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2016年12月18日日曜日

第19章 科学と宗教

私は本書の冒頭にて
「人類は無条件に神に頼れるほど幼くはない」と書いた。
しかしそれは何割かの人々にとっては、
許されざる冒涜として非難されてしかるべき内容である。
そしてその非難は正当なものであり、
私は彼らのいうとおり「神々の理論」についても、
もっと理解を深めるべく努力をするべきかもしれない。
また次元理論では、標準宇宙理論とは相反する内容をとりあげて、
それを新たに展開することもした。
これも物理学者たちにいわせれば、
無知の極致として嘲笑されてもしかるべき内容かもしれない。
私はもっと現代物理学の基礎からを理解し、
検討しなおす必要もあるのかもしれない。
けれども私にも「次元理論の著者」として、
彼らと同様にこの「次元理論」を理解していただけるよう
努める義務がある。
それが著者の「個性」としての役割であり、
自我世界をより広げるための「共有」なのである。
このように「正当な見地」とは、
それを育む「知識」にこそ由来する。

特にこの「科学と宗教」は歴史上幾度となく対立し、
あるいは融合をくりかえすという特別な経緯をもつものである。
そして現代に至るまで、
必ずしも科学が優勢で勝利したというわけでもないのだ。
それは現代科学が「信じること」を前提として構築されたという、
次元理論の見識のしめすとおりである。
現実世界においては、現象が定義を生みだしたのではない。
原理が定義や法則を創りだしたのである。
そして現象はそのあとにのみ続く。
つまり本当の科学とは
「原理や法則をみつけだすための手段」ではなく、
なぜ原理や法則がそこにもたらされたのか、
それを我々に理解させるものでなければならないのだ。
そしてそのために科学の本質は
その全てが「理解できるもの」でなくてはならず、
たとえ消せない疑問を記号に置き換えたところで
その後解答になどたどりつけるはずもないのである。
それが為せない限り、現代科学も「科学であることを目標とする」
信仰の枠から抜け出すことができず経典のままである。
科学とは真実であり、事実であり、現実でなければならず、
故に知識の根幹であり、
「サイコロを振らない」この世界の予定調和なのである。


そして宗教においても「信仰心」とは、
全ての人間が「はじめからもつ」
人々が世界から理解されることへの願い、
あるいはその孤独を満たす願望として、
この世界にたいする愛情や畏敬の念である。
つまり「信仰心」は、
特定の神の為だけに用意された特別な感情ではなく、
人間に備わる「求める心」として、自我の希望なのである。
もちろんこの「世界」を「神」として認識する事は正しい。
けれどもその前提として、
この世界と神が「おなじひとつの概念」であることを
我々は「理解すること」からはじめなければならない。
永遠に存在するこの世界に対して、
その力学を引き継ぎながら永遠を追いかけ続ける我々人間。
それは次元世界としての人間に発現した力学である。
その力学の中心には自我の虚空があり、
そこに空白を埋めようとする本能「信仰心」が生まれ
理解によって満たされる「満足」がある。

宗教の「正しさ」は、
決して他人からは否定されるべきものではない。
けれども宗教に加入することだけが、
真実に寄りそうただひとつの道ではないのである。
本当の科学であれば、神の存在も求められるはずなのだ。
したがって宗教の教義も、科学であれば検証のできるものであるし、
神は実在し、その姿は我々の内側と外側にも
同様に見つけだすことはできるのである。
このように「信仰心」とは、この「世界」に対して向けられる。
そして「世界」とは次元世界のことでもあり、
それは人間、物質、自然界などの、
あらゆる現象のそのなかに共有された概念なのだ。
全ては「ひとつの世界」であり、同じ「存在する無」である。


ではなぜ「科学と宗教」とのあいだには
長年にわたり対立関係が生じたかというと、
それは両者がともに「真理」の2面性、
同じものの表裏を探求した関係にあった為である。
そのことは次元理論によっても説明づけられることだろう。
同じものを捉えた異なる視点。
科学と宗教は、それぞれがともに「真理と人間」とを
我々が理解するために必要とした「知識」である。
それが分かれば次元理論は
「科学とは何か」、「宗教とは何か」というように、
それぞれをより深く追求するための「さらなる視点」とも
なり得るのである。
全ての「知識」は「信じるもの」ではなく、
「理解するために学ぶ」べきものなのだ。

科学と宗教はともに人類の歴史を創り、
我々の生活とは切りはなすことができない程にまで
人間とは深い結びつきをもつ。
そしてその事が、我々の「自我」の形成に与える影響は
計り知れないほどに大きい。
だからこそ科学と宗教の根底を我々が理解することは、
そのままで宇宙と自我世界の本質を理解することへとつながる。
これもまた我々が知るべき「知識」であり、
その知識が我々を「さらなる信仰」、
あるいは「さらなる科学」へと導くのである。
我々が追い求め、ずっと見続けてきた「同じもの」の正体。
その「同じもの」が見せつづけた現実世界の異なる様相。
我々はこの世界の存在するその意味を理解し、
科学と宗教を肯定するものでなければならない。


ではこの「科学と宗教」を理解するために、
次元理論における植物世界の問題にまで、
再び話をもどすことにする。
これは先ほどとおなじく
「植物は意志をもつのか、あるいは意志はもたないのか」
という問題である。

次元理論においても、
植物世界はその器官の中に精神をやどす構造は持たない。
したがって「植物は意志をもたない」ということが、
ひとつ目の「事実」である。
けれども植物世界も、概念的には「生きていたい、存在したい」という
ゆるぎない意志を保持することは、
次元理論における重要な認識であった。
遺伝子をもつこと、そして命を持つこと、
それ自体が「生命世界」の意志なのだ。
したがって「植物世界は意志をもつ」、
これが二つ目の「事実」である。

無はあるのか、ないのか。

ゆえに次元理論でのこの議論は、最終的に「無は0次元に存在する」、
あるいは「0次元は無ゆえに存在しない」という問題にまで発展し、
持ちこされることになるだろう。
つまり「学術的」な見識による次元理論では、
「植物は生きていたいという意志はもたない。
あらゆる可能性の中で生き残ることに成功した遺伝子だけが、
今もなお存在をつづけている。これは生命世界の力学であり、
脳をもたない植物世界にとっては当然の認識である。」
と結論づけることになる。
この認識は、
「0次元は存在しない。
0次元が存在しないからこそ1次元世界は生まれ、
2次元世界、3次元世界へと次元世界は昇華する。
最終的に5次元世界は存在する。
したがってそれ以前の次元世界は、
現実世界として存在することはできない。
次元原理はこの現実世界の中にこそ、共有されている。」
という解釈を成りたたせるものである。
そしてこの科学的思考は、正しいものであり現実的である。
けれども科学者たちがいくら否定しようとしても、
次元世界の概念的な存在までを否定することはできないことである。
なぜなら「0次元」の概念が実在しなければ、
この宇宙もまた次元世界として現実に誕生することはなかったからだ。
したがって「次元共有の大原理」は、
「宇宙、あるいは科学の真理」ではあるが、
これを神々の奇跡とよぶ人々がいれば、
科学に神を否定することはできなくなるのである。

一方たとえ概念世界でも、
物理的な実証が成されればそれは存在するものとして、
我々のこの現実世界の存在こそを
異なる次元世界の存在する証しとするものが、
宗教的、思想的な見地に立つ次元理論である。
こちらの次元理論では、
「次元共有の大原理は、植物世界に種族拡大の法則をあたえた。
これは生きていたいという植物自体の願いであり、意志である。
0次元世界が存在するからこそ世界は生まれ、
植物世界の意志もそこから与えられている。
当然ながら我々も、彼らの願いや想いにふれ、
共感することはできるはずである。」
という立場を明確にする。
この認識は、
「0次元は存在する。0次元が現実世界として存在するからこそ、
全ての次元世界も同様に存在することができる。
人間の存在についてもそれは同様であり、
あらゆる次元世界は0次元によって統括されている。
つまり次元原理の中にこそ、この世界は共有される。」
という、先程とは異なる視点の現実世界を出現させている。
我々とは異なる次元世界の存在を、
現実世界としても存在するものとして結論づけたのであるが、
こちらも決して間違いではないだろう。
けれども宗教家や思想家たちが、
「ある特別な次元世界の存在」をいくら肯定しようとも、
概念世界は異次元世界に「存在する」ものではない。
概念世界が「現実に存在する」のは「この世界の内がわ」であり、
それが「現実世界の構成要素」となるのである。
したがって「次元共有の大原理」は、
確かに神の意志であり神々の奇蹟ではあるが、
それを「宇宙、あるいは科学の真理」として研究し探究する人々の存在も、
彼らは同様に認めなければならないのだ。

このように次元理論では、
次元世界の概念を追求するものが「宗教」であり、
概念を排除した上で次元世界の構造を理解しようと努めたものが
「科学」である。
したがって彼らがともに求めたものは「宇宙の真理」であり、
「我々はどこから来たのか、そして我々はどこへ向かうのか」
という人類にとっての共通の命題であることに、
変わりはないのだ。
存在するものとして無を捉えるのか、
無である故に存在しないものとして捉えるのか、
その無にたいする解釈が異なるだけであり、
それは全く同じものである。


「存在する無」の内側に広がる世界と
無が存在する為にその外側へと広がる世界。
存在しないものの、内側と外側がこの「世界」である。
それは「わたし」とも同一である。
人類史において、あらゆる学問、
そしてあらゆる信仰の原点はここに回帰する。


はじめて夜空を見上げて、この宇宙の存在に気づいた頃の人類と、
今を生きる我々現代人との間に、
果たしてどれほどの違いがあるというのだろうか。
この両者はおそらく、
ほとんど何も変わらないはずである。
我々と彼らとの間に違いがあるとすれば、
それは共有する知識と経験の差でしかないのだろう。
とすればこの「知識」が、
我々と彼らとを分かつ最大の要因である。
したがって「知識」によって、
自我世界は育てられたのだ。
そして「知識」とは、どんな時でも絶えずこの世界に共有されて、
それを見つけだしてきたのが我々人間の歴史なのである。
科学と宗教。
ゆえに知識には、つねに正確さと正しさとが求められたのだ。
けれどもこの「知識」が不完全である期間、
我々は、我々の感性が知る正しさを
その指針とするしか方法はもたなかった。

「感性が知る正しさ」とは、
各々の人間が「感じることの正しさ」である。

けれどもこの「感性によって知る正しさ」と、
「知識によって認識できる正しさ」とは、本来同じものである。
そして我々の認識が及びにくい事実として、
その個別の正しさの乱立する時代が
現代もなお続いてることにある。
無数の正しさが生まれることは「正しいこと」であり、
正しさが生まれてこないことが「間違い」なのだ。
その知識の根幹を、我々は早く理解し、
共有しなければならない。
それはこの宇宙の仕組みとして、
あらゆる世界の力学として
この世界を統括する。

次元理論ではそれを「次元共有の大原理」と呼ぶ。
けれどもそれを「科学の真理」としてとらえることも、
「神々の奇跡」として唱えることも、
ともに間違った事ではないのだ。
宗教家や思想家、科学者たちも、
それを知るために扱う視点がことなるだけであり、
本来はおなじ目的をもち、
同じ探究をすすめる人々であることに変わりはないのである。
そのためにこそ彼らは、これまで争うことも、
そして手を取りあうこともできたのである。

次元理論によってこの両者それぞれに助言できることは、
宗教家たちは神の存在によってその思考を停止させてはならないし、
科学者たちは数式によって
感じることを止めてはいけないという事である。
宗教家たちが真の信仰へとたどりつく為には、
「0次元」の実在を認識し、
我々の神々の所在を明らかとし、
ほかの宗教や神々を必要とはしない人々の存在を
決して否定してはならないのである。
偉大なる神はその思想に関わらず全ての人間を平等に包み込み、
この世界を彼の力で統括し導くことを我々は知るだろう。
そして科学者たちが宇宙の真理へとたどりつく為には、
「次元共有の大原理」を理解し、
人間の感性を信じるしか方法はないのだ。
無と等価として全ての宇宙は存在し、
世界は同じものとして「ひとつの力学」によって成り立つことを
我々は理解するだろう。
その結果、あらゆる現象は個別の力学を発現させたのである。
おそらく科学や宗教も、さらなる未知への領域を、
まだ広く残こしているはずである。


かつてまだ「科学」が未熟であったころ、
我々人間の世界を守ってきたものは「信仰」である。
信仰によって人間は「知識」へと導かれたのである。
けれども間もなく、今度は知識が信仰を高めるという時代も
逆に訪れるのかもしれない。
私には科学や信仰は、世界が人類を高め広げるための
「双子」のような存在にも思えるのである。
もともと我々を導く為にある「あらゆる知識」が、
「この世界」によって共有されるものである以上、
これも当然のことである。
「科学」も「宗教」も共に、
「次元世界」としての現実が
我々人間にもたらした「異なる視点」である。

けれども私はそのことによって、
科学と宗教の統合を果たそうとするわけでは断じてない。

我々が認識すべき現実は、
「人類はおなじ価値観をもって生まれ、
科学も宗教もそのおなじ価値観から生まれた同じ目的であり、
我々が同一であることに変わりはない」
という事実である。
人類はこの一点において、すでに統合されている。
人類はその「数多の視点(第三の眼)」において、
一つの物事をあらゆる観点から同時に検証する能力をもつ。
そしてその主観を共有することによって初めて、
我々はその事柄に対する本質的な理解を、
さらに深めあうことができるのだ。
私が期待するのは、人類がもつこの「第三の眼」である。
この「数多の目」が、人類の力の集大成であり、
人間にやどる最大の理解力、そして創造力である。
次元理論であれば、本来共有するべき者同士が今なお否定しあうその姿に、
いつかは和解をもたらすことも出来るのではないだろうか。

また次元理論においては、
「この宇宙は永遠である」ということを人間が理解することは、
「人間の可能性にも限界はない」ということを、
我々が理解することと同じである。
これまでの人類が感性によって認識してきた現実を、
今度は「知識」としても理解する。
この態度は人間が「存在する不安」を振り払い、
我々が生きる「確信」を手に入れる
という事にもつながるだろう。
それが我々が次元理論を学ぶ、その意義である。
次元理論によって感性に知性が追いつく日は、
必ず訪れくるはずなのだ。
「感性と知性の不調和」、
この不安定さが、現在の我々のかかえた「もろさ」である。
けれども「相互に高め合う感性と知性のあいだに存在する自我」という
ゆるぎない構図が我々にもたらされれば、
人間は「自我」という次元世界を永久に確立し
広げつづけることもできるだろう。
それによって「科学」や「宗教」に代表された我々の「探究心」も、
さらなる発展をとげることができるはずである。


これまで次元理論がしめしてきたように、
人間は意志をもたないあらゆる次元世界に対しても、
「概念としての意志」を感じとる能力をもつ。
それは認知力というよりもむしろ理解力であり、
もはや想像力という方が正しいのかもしれない。
けれども次元理論においては、第8次元「自我世界」は、
無からはじまる時間や空間、自然、生命、精神という、
第7次元世界までの全ての次元世界を共有する「宇宙」である。
つまり自我の構成要素には、
宇宙や自然、そして命など、
我々の身の回りに存在するあらゆる概念が
最初から全てふくまれているのだ。
その結果「次元理論」は、
「この宇宙は自我であり、自我もまた宇宙である」という
結論にまで到達する。
そして自我は、そのことも最初から知っていた。
この「多重次元構造」という現実世界が宇宙の構図にあるからこそ、
人間が世界を理解することは、
そのままで自我世界の探究へとつながるのである。
したがって人間は、
「この世界を理解しなければならない」という必然性をもって
ここに生まれている。
この世界を正しく理解することが、
人間が人間を知るための唯一の方法であり、
人間もまた「この世界を理解すること」を望む。
人間は「人と人が分かりあえること」をその希望とし、
それは人間の果たすべき義務でもある。


学問や信仰、音楽、絵画、文学などの、
人間の創作活動における究極のテーマは、
「次元共有の大原理」である。
その原理の前において我々の自我は、
過去、現代、未来と決して変わることのない存在である。
そのために自我世界は「次元共有の大原理」を目の当たりにするにつれて、
それだけで時間をこえても共有することができるのだ。
果たして「彼ら」はどのような立場で、どの場所からそれを見つめたのか。
その視点を共有することが重要であり、
その体験が「我々」の自我世界をさらに拡大する。
これもまた人間のもつ「数多の目」の成果である。
これまでの「科学」が「芸術」から離れた場所にいたのも、
そのことが理解できなかったためである。
「科学」と「芸術」、この双方もおなじ場所から出発した、
おなじ人間の「求める心」である。

さらに自我世界は当初から、
「我々はどこから来たのか、そして我々はどこへ向かうのか」
という人類共通の苦悩を背負って誕生する。
この「さまよえる心」は、
自我世界における「自我の空間穴」であり、
その結果人間には「求める心」も発現する。
それを模索した結果、宗教は生まれ、
科学や芸術は誕生したのだ。
したがって人間はたとえ特定の宗教に属することはなくとも、
この宇宙に対しては絶えることのない信仰心と探究心とをもつ。
だからこそ人間がもつ「苦しみ」とその「信仰心」も、
常に同一なのである。

このように宇宙や自然、命の神秘にふれるにつれ我々は、
この宇宙を統合する不変の原理の存在を認識する。
そしてその時にこそ我々は、
自分たちもその一部分であるという現実を
自覚することができるのだ。
この「次元世界をささえる」という意味においては、
宇宙や人間、全ての生命体、命をもたないあらゆる存在が
全て「等価」なのである。

結果として次元理論は、世界宗教であるキリスト教を
理解できる思想を生みだすことにもなるだろう。
あるいは次元世界の構造を表図として現わしていけば、
それは仏教でいう曼荼羅である。
姿を変える統一神も次元理論には力学として存在する。
次元理論が「世界理論」として存在する以上、
あらゆる「科学」のみではなく、
ほとんどの「宗教」までを理解していけることは当然である。
けれども逆に、そのことが次元理論のもつ「危うさ」でもある。
次元理論によって自分たちの「聖域」が侵されたと感じる人々は、
科学界にも、宗教界にも、同様に多数存在することだろう。
だが誤解だけはしないでいただきたい。
次元理論は科学や宗教を否定するものではなく、
科学や宗教のもつ「正しさ」を証明するための学問なのだ。

いかなる場合においても、
この世界に対する人間の探究心は正しい。
この世界が「正しい姿」をもつからこそ、
我々の知識もまた磨かれるのである。
そのことが、自我世界が宇宙や自然に共有されるその所以である。
そしてもし貴方々のもつ科学や宗教が「正しい」ものであれば、
「次元理論」はその探究をさらに深めるための
「手引書」ともなれるはずである。
そして将来、さらに発展した科学と発展した宗教とは、
それぞれがともに同じことを物語るのである。








人間はだれもが皆、さまよい悩み苦しんだ分だけ、
強くなれる可能性を宿している。
人間がもつ「虚空」、これが大きければ大きいほど、
人間が引きよせる「空間」も同時に広がるのだ。

したがって憎しみは愛と等しく、
臆病は勇気である。
心に闇をもつ人間は光を求め、
痛みを知る人間はかぎりなく優しくもなれる。
傷ついた人たちは皆、我々の希望である。

さらに愛は憎しみであり、
勇気は無謀である。
心に光ある人間は闇を知り、
優しい人間はかぎりなく冷酷にもなれる。

求める人々よ、
あなた方は決して否定してはならない。
あなた方が探究をつづけたいのであれば、
その全てを背負う以外に方法はないのだ。
しかしあなた方を導くのも、
またあなたが背負う「彼ら」である。
そしてあなたもまた、人類の希望である。

人間は「空間穴」と「重力」とをあわせ持つ、
一つの「原子」である。

「存在する無」という世界は、
その内側に完全無という永遠と
その外側に無限大という悠久を
同時に創り出してしまう一つの「あなた」である。

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