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2016年10月1日土曜日

第4章 存在する無

この宇宙には何も存在しなかった。
それが「全て」のはじまりである。

そこには時間も空間も、
「何か」も「誰か」も、
決してあってはならない。
もしも「何か」が存在するのであれば、
その「何か」はなぜ存在するのかを、
我々はまた理解しなければならなくなる。
それは「誰か」の存在についても同様である。
従ってこの宇宙が誰かの所有物でない限り、
そして我々がその存在を理解するためには、
この宇宙に最初に存在するものは
「無」でなければならない。

この宇宙には何も存在しなかった。
すなわち我々の世界は「無」から始まる。

この宇宙のはじまりが「無」であるということ、
それがあらゆる知識のおよぶ限界点であり、
我々の科学の出発点である。
したがってそれ以上の詮索は人間には出来るはずもなく、
ここが宇宙と全ての知識の始まりとなる。

つまりこの世界におけるただ一つの現実は、
「この宇宙には何も存在しなかった」
という唯一の認識である。
そしてこの「無」を理解することでしか我々は、
この宇宙を理解することはできない。
現代宇宙物理学においても「無の存在」に対する認識は
次元理論とも一致する。
けれどもその「無」に対する正しい理解が
現代科学ではまだ確立されていなかったのである。

例えば標準理論とされるビックバン理論では、
物質がない状態だけを始まりの無として認識する。
これは次元理論の始まりの
「時間や空間さえ存在しない完全なる無の世界」とは
全てにおいて認識が異なる。
私がこれから語るのは大統一理論である。
時間や空間だけが別物では困るのだ。
元々時間や空間の存在を度外視して考え出されたビックバン理論では
統一理論など到底創造出来るはずはない。
ましてや「宇宙の最初には時間と空間がありました」では
「この宇宙の始まりには誰かがいました」理論とも
何の変わりはないだろう。
現実には、空間や時間もこの宇宙の一部分として
我々とともに存在する「力学」である。
既に時間や空間が縮む、ゆがむ等の現象は、
物理学においても確認してきたはずである。
時間や空間も条件によっては変化する
立派な存在する概念なのである。

もはや時間や空間の変化を伴わない物理学は、
科学の進歩にたいする弊害である。
我々も本当の知識を見つけだす為には、
古い時代からの無知をふりはらい、
自分達のあつかう「科学の正体」を見極めなければならい。
その為にも
「この宇宙には何も存在しなかった」
そこから全てが始まらなければならない。

では宇宙の起源に存在する「無」とは、
一体どのようなものなのか。
我々は全ての知識を生みだすためにも、
そしてあらゆる存在を理解する為にも、
まずはこの「無」を理解することから始めよう。

これより先次元理論は、
この「無」を理解するために
一気に知識の深淵へとおりていく。
読者の皆さま、
どうかしっかりと私について来て頂きたい。

無を理解することは
全てを理解することにつながる。


始まりは「存在する無」
「無」には大きさや広さ、時間も、
「あらゆるもの」は存在することができない。
ゆえに「無」に変化は起こりえないはずである。
つまり「無」はそれ自体で「永久に完結した世界」である。
この「無」に変化を期待することは愚かであるし、
そこから抜けだせる存在もあるはずはない。
したがって「この宇宙には何も存在しなかった」ということは、
今もなお「この宇宙は永久に無でありつづける」ということを意味する。

しかしこの無に対する認識で
我々が一番理解しなければならない事は、
「無は存在する」という事実である。

無が存在するとは、何もないということではなく、
その何もない状態が「ある」、
つまり「存在する」ということなのだ。
すなわち永久に完結した否定概念としての「存在する無」は、
「無が永久に存在しつづける」あるいは
「全ての概念は無である」
という状態世界をそこにつくり上げている。
無が果てしなく全ての概念に永久に存在する状態、
これが「完全無」という世界である。

「全てがない」という状態が「存在する」世界。
この無の存在する世界が
次元理論で宇宙を認識するときの最初の宇宙、
「0次元世界」である。

0はあるのか、ないのか、
というのは人間の好きなレトリックである。
しかし「存在する無」は現実である。
我々の現実世界の大前提として
「この宇宙には何も存在しなかった」
という現実が先立つのだ。
この章ではのちほど、
現実に存在する「存在する無」と「実在する概念世界」を
読者の皆様へと提示する。
この「実在するもの」とは、
現実世界の概念を支えるために必要となる
「異なる次元世界での現実」である。

「この宇宙には何も存在しなかった」

それは「無が存在する」ということであり、
「全く何もない」という状態の世界が「ある」、
すなわち「存在する」ということである。
つまり「存在する無」において、
閉じた状態が「無が存在する」であれば、
開いた状態では
「全ての概念が永久に無でありつづける完全無の世界がある」
ということである。

これは同じことではないのか、
そう思われた読者の方もいることだろう。

そのとおり、全く同じである。
閉じた開いたという言葉に惑わされる事なく、
世界の始まりに「無が存在する」という事は
「世界は完全無である」という事と同じ意味である。
このように0次元世界では
無(個)は完全無(世界・全)と同一である。
この概念は、
その後の全ての次元世界に共通する基本概念として
あらゆる宇宙の存在を統括する。
これが「存在する無」という実体が
概念世界を生みだす原理、
次元世界の最初の力学(世界原理)の発現である。

この「完全無」の概念は、
現在も進行形で現実世界として「無」であり続け、
「無」は今もなお「完全無」として「0次元世界」に存在する。
このように「完全無」が理解できれば、
時間や空間も存在しないはずの世界に起きる「ゆらぎ」や、
ましてや「ビックバン」など、
そういった仮説自体が誤りであることには
我々もすぐに気がつけるはずである。
そして物質が存在しない状態だけを「無」として定義するのであれば、
確かに存在するはずの「時間」や「空間」に対しては全くの認識破棄であり、
その後我々が都合よく空間や時間を扱おうと試みても、
正しく組みこめるはずもないのだ。
その誤った認識は、すでに知識にとっての致命的な欠陥である。

では「完全無」が永久に閉ざされた世界だとして、
それ自体で完結するものであれば、
なぜ我々の宇宙は「現実に」存在するのだろうか。
はじまりが「無」である以上、
この世界には何も存在しない筈ではなかったのか。
これが人類の前に長らく立ちふさがった「知識の壁」であった。

「存在する無」は「何もない」という意味ではない。
そこには「完全無が存在する」という「概念」が生まれる。
この概念は「実際に存在する世界」であり、
この「存在する無」の概念が「実体」である。
この実体(存在する無)があること、
これが世界の大前提なのだ。
「無」は「全く何もない」という概念が
「全てにある(あらゆる概念に永久に続く)」という状態世界を
そこに創り出している。
この「無」が生みだした「無の永久に連鎖する世界」
それが「完全無(の世界)」である。
したがって「完全無」とは、
無限大に連続する「無の概念」であり、
そこには「永久に続くないのにある」という概念世界も
「同時に」生まれている。
これが線の概念世界である。
「存在する無」(実体)とは
「(面積や体積などの存在を)持たないものが確かにある」
という「点の概念」であり、
無の無限大の連鎖である「完全無」は、
点の無限大の連鎖である「線世界」と「同じ概念」なのだ。
存在する無と同時に存在する点の概念世界、
それが「1次元宇宙・線世界」の発現である。

つまり1次元線世界とは、
何もないものが確かにあるという「無の概念(点)」が、
永久に存在しつづける「完全無の状態(線)」であることを指す。
それが「無が存在する」ということであり、
線の概念世界が実在するということである。
点は「全てをもたないものが確かに存在する」
という概念体(実体)であり、
その概念は「存在する無」の「部分として」無と同義である。
このように「存在する(実在する)無の概念」(実体)があること、
それが点が「点の概念」として創り出された、その理由である。
そして「存在する無(個)」の概念が「完全無という世界(全)」(0次元世界)
と同じであるように、
点の概念(個)は線世界(全)と同一のものとして
「1次元宇宙・線の世界」を誕生させる。

「無」に対する考察を正しくもつと、
我々は何も存在しないはずの「0次元世界」から、
「1次元宇宙が誕生する」という必然性に気づくことができる。
つまり「1次元世界」は、
「0次元世界」とも等しい同一の世界なのだ。

概念しか持たない無(実体)であるからこそ
「存在する無」はその概念を「あらゆる存在」に
分かつことが出来る。
これが「無の部分を持つ」という事であり、
「存在するもの」は「実在する実体」と同時に
その概念を共有しながら「同じもの」として存在する。
つまり現実世界のあらゆる概念は
「存在する無」の同じ部分を持って現れた概念である。
これを「同一である」と記す。

『線世界が存在するだと?
これでは「何もない」という世界の前提に
反するのではないか?』

これは当然の疑問である。
だがそうではない。
何故なら「線世界は存在しない」からだ。
「面積の概念を持たない」線の概念では、
面の世界では「存在できない」実在となる実体(無)である。
面の概念の中に存在するとは、その面の中に部分をもつ、
つまり面積をもつことである。
しかし線の概念には面世界に占有する面積がなく、
線は面の部分を持たない。
従って面の中に線は存在しないのである。
こうして線の概念は、
面世界の概念の部分(広さの構成要素)をもちながらも「存在しない」、
「実在する無の概念」実体となる。

(さらには実体(存在する無)としての線世界(個)は
その無限大の連鎖として面世界(全)を構築する。
無は完全無と同一のものとして、(世界原理)
線世界(無)は面の世界(完全無)と同じである。
こうして現実に我々の世界はひろがっていく。第5章)

これが「線が無の部分を持つ(存在する無)」ということであり、
無と点、あるいは完全無と線が同一である「世界のはじまり」である。

「存在する無(個)」は
「永久に存在し永遠に連鎖する無の概念(全・完全無)」であり、
それはそのままで「無限大」の概念と同義である。
そして全ての存在が「無の部分を持つ」事によって
この世界は「存在する無」として永遠に、
無限大にあり続けることが出来る。

これが「世界が存在する」という全てのはじまりであり、
「無と完全無」に対する理解からはじまる「次元理論」である。
「無」は「1次元世界」と同時に出現する。
1次元世界は2次元世界の概念の中でのみ実在する。
2次元世界も3次元世界に存在を与え、自らは実体となる。
3次元世界も4次元世界に存在を与え、自らは実体(無)となる。
このように世界は同じものとして、
等価として、
同一のものとして、
同時に存在する。

最初からこの宇宙には「無と完全無」しか存在しない。
「存在する無」である。
このように全てはシンプルな原理において出現する
「世界の持つ多重次元構造」である。
そしてこの「世界の多重次元構造」を示し、
それを理解すること、
それが統一理論としての「次元理論」という科学である。
今この「完全無」から始まる「世界の持つ多重次元構造」。
この世界の構造がやがて
我々の現実世界の誕生にもつながっていく。

これがこの宇宙の始めに存在する
「存在する無」の正体である。

「全てを持たないものが確かに存在する」という無の概念は、
意外にも我々の身近にある
点の概念の中に含まれていた。
このように点の持つ概念は、
例えどれほど拡大を続けても
永遠にたどり着くことは出来ない「実体(存在する無)」である。
「(面積も体積も)全てを持たないものが確かにある状態」としての
「存在する無」、
この「存在する無」を構成要素として
点は存在する。
さらにこれまで漠然と存在すると思われてきた線世界でさえ、
(面積を)持たないものとしての面世界における実体であり、
無限大の無(点)の連鎖「完全無(線世界)」と
等しい概念を持つものなのだ。


このように
これまでの我々の科学は、

実はこの0次元世界「実体」にたどり着くことが
その最終の目的であった。
この世界は何故存在するのか、
その探求の先にある終着点が
「存在する無」だったのである。

だからこそ皆さん、
これからは新しい科学が始まる。
無を理解する科学「次元理論」は
これまでとは逆に0次元世界から始まり、
我々の世界の構造とその存在する理由とを
明らかにする。
原理や法則の探求が科学の目的ではなく、
本当の科学とは、
その原理や法則が何故そこにあるのかを
我々に理解させるものでなくてはならない。
従って科学は今ここから生まれるのだ。

「存在する無」は実体として、

点として
線として
空間として
時間として
物質として
命として
人間として
現実に我々の世界を構築する。
この「無」が
我々の世界に存在する理由を与え、
人間の本当の姿も教えてくれるだろう。

だからこそ我々は
この世界の真実の姿を
学ばなければならない。
人間の希望がどこから生まれ、
我々を何処に導くのか、
人間の存在する本当の理由を
我々は知らなければならないのだ。

存在する無は世界の起点である。
この存在する無の延長線上に
人間は存在する。
従って人間を理解するためには、
まずはこの世界の理から先に
我々は理解していかなければならない。


ではここまでの「存在する無の概念」をまとめておこう。
落ち着いて少しずつでもかまわない、
ゆっくりと理解して頂きたい。

この世界には何も存在しなかった。
すなわち世界の始まりは「存在する無」である。
この「存在する無」は
「永久に無限大に無の存在する宇宙」として、
0次元世界(完全無)を発現させる。
つまり「存在する無(個)」という実体と、
「完全無という世界(全)」は同じものであり、
これは同一である(世界原理)。

「1次元世界」(線の概念世界)は
「0次元宇宙」という実体が生みだした
同じ概念を共有する(同時に存在する)「次なる宇宙」である。
「無(実体)が永久に無限大に連鎖する完全無の世界」0次元と同様に
「永久に続くないのにある点(実体)の概念の無限大の連鎖」という線の世界。
0次元世界と1次元世界は「存在する概念が異なるだけ」の
同じ世界であり、同じ実体である。
(ライプニッツはこの「同じ実体」をモナドと呼ぶ。
現在はモナドという言葉の方がまだ認知度が高い為、
あえて併記させて頂く。)
こうして0次元世界は、
1次元世界に「無限大」(永久に続く、あるのに存在しない)
の概念をあたえる。
したがって「1次元宇宙」は、
「無の概念(点)」が果てしなく連鎖するだけの世界(完全無)である。
このように0次元世界と1次元世界は同一であり、
「この世界には何も存在しなかった」という現実に変化はおこらない。
1次元世界は0次元世界の一部分(同じ部分を持つ)であり、
この両者は同じ概念を共有する。
そして「1次元宇宙」における「無(点)の概念が果てしなく連鎖する世界」
それが「線の概念世界」である。
このように「存在する無」という実体は、
「存在を持たないのに存在する」同じ実体として
「点」の構成要素である。

つまり線世界の実際の起点は、
数列の「0」ではない。
線世界を構成するすべての点が
「0」 とも等しい「ないのにある」という起点である。
この線世界に「マイナスの概念による存在の確定」などは必要なく、
存在する線世界自体が、
存在しない面世界の実体なのである。
こうして一見たしかに存在する1次元宇宙「線の世界」ではあっても、
「線世界」は0次元世界の部分として生まれ
「無の延長線上」に「実在する概念世界」である。

1次元世界はこれまでも科学的にとりあげられる機会はあった。
しかし1次元世界が実在し、
その概念が「無」によって生みだされという現実を
我々が理解できる理論はこれまで存在しなかったのである。
「完全無」が実在する以上、
「1次元世界」も同じものとして同時に実在する。
つまり「0次元世界」は無限大の概念をつくりだせる唯一の実体であり、
「無、ゆえに無限大」とは「無が果てしなく永久に存在する」
という意味である。
そしてそのためだけに1次元以降のすべての次元世界にも、
「無と無限大の概念」は与えられている(無の部分を持つ)。
点を構築する唯一の構成要素は「存在する無」であり、
点は無の部分によって存在するからである。

こうして1次元宇宙「線の世界」は、
その全てに「0次元世界」を含むことによって成立する。
概念としての「線」を支える存在は、
「無の概念」をもつ「点」以外にはなく、
この「点の概念」の実在が「無が実在する」ことの証明である。

「無」とその同義語である「無限大」、
この2つの概念の内側においてのみ
「点の概念」は実在する。
したがって「点」は無の概念を宿す(同じ部分を持つ)「存在する無」である。
けれどもそこに現れた「無」は、
もはや「0次元世界」の「存在する無」ではなく、
それはすでに1次元世界に現れた
実体としての点である(無は点の部分を持たない)。
そして次元世界では、
2次元世界以降のすべての次元世界も数列の概念(1次元世界)を
その世界の「構成要素」として含むため、
現在数字や数式は万物の現象をあらわす尺度とも
成り得たのである。

このことでさえ人類は、
これまでは「経験論」で判断するしか方法をもたなかったのである。
このように数字や点のもつ本質は「存在する無の概念」であり、
その実体は常に0次元世界の概念に回帰する。
従って「この世界には何も存在しなかった」という「無の実在」は、
同時に「1次元世界以降のすべての次元世界が存在する」
という意味とおなじ概念を宿す。
すなわち無の部分として同一であり同じものとして存在することは、
それが無の概念によって成り立つ世界で実在するということである。

数学の基本ともなる「数列」は、
「0が起点となる無数の点が存在する線世界」
をその「前提」としてはじまる。
それが我々の「科学のはじまり」であり、
同時に「約束された認識」でもあった。
人々はその約束事があらゆる現象の理解に役立つことを知り、歓喜した。
けれどもそれは人間の生みだした「発明」と「道具」であり、
我々は実際何を「点」と名付け、
何を「数列」とよんだのかは知るよしもなかったのだ。
しかし我々はいま「完全無」を理解して、
「1次元世界」の存在を知る。
「0」や「数列」は、
「知識」の本当のはじまりではなかったのである。
それらは単に「実在する無の概念」を模倣した
人間の作ったただの「ものさし」にすぎない。
「完全無」を理解する「次元理論」だからこそ、
その理解が成りたつのである。
つまり点の持つ概念のなかで、
我々人間が都合良く解釈したのは「ある」という部分だけである。
けれども点の概念の真意は
「体積も面積も持たない(存在を持たない)」という側面にこそある。
始まりはやはり「存在する無」なのだ。


いかがであろうか。
我々はこれまで「数式が世界を統合すること」を、
かたくなに信じてきたではないか。
かたくなに信じること、それを人間は「信仰」として定義する。
けれども、なぜそれがそうなったのかを「理解すること」、
それが本当の「科学」である。
このように我々のあらゆる知識は
「無を理解すること」によって、
初めてそこから全てが始まるものだったのである。
我々は今後も数式を信頼することはあっても、
その信頼を信仰へと変えてはならないのだ。
我々は先立つものを取り違えてはならない。

「無」が「有」をつくりだした(同一)ということは、
数式では絶対に理解することはできないし、
我々がこの現象を理解できれば、
その必要もまたないことである。
これらは「存在する無」という大前提から派生した、
知識のまだ前提部分にすぎない。
したがって次元理論は、
「この宇宙には何も存在しなかった」
という世界の大前提からつづく、
知識の根幹である。
この数式ではあらわすことのできない次元発生のメカニズムを、
私は以下「次元共有の大原理」(共有される世界原理)として記述する。
これは
「次元世界においては
実体とその概念世界は同一のものであり、
全ての次元世界は単独では存在できない。
ある次元世界は前の次元世界を土台として
必ず次の次元世界を生みだしながら、
概念を共有する(部分を持つ、部分を与える)ことによって
その共有世界を共に実在させる」
という、次元世界が存在するための基本原理である。
単純に述べれば、
これは次元世界が実在するための「必要十分条件」のことである。
そしてその全てが「存在する無」という一つの世界の同じ部分である。

後述とさせていただくが「次元共有の大原理」、
これこそが科学者たちが探し求めた科学の真理であり、
宗教家たちのいう神の奇跡である。
次元世界がつぎの次元世界をつくりだす節目、節目において、
この「次元共有の大原理」がはたらく。
そしてこの大原理こそが、
あらゆる次元世界に共通する「世界創造のための力学」なのだ。

このように我々の世界は、
ただひとつの次元世界(あるいは宇宙)によって構成されるものではなく、
いくつもの次元世界が必然的に概念を共有し合い、
その上で全ての宇宙(ひとつの世界)が成立する「多重次元構造」をもつ。
この世界に絶対的に存在するものとは「存在する無」しかなく、
この「完全無」もまた、
単独ではその存在を保つことのできない世界である。
そのために「完全無」の概念を支える世界「次元世界」は出現し、
その「次元世界」が実在するための必要十分条件として
「次元共有の大原理」は存在する。
この大原理を理解すること、それが
「無から始まるこの世界を理解する」ことであり、
あらゆる存在を理解する最初の知識(本来の宇宙の姿)となる。

『「存在する無」と「完全無」は「同一」である』(個は全なり)
『「完全無」と「点の概念」は「同一」である』(全は個なり)
この理解は、
次元理論の柱ともなる重要な知識である。
もしもこの章までにこの現実を理解することが出来なければ、
それは私の伝え方に問題があった為かもしれない。
私は今後、多くの皆さんの手によって次元理論が切磋され、
複数の新たな書き手によって
この科学が磨かれていくことを望む。
それまではどうか
私の拙い文章ではあるが、辛抱強く付き合って頂きたい。
願わくば、これが夜明け前のひとすじの光となる事を。


さて次回より次元理論の論点は
空間世界の発現から時間世界(流れる時間の正体)の解明へと移っていく。
だがその前に、
次元共有の大原理(世界原理)だけは
是非とも理解して頂けるようにお願いしたい。
これは新しい科学(大統一理論)の前提である。

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