「存在する点」は 体積も面積も長さも あらゆるものの部分を持たない。 あるのにない、ないのにある。 この点が実体(モナド)である。 「今という時間」は 時間軸の長さの部分を持たない 「存在しない時間」である。 あるのにない、ないのにある。 今という時間も実体(モナド)である。 実体は現実に我々の世界を構築する要素である。 この実体が「存在する無」なのだ。 「存在するのに存在しない」の概念。 実体が永遠に連鎖をつづける理由、 それは「存在する無」が「完全無」であるための 無限大の広がりである。 この「広がり」が宇宙に誕生した 最初の力学である。 点が「同じもの」として線に拡大すること、 これがアインシュタインの言う 等価原理である。
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2018年6月13日水曜日
その科学、本当に信用できますか?(モナドの声を聞く23)
身勝手な前提から
始まる科学はない。
これは点です。と記憶するよりも、
「点が面積を持たない」その理由を知ることが
科学の本当の視点である。
点の内側には無限大の奥行きがある。
それは点に「存在の概念」がないからだ。
点には体積や面積、長さ
それらのあらゆる概念(存在の部分)がない。
あるのにない、という
点は無限大と等しい実体である。
世界はたったひとつの同じものである。
これが大統一理論である。
それは存在でありながら存在しない、
異なる同一のモナド、つまり実体である。
「点」や「今」など、現実に世界は
この「実体」によって構築されている。
それを我々の科学は
早く認めなければならない。
実体は科学なのだ。
点や今も、
実体が何かを理解できなかった
かつての人々が、
ただそこから始まるものとして
勝手に付けた記号である。
現代の我々の「知識の前提」は
人間によって作られている。
それは科学ではない。
身勝手な前提からは
真理は生まれない。
我々は最初から
答えのないパズルゲームに
振り回されてきただけなのだ。
ビックバンもない。
現在の数学では
点や面、体積が何か、
それ自体を理解することは出来ない。
それでは世界は
絶対に確定できない。
しかしそれを理解するのが
本当の科学である。
あなたは「実体があることなど証明はできない」
と考えるかもしれない。
けれども存在を持たない
(面積も長さの部分も持たない)
点が実体である。
実体は現実にそこにある。
そして面積を持たない線も
同じ実体である。
(面における存在は面積を持たなければならない)
さらに体積を持たない面も
実体である。
(空間における存在は体積を持つたなければならない)
そして長さの部分を持たない
今という時間も実体である。
(時間軸も長さの概念である)
つまり存在の全ては概念として
実在であり、実体なのだ。
これが現実である。
科学はその目を
見開く必要がある。
現実は正しい。
存在する全ての概念を持たないのに
確かに存在する「点」は実体である。
「存在する全ての概念を持たない」存在とは
あるのにない「存在する無の概念」である。
つまり実体は
存在するのに何処にも存在できない
宇宙の真理に位置する「存在する無」なのだ。
宇宙の始まりには何も存在しなかった。
点の連鎖する理由は
それが無の永遠の連鎖だからである。
それが点(無)の拡大する力学(完全無)である。
点(連鎖する力学)と完全無は
全く同じものである。
我々は点が実体であり、
連鎖を重ねる力学である事実を
科学として学ばなければならない。
それが現実なのだ。
「あるのにない」実体でありながら
無限大に存在を重ね、
永遠に広がり続ける「完全無」。
この世界は点である。
宇宙の起源、
「無の永遠の連鎖」が「存在する力学(完全無)」なのだ。
我々が考える存在は存在ではなく、
存在するのはただ力学のみである。
それが同じものとして
時間の流れ(現実)である。
点も、そして完全無も、
確かに「存在するもの」でありながら
その概念は(長さも面積も体積も時間も)
「存在する全ての部分」を持たない。
実体としての「存在する」は
「存在しない」と同一である。
だからこそ世界は現実に存在し、
この宇宙は全てが一瞬の幻(存在しない時間軸)として
「何も存在しない」状態なのだ。
未だに世界には何も存在しない。
宇宙の起源は続く。
この「存在しないもの」の無限大の連鎖によって
「存在する力学」は構築されていく。
世界は存在ではなく力学である。
すなわち存在は力学と等価である。
これが「全と個を同一のもの」とする
世界の根幹にある「無の物理学」である。
世界は拡大するベクトルである。
存在ではなく同じ力学。
この同じ力学が
重力であり、
本能であり、
自我、意志の力なのだ。
全ては同じ「求める力」である。
これがはじめて人類にもたらされた
大統一理論である。
この世界には何も存在しなかった。
この現実は「完全無が存在する宇宙」を意味し、
永遠に何処にもないものが
永久にあり続ける状態を指す(実体の連鎖、力学)。
つまり「存在する」という概念は、
「今という時間」が決してとどまることの出来ないように、
それ自体が力学として
実体の無限大の連鎖なのである。
存在=力学(実体の無限大の連鎖)
無(点)の内側に広がる
「全てにおいて永遠に何も存在しない」無の概念と、
その連鎖として点の外側に同じものとして存在する
「確実にそこに在り続ける」という無限大(完全無)の概念。
最初からそれは「同じひとつのもの」である。
そして点は、
この無を「自らの構成要素」として
その内側に含む(同じもの)為
宇宙に現れた最初の実体(次元世界)である。
世界はその後、
点の無限大の連鎖によって構築される。
あらゆる概念の方向へと連鎖を続け
拡大する点。
それはその全ての世界が
「完全無」であることを示す。
「存在」とはこのように
存在しない実体の永遠の連鎖である。
従って全ての世界は、
正統な理由があって
そこに存在する(存在しない)。
それが大原理が示す「存在の本質」であり、
全ての存在(同じひとつのもの)が
等価として統合される同じ理由である。
存在(概念)=力学(実体の無限大の連鎖)=無の連鎖=完全無
存在は完全無と同一の
たったひとつの同じ世界である。
それは閉じた状態と開いた状態が
同じものである
存在するひとつの宇宙の姿なのだ。
このように
「存在する無を証明すること」において、
世界が存在しないことの証明は
世界が存在することの証明である。
あらゆる概念の方向へと
無限大の連鎖をつづける無。
それ自体がそのままで「存在する点」であり
際限なく拡大をつづける完全無である。
その点の連鎖が、
実際に空間を創り出し
時間を形成し
原子を形づくり
生命として現れる。
我々はこの理解から
新しい科学を
始めなければならない。
我々人間も
同じ「モナド(実体)」である。
あるいは「存在する無(実体の力学)」として、
この世界と等価な
ひとつの同じものである。
無の連鎖が力学であり
その力学が我々人間の意志なのだ。
存在しない世界で
唯一の存在するベクトルが力学であり
それは世界の同じ意志(自我)である。
この理解なしに
人類の革新はありえない。
我々の一人ひとりが
その使命と安心感を持ち、
自立した個性として
人間であることに満足した状態で
この宇宙を同一のものとみなす。
この認識を生みだす確信が
世界が我々に示した正しさであり、
科学という知識のもたらす正規の価値である。
科学は間違ってはならない。
そして宇宙を統括するこの科学は
「全てを同一のもの」とする統一理論であり、
それがアインシュタインの繋げようとした
等価原理である。
人間には存在する理由がある。
全ての存在もそこに存在する理由を持つ。
そのために我々人間は
個性(多様性と広がり)と、
希望(重力)と、
全てを許された自由(可能性の拡大)と
その責任(原理)を持つ。
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