物に分けあたえるものという事例も、
現実世界では多く見受けられている。


これは動物や昆虫にその種子を渡し
運んでもらうという目的のために、
植物自体が進化した結果である。



そしてその現実は、動物世界の繁栄のためだけでなく、
植物類をもふくめた広い意味での生命世界拡大の為にも
大いに役立つことなのだ。


多様性によって命に加えられる可能性と
可能性が創りだす新たな多様性。

つまり可能性が広がれば広がるほど、
生命世界には更なる強度が生まれる。


このように生命世界はその多様性のひとつとして
精神世界を築き上げてきた。


そして精神世界も
精神世界も含めた全ての生命の「さらなる多様性」の為にある。


これは「生命世界」と「精神世界」の共存を現すものであり、
両者がともに「次元共有の大原理」によって発現し、
同じ目的のために存在するよい事例である。



自然界にはこういった事例は、他にも多く用意されている。
いや共有し共存する世界、それこそが自然界なのだ。



こうしてみれば植物世界は
動物世界をささえるためだけに利用されるわけではなく、
動物世界もまた、生命世界を同時にささえる共有者である。



更に物質世界である第5次元世界も、
その環境の多様性によって生命世界に多様性を育て、
恩恵と試練とを生命に与える。

そして拡大した生命世界の広がりは
今度は物質世界にもさらなる変化を与え
そこでは環境もさらに多様性を増すだろう。



この世界の生みだした複雑な相乗効果が、
世界の持つ無限大へのベクトル、
概念の拡大のひとつである。




2020年2月18日火曜日

(連載12)12-1拡大は多様性と等しい




   第12章 「想いが生まれる世界」
      
       精神世界の発現




12-1拡大は多様性と等しい



ふたたび次元世界が持つその構造について
探究をつづける。




第6次元「生命世界」が
次の概念世界として生みだした新たな次元世界、
それが「精神世界」である。

これは永遠の奥行きと永遠の広がりを持つベクトルが、
新しい概念を創造しさらにそれを拡大する、
無限大の無の一部分である。

無限大の空間から物質が生まれた。
無限大の物質から生命が誕生した。
そして生命に網羅された世界から
「精神世界」は創られたのである。

そしてその根底が完全無である以上、
全ては「同時」であり、等価であり、
個であり全てである。


こうして生命世界(精神世界)
その繁栄のために必要となるあらゆる原理や法則を
全て「次元共有の大原理」によってあたえられる。
これは「存在」ではなく「ベクトル」である。


その中で「本能」とよばれ、
とくに生物の一部だけに託された大脳の中に
この「精神世界」は発現する。


「本能」とは当初、
「生命世界」の全ての生物がもつ生命維持と種の保存、
そしてその拡大のための力学である。


そしてそれは
「有機物が有機物を求める力」として発現した。


だがその原理は、
原子が持つ重力と同じ構造の力学であった。



ひとつの有機物と他の有機物が
重なり融合した結果、
そこに有機物の抜け落ちた「空白の有機物の空間」が生まれる。

この空間が自らの内外の有機物を
元の場所に引入れようと求めた結果、
そこに欲求(力学、あるいはベクトル)が生まれ
それが本能と認識される。



この本能を持つ有機物が生命体である。



この力学、
すなわち本能にしたがうことによって生き物たちは、
より効率的な活動で自らの生産力を高め、
生命維持とその拡大を容易とする。

個の広がりは全を高め、
全の拡大は個を引き上げる。
それらは常に同じものである。



この「本能」も無の概念をもつ「命()」が、
完全無の概念である「生命世界()」を生みだすために
命に宿った「生命原理」なのだ。


宇宙に「連鎖する力学」が本能。


生命世界にも連鎖を創りだすために
本能は働く。
有機物の「同じ有機物を求める欲求」は、
生命の概念をより強く
よりたくましくものへと変えていくのだ。


そこに命の連鎖として生態系が生まれ、
この生命世界の拡大、
すなわち多様性は創り出されるのである。



しかし第6次元「生命世界」の飛躍のためには
本能は「記憶する能力」と「予測する能力」とを
新たに必要とする。




これは第5次元「物質世界」の持つ「多様性」と、
第6次元「生命世界」がつくりだしたそれ以上の「多様性」に、
生命自体が更に適応するために求めた能力である。



そしてその能力を
獲得することによって生まれたものが「精神世界」、
あるいは「感情」ともよばれる「認識する本能」である。



この「認識する本能」の出現は、
第5次元「物質世界」と、第6次元「生命世界」にも、
「更なる多様性」を創りだしていく。



2020年2月12日水曜日

(連載11)11-6思想を超えて





これまではたしかに「科学」によって
人間は神を失ったとされる時代もあったかもしれない。


けれども今、科学は
永遠の存在へとたどりつくための手法とも成りえるのだ。


(私は特定の宗教を支持しない。
だが宇宙を覆う巨大なベクトルがあることは、いつも感じていた。
それを意志と捉えることや、愛と呼ぶこと、
あるいは物理学として理解すること、
そこから学ぶことなど、
それらの全ての認識を私は支持する。)


真の物理学においては、
科学も神も
それぞれが共に同じ概念の異なる評価に過ぎず、
この双方にもともと変わりなどないのである。



長きにわたり人類は
この「次元共有の大原理」のさまざまな様相を断片的にとらえ、
その優劣争いを続けてきた。



もちろんそれぞれが
次元世界として拡大することを目指しながら。


だがこの「ベクトル」があらゆる存在の実体であることを
理解出来たとき、
これまでの我々の育ててきた世界は
ひとつのピースであることを
人間は理解出来るだろう。





この次元理論の出発点となる認識は、
「この宇宙には何も存在しなかった」
というただ一つの現実である。


もしも仮に、この最初の定義がやぶられたとするならば、
その後に展開してきたあらゆる理論は
はからずとも崩れさることだろう。


けれども「この宇宙には何も存在しなかった」という認識は
人間の知識の限界点、そして出発点であり、
これ以上の詮索は
我々にはできるはずもないのだ。

無を理解する科学。

だからこそ人間にとっての宇宙は、
この「次元共有の大原理」に
全てが集約されるはずである。





人類は当初「宇宙統一理論」の完成を純粋に夢みていた。


けれども近年、次元概念を理解できないことによって
「真理は千差万別」、
「真理を決定づけるのは個性」
という認識をもつ人々も現れはじめた。


けれども人類が追いもとめたものも、
そしてたどりついてしまったものも、
どちらも決して間違いではない。


なぜなら「次元共有の大原理」はその全てを創造し、
その全ての内がわにも
同時にふくまれるものだからである。


このように人類は、
これまではその「数多の視点」において、
あらゆる「次元共有の大原理」の見え方の違いを
主張してきた。


それが我々人間の、
探究についやしてきた幾千年の歴史である。




けれども人類の多様性と、
その多くの視点が生みだした「知識の混乱」も、
それは決して悲観されるべきものではない。


我々のもつ「探究心の正しさ」と、
あるいは誰もがもつその「それぞれの正義と信仰心」、
そして決して統合されることのない「全ての個性と価値観」。

これこそがやがて
我々人間の「次元原理」へとつながる
「人類最大の力」である。


解答は間もなく得られるだろう。



次元理論は全ての我々の前と内側に立つ。



それらはたった一つの同じものなのだ。



我々が何かの存在に「宇宙」を感じるとき、
そこには必ず「次元共有の大原理」が働いている。
そして少なくとも今「我々」は
この「次元共有の大原理」を理解する者である。




(科学が正しくなければ
人間にも正しい価値観は生まれない。

それは野生動物の食物連鎖を
人間の生き方として、学ぶ愚かさである。

自然界は原理に従って、奪い合いではなく、
一番効率的な命の受け渡しを模索している。
それは全ての命が
共に未来を目指す生き方である。

個の勝利は全体の勝利に繋がり、
全の勝利によって個はさらに栄える。
全ての世界が
同じひとつの世界である。
ひとつしかない世界故に
個は必死なのだ。


そのことを理解せず、命を語るべきではない。
命を理解せず人間を、物理学を語るべきではない。

我々はそれらの次元世界の拡大にも手を貸して、
同時に人間世界の拡大を学ばなければならない。


我々は動物的な命の受け渡しを行いながら、
次元世界としては共有する生き方を
考えなくてはならない。
それは全ての我々が、未来を共に生きる生き方である。


人間の繁栄は世界の拡大と繁栄と
同じでなければならない。
そして世界の拡大は
人間の精神世界の拡大と充実でなければならない。



私は人間を理解するために
この次元理論をはじめてきた。

人間はどこから来て、どこへいくのか。

この解答を示すのためには、
まずはこの世界の現実から
我々は学ばなければならない。

哲学や思想ではなく、
事実としての科学から
人間は始まるのだ。)