「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2019年3月26日火曜日
(連載6)6-1宇宙の前提に
次元理論では最初に
「無が存在する事を理解して頂きたい」とお願いした。
しかし実際のところ
それ以外に信じるべき事は何一つないのだ。
全ては順を追って解読すれば、
誰もが理解できる現実である。
あなたの目の前に現実世界が広がること、
その全ての理由が無に由来する。
そして無というただひとつの世界から
全ての現実が始まるということは、
世界はひとつの力学に統合される、ということである。
その為に次元理論によって現れた「時空世界」には、
「物質世界誕生のための材料」が
全てそろっている。
そこで4次元「時空」の性質を
もう少し詳しく整理しておきたい。
次元理論によって我々が
「空間と時間」に対して理解を深めることのできる認識は
以下の通りである。
○空間と時間は、物理的にも最初から無限大の概念をもつ。
(最初の空間、4次元時空に「大きさ(範囲)」の概念はない。)
○我々の物質世界が誕生する以前(時間的な意味ではない)から、
空間と時間は存在する。
○空間はその連鎖によるブレから、空間自体のゆらぎ(空間波)を持つ。
○ゆえに空間に膨張や収縮がおこり「空間密度」が変化すれば、
「時間(波)」の流れも同様に変化する。
この知識は
「物質が存在すると、空間と時間が存在する」
というこれまでの認識を、
「空間と時間が存在すれば物質は存在する」
という新しい理解へとかえる。
通常、我々が物理学的に「何もない」と認識する「無」は、
この「4次元時空」のような状態である。
だがこの「4次元空間」はまさに「空っぽの世界」であり、
「温度でさえも存在することが出来ない世界」である。
はたして「完全なる絶対零度」、「完全なる真空」という状態が、
我々の宇宙に本当に存在するのだろうか。
このままでは我々の暮らす
「現実の宇宙の誕生」にはまだ至らない。
我々はここに出現した「4次元時空」と
「この宇宙」とを結ぶ、
もうひとつの絆を見つけださなければならない。
そこにあるのが「物質世界の誕生」である。
このさき「次元共有の大原理」は、
この「4次元時空」にどんな可能性をもたらすのだろうか。
キーワードは「物質の誕生」ではなく
「物質世界の誕生」である。
すでに宇宙の材料は提示されてる。
あとは時空世界の「次元共有の大原理」を
理解すればよい、ただそれだけである。
では「宇宙統一理論」の解説に入るまえに、
あらかじめ「次元理論」による「物質世界の結論」について、
先に述べさせていただく。
我々の宇宙が「第5次元物質世界」であるのならば、
この物質世界の「起点」となる概念も
「実在する無の概念(実体)」でなければならない。
無と等価な実体であるからこそ
この次元世界の起点となる概念は
無限大の連鎖をくり返す。
その実体は「4次元世界・時空」の連鎖から生みだされ、
かつ無限大にひろがる新しい次元世界を構築する。
「宇宙統一理論」は
この「次元世界の基本原理」の上になりたち、
その上で「現実の宇宙の構造」を
明らかにするものでなければならない。
もちろんその理解は、
宇宙に存在する「あらゆる力学」を統合するだろう。
はたしてそのような「万能理論」が、
ほんとうに完成したのだろうか。
この章からはやや天文学的傾向がつよくなり、
専門的な予備知識も多少必要となるかもしれない。
私としてはできるかぎりその問題を読者の皆さまと共有し、
皆さま自身で宇宙理論にたいする評価が下せるように
執筆するつもりである。
天文学とは本来、専門家のための科学ではなく、
「我々にこの世界の構造を理解させるための学問」
である。
そこで私は次元理論によって
天文学や宇宙物理学といった高度で難解な科学を、
いま一度「我々」の手へと取りもどしたいと願う。
読者の皆様も次元理論を理解していただくだけで、
この宇宙のなりたちを自分自身で理解する事ができるのだ。
「次元理論」がその可能性をしめすことは重要である。
何故なら「世界原理」では、
この世界を理解するのは「すべての我々」でなければならない。
これはモナドを理解することは、
全てのモナドから理解されることと同じだからである。
(モナドには窓がない・ライプニッツ)
もちろんまだ一般的でない現象を
文字だけで伝えることの難解さは
私も承知している。
だがこれが理解出来れば、
この宇宙は単純で明解であることが
お分り頂けるだろう。
時間、空間、物質、命、精神、
あなたの内側に幾重にも重なる沢山の宇宙があるように
あなたの外側にもあなたと重なる大きな世界があるだけなのだ。
2019年3月19日火曜日
(連載5)5-6「時空が始まり」物質世界に向けて
4次元時空は
空間概念の連鎖である。
そこに存在するものは「空間」以外になく、
「時間の流れ」が直接的に現れる触媒も
やはり「空間」以外には存在しない。
「空間」が存在するからこそ「時間」は動きだすのであり、
「空間」が存在する以前から
「時間」だけが実在することはない。
次元理論での「時間軸」は
「永遠に連鎖する空間概念」である。
「今」という「存在しない空間」が「存在しつづける」ために、
そこに「時間軸(時間の流れ)」は生まれる。
そのために時間世界での空間は、
時間軸方向(今)にむけて常に連鎖を続ける。
これは個である今が
全である時間軸と「同じもの」だからこそ
ここに生まれる力学である。
この為に過去の空間概念は失われ、
世界では
今という時間(空間)だけが存在する。
存在する無と同じ
存在する今(存在しない)として。
その空間の無限大の連鎖が「ゆらぎ」として、
空間を収縮、あるいは膨張させたのである。
これは時間軸における空間座標の「同じ点」は、
何処にも「存在できない」ことを表わしている。
なぜなら点のもつ概念は「無」であり、
この世界に全く「同じ点」をあらわせる場所は、
厳密にはどこにも存在しないからだ。
そのために時間軸(今という空間の連鎖)」における空間は
常に最小限の「ゆらぎ」を含む。
かつこの「時間」が
決して止まることのない次元要素だとすれば、
時間軸における「空間のゆらぎ」も、
これは「恒久的な空間波」である。
つまり時間軸は、空間の永久連鎖として
「空間波」(空間自体の振動)をともなう力学であり、
我々の宇宙が出現する以前から
「空間」と「時間」は
「すでに用意されていた」ということがわかるのだ。
「空間や時間」は「無が実在するための必要十分条件」として、
この世界に「最初から」あたえられていた概念である。
我々は「空間や時間が存在する」ことについては、
これまでも認識し、理解していた。
そしてそこに出現する「実在する無の概念」に、
神秘と戸惑いとを感じていたはずである。
存在しない今が
確かに存在すること。
しかしそれは人々が日常の生活で、
主に「経験」として培ってきた知識であり、
そこに明確な理由や原理があることなど
誰も知らなかった。
そのために空間や時間の解釈には
実に様々なものが生まれ、
「なぜ時間や空間が存在するのか」というその素朴な疑問にも、
正確に答えられる人間はいなかったのだ。
存在と実在が同居する世界に、
我々が抱えこんだ混乱。
同じ実体でありながら
全てにおいて異なる側面を見せてしまう
時間、空間、無、点、命、想い、自我…
アインシュタインの登場により
「空間が存在する」ということについては
科学的な証明がなされただろう。
そして重力によって時間や空間がゆがむという現象も
確認できたのである。
けれども現代物理学においてさえ、
「なぜ空間や時間が存在するのか」というこの根本的な疑問には、
いまだに明確な解は与えられていない。
そしてそのことを理解しようとして宇宙物理学は
一般の人々がはいりこむ余地のないほどに複雑化し
「矛盾のさきおくり」というかたちで
その展開はすすめられたのである。
こうして我々は「宇宙統一理論」からは
とり残されてしまう。
物理学においても「空間がゆらぐ」という現象は
確認されている。
それは「科学」があらゆる現象を探究した結果みつけだした
「発見」である。
けれども「次元理論」では
「無」を理解することによって
「空間がゆらぐ」という現象が最初にあることを「理解する」。
これが「次元理論」の
「知るための科学を理解するための科学に変える」
その視点である。
したがって「次元理論」の単純さと明確さは、
他の理論をよせつけない。
人類にとっての不可解な謎であった0の概念。
とくに感性のするどい人間であれば、
この世界が「無である」ということには
気がついていたのかもしれない。
だが無が何であるのか、
無と世界と自我の同一性について、
そのつながりを理解することは
誰にも出来なかったのだ。
無の概念が「存在する概念」をともなうこと、
点の概念が「存在しない概念」をともなうこと、
我々はまだ実体の半分の姿しか見ていない。
だが無を理解することによって
「空間と時間の創造」は現実のものとなる。
これは「無」を理解できないかぎり、
空間や時間もその姿をあらわすことはない
ということである。
今後の宇宙物理学においても
「時空」をとりあつかう場合には、
時間と空間にたいする正しい認識は不可欠である。
数式のみによる理解へと頼ってしまえば、
「実在しない概念」の出現に混乱が生じるだけなのだ。
時空が何か、
時間が何かも知らず、
3次元、4次元世界の重なりが
理解できるはずはない。
人類がほこる優秀な頭脳たちが、長年いくら計算しても、
いまだに「解」へとたどりつくことの出来ない現実に、
我々はいい加減気づくべきである。
そして「無」を理解する「次元理論」であれば、
全ての存在と全ての次元世界を
つなげることは可能である。
さて、この先の次元理論は、
次なる宇宙「5次元物質世界」の誕生へと章を進める。
この5次元物質世界は、
ここまでに現れた4次元「時空」の概念によって
創り出すことができるのだ。
もうお気付きだろうか。
我々の宇宙を
4次元世界と考えること自体が誤りである。
4次元世界は時空(連鎖する空間)である。
この時空を背景に
我々の物質世界は生まれる。
次章次元理論は、
いよいよ物質と重力の謎を解明する。
2019年3月12日火曜日
(連載5)5-5時間軸の力学
完全無の内側の概念が「全てがない」という世界であれば、
その外側には「永遠に存在する(全てがない)」という
同じ別次元の世界が広がる。
点という、
今という、
命という、
自我という、
どこにも存在しない
いくつもの「存在する無」を受け継ぎながら、
連鎖する実体はその先へとつながる。
全ては完全無が統括する
無の無限大の連鎖と「同じもの」として。
「存在するもの」は実体であり存在ではなく、
本当に存在するのはこの力学だけである。
今という「存在しない時間」が
存在し続けること、
これも同じ「無の連鎖する力学」である。
無と同じものとして
無の無限大の連鎖を続け、
あるのにどこにも存在しない時間「今」と
その連鎖を続ける時間軸。
この「今を起点」として「現実世界」は存在する。
我々の瞳に映るこの世界も、
その概念は存在ではなく
実際には実在する世界である。
今という存在しない時間の中でのみ
我々の世界は存在する。
無の連鎖の中で浮き上がる
幻のような全てが実体の世界。
生まれているのか、
きえていくのか、
区別もつかない時間の中で、
だが強固な現実の砦は構築される。
連鎖こそが力学であり、
この力学だけが
間違いなく存在する世界なのだ。
我々の宇宙はこの
「存在する力学」である。
全ての概念が存在ではなく実在する世界で、
この力学だけが概念を形づくり、
とめどもなく流れ続け、
そこに想いと意志とをつなぐ。
存在するのは力学である。
ならば力学こそが我々なのだ。
確かに「今という空間」は、
無に支配された宇宙の「存在しない時間」である。
だが無に帰属しながらも、
それは決して無への帰還ではない。
存在する無は完全無へと連鎖を続け、
存在を広げる力学である。
それが世界の本質にある「拡大の原理」である。
これは完全無へと向かう
無から始まる「世界原理」である。
その力学の中心に、
無の概念を持つ全ての次元世界は存在する。
「無は完全無である」
だからこそ世界は、無限大の可能性を持つ現実なのだ。
これが「無の存在する世界」であり、
全てを持たないものが「永遠に拡大する」
その原理である。
我々が自覚するこの実在世界には、
存在するのに何処にもない「今という世界」の
無限大に連鎖した「存在する現実」がある。
これは全てが力学である。
我々も世界も
同じひとつの力学である。
さあ、次元理論に戻ろう。
3次元空間世界を実体(今)として
無限大に空間(今)の連鎖する世界、
それが4次元世界、
いわゆる「時空」である。
(従って時空とは、時間の存在する世界の意味である。
空間の無限大の連鎖が時間の概念を生む。)
これはこれまでの人類には
理解が及ぶことのなかった、
時間の流れる仕組みである。
これも世界原理であり
「次元共有の大原理」のもつ、
次元世界創造の力学である。
これまでと同様に
「次元世界実在のための必要十分条件」として考えれば、
時間の存在しない空間はなく、
空間をもたない時間軸もまた実在することはない。
空間の連鎖が時間軸であれば、
空間と時間軸は「同じもの」である。
これも等価なのだ。
同じものでありながら
空間とは異なる概念世界として
時間は発現する。
こうして世界では時間が動きはじめ、
ここに4次元世界、
時空は創り出されたのである。
このように「時間」もまた、
新しい次元世界の構成要素として
「無の延長線上に現れた実在の概念」である。
その起点は「現在」であり、
すなわち「今という存在しない時間」である。
今は既に実体であり、
モナドであり、
存在する無である。
もともと「今」という時間が
人間にはつかまえる事の出来ない概念であることは、
だれもが実感することだろう。
「今はたしかに存在する」
これは事実だが、
ここが「今」だとよべる瞬間は
現実にはどこにも存在しない。
我々が「今」を自覚したときには
それは既に「過去」であり、
「今が存在しない」ということは、
「あらゆる時間軸も(空間も)存在しない」ということである。
しかし一見、不確かにも思えるこの「今」の連続が、
過去から現在をつなぐ
唯一の「時間軸」であることは確実である。
「あるのにない」という「今という時間」、
これは「線」世界における「点」の概念であり、
「点」や「今」は「存在するもの」ではない。
これによって我々は「次元世界の起点」となるべき両者が、
ともに「存在する無」の概念を持つ「実体である」ことを
理解することができるだろう。
現実に宇宙に存在するものは
やはり力学だけである。
「存在しない今(空間)」と
時間軸という「全てが存在しない世界」によって、
「存在する時間世界」は「実在する無の概念」と同一の、
すなわち無の一部分である。
この「無」以外に、
「永遠」をつくりだせる概念が他にあるだろうか。
無は永遠である。
「無」は永久に存在する「完全無」であり、
これが力学の始まりである。
したがって「存在する空間」も「存在」ではなく、
力学の僅かな断面である。
なぜなら世界は永久に「完全無」なのだから。
そのために空間は常に新しく存在をつづけ
「今という時間」として、存在しない(実在する)。
このように空間も、時間世界の概念の一部分であり、
時間軸の長さという部分を持たないモナドである。
世界は実体であり、
存在は力学である。
そして我々人間の視点は、
この存在しない今という空間から逆に
外側の世界に対して向けられている。
そして世界と人間の記憶によって、
「存在する世界」は出来上がっているのだ。
今という存在しない世界にいるからこそ、
人間にとって世界は存在するのである。
このように我々の居場所は、
永遠に存在する今の中と限定的である。
「次元世界の起点」となる実体は、
必ずその次元世界の「構成要素」として、
新しい次元世界を構築する。
けれどもその新しい世界もまた「完全無の概念」を持つ
「無の概念(実体)の永久連鎖」である。
これによって全ての世界は、
存在する無から生まれた
同じ完全無の概念である。
現実を正解に理解すると
我々の状況はこうである。
そしてこの1次元世界の「あるのにない」という概念自体が、
「無の概念」が「存在する」ためだけに生まれたものである。
このように「完全無」は、
たしかに「実在する世界」なのだ。
「無」が創り出した「線世界」が
途中でとぎれないのと同様に、
「今」は永久の連鎖を続け
止まることなく時間軸を創り続けている。
「無、ゆえに無限大」
つまりこも「今」という「存在する無」も、
この世界に「完全無」が実在するかぎり
永遠に存在しつづけることができるのだ。
このように
「この宇宙には何も存在しなかった。
そして今もなお、この宇宙には何も存在はしない(世界原理)」
という無の概念と同時に、
時空は出現する。
したがって時間の流れる範囲を
「何時から何時まで」と問うこと自体が、
我々にとって何ら意味をなさない問題である。
あらゆる時間もまた
「完全無の概念」にすぎない。
時間軸は完全無と等しく、
それは力学しか持たない実体である。
2019年3月5日火曜日
(連載5)5-4時間軸の誕生
存在する無は実体であり、
これは点の連鎖と同じものとして
空間世界を創り上げていた。
だがここに誕生した「空間概念」までが
「実体(あるのにないもの)である」とは、
一体どういうことなのだろうか。
世界が「存在する無」である以上、
「存在するもの」は全てが実体でなければならない。
そして実体は連鎖を続ける完全無である。
しかし空間は3次元世界として既に存在するものであり、
「ない」という概念は持たないのではないのか。
そしてこの空間世界が
つぎに共有し創り出す世界とは一体何なのか。
それが「時間世界」、4次元時間軸である。
この世界が無によって統括される以上、
空間世界は「存在しない」。
空間世界も実体(無の集合体)として、
「あるのにない」という無の連鎖する同じ状態である。
「この世界には何も存在しなかった」と次元理論を始めた時、
私は「存在する空間」は「無ではない」と語った。
空間を理解するためには無を知らなければならない、と。
完全無として存在する宇宙に、空間は存在しない。
無が完全無として存在する(世界原理)ことが、
この世界の真理である。
だからこそここに
新しく生まれるのだ。
「存在する空間」を実体(存在する無)として始まる
時間の概念世界が。
時間世界は空間の時間軸方向に向けての連鎖である。
時間軸があることが
この世界が完全無として存在する証明であり、
世界原理が働く無限大へと連鎖する力学である。
つまり「存在する空間概念」が
「存在しない時間の概念」と
同一なのである。
「存在する空間」は
「今という存在しない時間」である。
「存在する空間」=「今」(存在しない時間)
「存在する無」である以上、
無は無限大の連鎖として完全無である。
同じ原理により、
「存在する空間」を「存在する無(今)」として
そこに新しい空間概念の連鎖する世界、
時間軸(流れる時間)が生まれる。
「無」が「有」と共有するように、
あるいは「線」が「面」と共有するように、
「空間」もまた「時間」と共有しなければ、
そこに実在することはできない。
これも「同じもの」という等価原理である
したがって「空間概念」が実在する以上、
「時間」もかならずそこに存在する。
時間軸は現在を起点(今)として過去に向かって拡大する
空間概念の無限大の連鎖である。
この空間概念の無限大の連鎖によって、
「存在する空間」は時間軸の「起点(今という実体)」となり、
それは「存在しない時間(時間軸・過去)」である。
今という時間は時間軸の中には存在しない。
今という実体(存在する空間)は
時間軸における長さの部分を持たないからだ。
時間軸(時間世界)における今は
「存在しない、長さを持たない時間」であり、
これは「確かにあるのにどこにもない」という
「存在する無」と同一の概念である。
これによって確かに世界に出現したはずの「存在する空間」も
「存在する無」と同一の実体となり、
どこにも存在しない今(という時間)となる。
こうして「今という時間」も、
実体の無限大の連鎖として
時間世界を創りだすことができたのである。
これが時間世界(4次元時空)の始まりであり、
時間の流れが世界を統括するその原理である。
時間軸は最初から概念世界であり、
それは「存在」ではない。
積み上げられた過去(原因)に世界(空間)はなく、
その全ては「あるのにない」という無の概念と同じである。
それは「存在する無」と同一の
「確かに存在するのにどこにも存在しない」世界なのだ。
過去の世界は存在せず、
「今という存在する世界」も「存在しない時間軸の実体」である。
だがそこには、
未来に向かって連鎖するベクトル(連鎖する今)だけが
残されている。
個(今)が全(時間軸)であるための力学。
無が完全無であるための「存在する無」の力学。
全てが同じ
ひとつの同一の世界であることが理解できるだろう。
この現実が「無が存在する」という世界原理である。
この時間軸の統括(時間による支配)によって世界は、
「全てのものは存在しない」という
「無」本来の概念世界に立ち戻る。
しかしこの時間軸における「存在しない時間」、
今の中だけに
「空間は確かに存在する」。
このように世界全体の現実からみれば、
我々人間の立ち位置は特異である。
存在しないはずの概念世界の中でのみ(今という時間の内側)
我々は存在することができるのだから。
人間は今という時間の中で
存在する空間を知覚する。
だが真実は
存在しない時間の中で、
存在しない空間を、
その内側から見ているのだ。
もちろん我々が現実として認識する宇宙も
同じ概念世界である。
存在しない一瞬で無へと立ち消える
連鎖だけの世界。
ないものがあるのか、
あるいは、あるものがないのか。
誰かの見る夢と呼ばれても遜色ない
おぼろげでしかし確かな記憶の連鎖。
だがその記憶が失われれば
そこに現実のカタチは一切残らない。
だが今はまだ、感傷にひたる時ではないだろう。
我々は理解するための科学として
次元理論を始めている。
我々は世界の真実を知らなければならないのだ。
その理解の先に、解答は示されるだろう。
我々は存在を続ける為に、知らなければならない。
我々の宇宙では、
存在するものの全てが
存在ではなく力学という実体の連鎖である。
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